2015年10月27日火曜日

なっちゃん、整理

息子の名前が「なっちゃん」なので、ジュースのなっちゃんの缶を集めて、20年くらいになります。
大きな打撃を受けたのは、2011年の地震で、高いところに乗せておいたのが、すべて転げ落ちました。
缶がつぶれてジュースが浸み出るもの以外残しておきましたが、傾いた缶など整理できていない状態で、棚の上に雑然と置いてありました。

まわりのものとは異質ななっちゃんの缶類は、数があるので目立ちます。訪ねて来た人の多くがなっちゃんの缶に目を留めて、
「あらっ、これはまたどうして置いてあるのですか?」
などと質問されることも多く、なんとかしなくちゃと思いながら、何年も経ってしまいました。でも、片づける機が熟しました。

 
ペットボトルは、当たり前ですが、印刷したプラスティックシートを掛けただけです。
これは全部思い切って捨てることにしました。


それでも、往生際が悪くて、キャップだけは残しました。


なっちゃんの缶で溢れかえっていた棚の上には何もなくなり、すっきりしました。
さて、残しておくなっちゃんの缶はどこへ置きましょうか?


あまり目につかない、ちょっと高いところに並べてみました。






2015年10月26日月曜日

ラムネビン

先日の骨董市で、まことさんの店をのぞいたら、小さな、六角形のラムネビンがありました。
あぁ。ラムネビン好きなんだけどなぁ。
手に取ってみると、中の玉が底まで落ちています。
「おやっ、欠陥品かな?」
と、三本あったビンをチェックしてみたら、全部、玉が底まで落ちていました。

その日は、まとこさんの店には、染めつけの豆皿や小皿、そのほか細々した素敵なものがいっぱい並んでいました。
金継ぎした豆皿や箸置きほどの豆々皿、かわいくて見飽きませんが、二人暮らしの我が家にお皿をこれ以上増やすのは無謀です。
と、小さな小さなひょうたん形のニッキ水のビンが目に入りました。ニッキ水のビンは無色透明のものがほとんどですが、青みがかった色をしています。
これは値段を聞かないわけにはいきません。
「これいくら?」
「一個500円でいいよ」
「ラムネビンは?」
「そうだなぁぁ。全部買う?そんなにはいらないか」
「買う、買う」
即座にその気になっています。
「じゃぁ、全部で2000円」


というわけで、ガラスビンたちがやってきました。
ニッキ水のビンはずんぐりタイプで、高さ60ミリ、直径35ミリの小さなものです。


どちらも、型からはみ出た、薄い薄いバリが残っています。未使用のものかもしれません。
底がぽってりと厚くなっているのはどういうことでしょう?ニッキ水のビンは普通は薄手で軽いものです。そのため、2011年の地震のときには高いところから落ちたのに、軽さゆえか、一本も割れませんでした。


なりゆきで、三本ともやって来たラムネビンは、何度も繰り返して使われたようで、縁や底近くが、傷ついたり欠けたりしています。
高さ17.5センチ、太さ4センチと小さいビンで、中に入っている玉も、普通のビー玉よりずっと小さいものでした。

六角形のラムネビンの身元を調べたいと、久しぶりに『びんだま飛ばそ』(庄司太一著、PARCO出版、1997年)を開いてみました。

 
『びんだま飛ばそ』には、10本ものラムネビンの写真が載っていましたが、残念ながら、これと全く同じ形のビンは載っていませんでした。でも、底に玉が落ちるのは欠陥品ではなかったみたいです。ビー玉が途中に留まっていては、底まで洗浄するのに邪魔になります。そこで、大正末から昭和にかけて、ビー玉を底まで落として洗いやすくしたビンが開発され、画期的な商品だったそうです。そのわりには、長くは使われなかったのでしょうか?

ラムネ=レモネードが日本に伝わったのは、1853年(嘉永6年)のことでした。米国のペリー提督が浦賀に来航したさい、艦上で交渉役の江戸幕府の役人たちにレモネードを振る舞ったのが最初と言われています。
当時のレモネードは、コルクで栓をしていましたが、コルクは高価で、しかも時間がたつと炭酸が抜けやすいのが難点でした。そこで、もっとしっかり密封したいと、イギリスでビー玉栓のビンが考案されたのは、1872年のことでした。
日本でラムネの製造がはじまったのは1887年(明治20年)のこと、当初はイギリスから輸入したビンを使っていましたが、大阪の徳永玉吉が五年の歳月をかけて、1892年に国産のビー玉ビンづくりに成功しました。


底には陽刻が入っていました。
二本は「○にK」、Kは倉敷鉱泉のビンでしょうか。倉敷鉱泉のホームページの「ラムネ瓶博物館」の二枚目の写真によく似ているような気がします。
Kといえば、川崎飲料もありますが。


そして残りの一本の、「Hのようなマークの下にSと3」の方は、どんな会社のラムネだったのでしょう?

ラムネはレモネードから、サイダーはアップルサイダーからのネイミングですが、味はよく似ていました。どうしてサイダーの方がたっぷりした大きなビンに入っていたのか、子ども心に不思議に思っていましたが、サイダーはコップに注いで二人以上で分けて飲むもの、ラムネは一人ひとりがビンから直接飲むものだったからかもしれません。

アメリカでは、1892年に王冠が発明され、ビー玉入りのラムネビンは百年以上前に王冠に取って代わられました。そして、本家のイギリスでもラムネビンはとっくに消えています。
日本では、ラムネ生産のピークは1953年(昭和53年)でしたが、缶ジュースやペットボトルなど、返却不要の容器が主流になるまでずっとつくり続けられ、今ではラムネビンもペットボトルと使い捨てガラスビンに姿を変えましたが、細々と愛されています。

行楽地で、氷水の中に並んだ冷えたラムネを取り出して、蓋を開けたときのあの幸せ、鼻にぷふぁっとくる炭酸が懐かしい、と言いつつ、もうラムネは長い間飲んでいません。





2015年10月25日日曜日

昭和レトロ花のくびかざり猫


今年の日本招猫倶楽部の復刻猫、「昭和レトロ花のくびかざり猫」です。
復刻猫は、毎年、9月29日(来る福の日)のあたりに合わせてつくられています。


昨年は、金花糖の猫の復刻版だったし、今年は昭和レトロ。
うーん、肩の力が抜けるような猫選とも言えますが、私は結構楽しんでします。


復刻猫は、もう何回目でしょう?
ときにはあまり好きでは猫もあり、そんなときは注文しませんが、それでも毎年、この時期が楽しみです。

骨董猫の復刻もいいのですが、このような、当時はお洒落だった(?)猫もその時代の世相を反映しています。


というわけで、昨年の砂糖菓子の金花糖の猫と、その隣にたまたま並んでいた煤けた猫と、昭和レトロ猫とで記念撮影です。みんな左手を上げていますが、それぞれに雰囲気が違います。

甲乙つけがたいのですが、一つだけ無人島に持って行くとしたら、どれにしましょう?
やっぱり右端の煤けた猫でしょうか。真剣に手を挙げている、犬のように忠実そうな猫。一番いい友だちになってくれそうです。
でも、他の連中のおとぼけて具合も、捨てがたいものがあります。







2015年10月24日土曜日

ビルマの籃胎(四)


ビルマの籃胎(らんたい)の水差しです。
種籾入れ、お寺などに持って行く供物入れ、などなど、籃胎の技法でつくられた道具はいろいろありますが、ビルマの伝統的な形ではない、植民国(イギリス)の影響を受けた水差しは珍しいものでしょうか。


持ち手は、仏教以前にこのあたり一帯に影響を与えたヒンドゥーの流れを汲む形に見えます。唐草が優雅です。


さて、注ぎ口のところはどうやってつくったのでしょう?
丸く編んでおいて、あとで割いたのかもしれません。


籃胎を集めてみると、あったかさが素敵です。
どれもビルマのものですが、右上の籾籠と、もち米入れに漆を塗ったものは、タイ北部、ランナーのものかもしれません。
タイ北部と、それに隣接するあたりのビルマは、もともとは同じ文化圏でした。










2015年10月23日金曜日

ビルマの籃胎(三)


この籃胎(らんたい、籠で形をつくりその上に漆を塗る)の蓋ものを、タイのチャトチャック(週末市場)で見つけたのは五年前、久しぶりにタイに行ったときのことでした。
籃胎にしては珍しい形をしていました。


推測するに、これは籃胎用の独自の籠を編む手間を省いて、ラオスやタイ東北部でつくられる、蒸したもち米を入れる籠を買ってきて、漆を塗り、(きんま)を施したもののようです。


内側を見ると、伝統的な籃胎の下地をつくるのとは、まったく違う方法で竹を編んでいることがわかります。
右と下は、ビルマの古い箱の蓋の内側で、糸のような細いひごをまわして編んであります。
細いひごで、平らに編んだり、急な角度で曲げたりするのは難しい技なので、最近はあまりつくれる人がいなくなったのでしょうか?
あるいは、漆を塗っていた人が、いつもと違う形でやってみたかったのか、お土産ものとして、簡便につくりはじめたのかもしれません。


蓋の縁は、籠目が波打っていますが、伝統的なビルマの籃胎には、このような形はありません。


伝統的な籃胎の蓋ものは、蓋を閉めると見えなくなるところも、手を抜かず、見えるところと同じ模様を施していますが、これは、悪くはないとはいえ、違う(手を抜いた)模様が施されています。


もしかしたら、ビルマではなくて、タイ北部でつくられたのかもしれません。


でも、楽しくてのびやかな模様です。
漆を塗ってしまったら、湿気を吸い取りませんから、蒸したもち米を入れるなら、竹籠のまま方が、きっとおいしいと思います。







2015年10月22日木曜日

ケヤキと格闘?

上から見下ろしたところ

小さなスラブ(床)のコンクリート打ちをしたところと、最初から打っていた部分の隙間に板を渡して、すのこ状の床をつくりました。
ここは踊り場になるところです。コンクリート柱の外側につける梯子を登ってきて一旦踊り場に立ち、ここからはコの字型の柱の内側につけた梯子を登って、屋根の上に出ます。
というのも、作業場なので大きなガラスの天窓をつくりますが、まわりには木が生えていますから、落ち葉などで汚れること間違いなし。汚れたら屋上に簡単に出て、窓を拭こうというわけです。

「コンクリートとの取り合いだから、堅い木を使ってな」
「OK、ケヤキね」
松もありますが、夫が昔、すずきさんの山のを切らしていただいたものの残りも、みながわさんが家を壊したときいただいた古材も、けっこう傷んでしまいました。
 

ケヤキなら、以前材木を買ったときに、かんばやし製材所でいただいた端材が、各種あります。
薪用にといただいた本当の端材でさえ、厚さは5センチほどあるので、小さい、10×90センチくらいの板なら十分採れます。
3枚ほど選びました。


もともとは、捨てるために野ざらしにされていた材ですから、汚れてもいれば、カビも生えています。でも、削れば中はきれいなはずです。


問題はねじれや反りです。
もしあまり反っているようなら、もとが5センチ厚の板でも、まっすぐになるように加工したら、3センチ厚の板もとれません。


それと、ケヤキは「暴れる」くせがあります。
鋸で切っているうちに、切っているそばからねじれて、それが内側に縮むと、鋸の刃をしっかりはさみつけて煙が上がり、前にも後ろにも進めなくなります。
そんなときは電源を切ってから、バールなどで力づくで丸鋸を救出するしかありません。たいていは、切ると広がっていく方向に見当をつけて切るのですが、この材のように裏面には平らな部分が少ない場合は、どうしても、平らな部分が多い面に印をつけて、絞めつけられてしまうことになります。

 
 
板の反りやねじれを取るには、片面を鉋で平らにしたのち、自動鉋に入れ、反対面を削って平らにします。
35ミリ厚くらい欲しかったのですが、思いのほか反っているのがあって、32ミリ厚の材しか採れませんでした。


それでも、なんとか、6枚の板を切り出しました。

  
完成したすのこの床。


上の天秤梁もケヤキだから、ケヤキの床で大正解でした。黒ずんでいるのは、中まで変色してしまっているものですが、あまり見えないところなので使いました。
「蜜蝋を塗ったら目立たなくなるだろう」
と夫は言いましたが、未晒しみつろうワックスを磨り込んでも、ちょっと目立ちます。


もっとも、作業室から見上げると、裏面にきれいな面が出るように使ったので、気になりません。
スラブの型枠も外しました。






2015年10月21日水曜日

ビルマの籃胎(二)


パゴダのような形の蓋ものは、ビルマの、ごちそうやお菓子を入れてお寺に運ぶ器です。
結婚式などにも使われたのかもしれません。

漆の下地は、籃胎(らんたい、籠で形をつくりその上に漆を塗る)でできていますが、蓋の尖った部分は、木を轆轤で挽いたものを使っています。


蓋の内側です。


蓋を開けると、内側に、入れ子のお皿の形をした器が入っています。
ビルマの蓋ものには、キンマー入れにしろ、お弁当箱にしろ、入れ子のものがよくあります。


その入れ子をはずしたところです。
上下に違うごちそうを入れることができます。


本体は、縁で細くなっていて、蓋もまた縁で細くなっているので、ぴったり閉まるというより、蓋を乗せる感じです。
2011年の地震では、蓋がはずれ本体も乗せてあった場所から落ちて、ずいぶん傷んでしまいました。


傷んではがれ落ちたところから、竹ひごと、目地に詰めたものが見えます。


くびれたところは、三段のレリーフ模様、そして下には、蒟醤(きんま)塗りのほかに、金彩も施されていますから、新しかったときは、きっと華やかに光り輝いていたことでしょう。


底は、別に編んだ籠をくっつけています。
思いついて頭に乗せてみたらぴったり乗りました。供物を入れた蓋ものを、頭に乗せてお寺まで運んだのでしょう。

1981年にビルマに行ったとき、パガンの寺院でこれと同じような蓋ものが、あるお寺の仏さまの前に一つ、二つ置かれているのを見ました。
これはタイで買ったもの、タイの骨董屋では、ときおり見かける蓋ものでしたが、実際に使われているのを見たのは、そのときが初めてでした。

当時のビルマは、半鎖国状態でしたが、外貨獲得のため、一週間だけの観光客を、少人数だけ受け入れていました。
入国と同時に、わりと高額の外貨をビルマのお金に両替しなくてはならず、マンダレー、パガンなど行くことを許されているわずかの地域では、到着と同時に観光案内所で、行動や出費状況などを記載した紙を見せて、いちいち細かく報告しなくてはなりませんでした。
町の建物はどれも第二次世界大戦以前に建てられたものばかり、自動車も少なく、牛車が行きかっていて、パガンでは、一日にできるだけたくさん回りたくて、借りきった馬車で、でこぼこ道をおもいっきり揺られたものでした。

寺院に向かって、仏縁日に着飾った人たちが三々五々、この蓋ものを頭に乗せて集まってくる様子は今も続いているのでしょうか?
当時、女性は老いも若きも結って曲げにした髪に、アウンサン・スーチーさんのように生花を挿していました。朝方ははっとするくらい美しく、時間が経つにつれてしぼんだ花は、夕方にはみすぼらしく頭に乗っていました。

あれから、ビルマには一度も行ったことがありませんが、そんな光景は今でも見られるのでしょうか?