『木の教え』(塩野米松著、草思社、2004年)という本があります。
益子の内町工場という古道具屋さんで、「木のいのち、木のこころ」三部作のうち、
『木のいのち・木のこころ・地』(小川三夫著、草思社、1993年)に出逢いましたが、やはり内町工場で、『木に学べ』(西岡常一著、小学館、1988年)と『木の教え』にも出逢い、期せずして同じところから、三部作ではありませんが、小川さん、西岡さん、塩野さんとお三方の本を、合計してワンコイン以内で揃えたことになりました。
西岡さんが法隆寺の大工さん、小川さんが宮大工でいらっしゃるのに比べると、塩野さんは物書きなので、経験に基づいた前お二方とは言葉の重みが違うのですが、その分、いろいろな分野の方に聞き書きをして、「木」というものを立体的にとらえようとしたのがこの本でしょうか。
『木の教え』は、宮大工だけではなく、建具屋、舟大工、橋をつくる人、曲げわっぱやかんじきなどをつくる職人、こけら葺き職人、木地師、漆掻き職人、蔓で籠をつくる人、木の繊維で布をつくる人、炭焼きの人など、木を相手に仕事をしてきた人々が、どう木の性質を知り、どう木の特性を生かして使ってきたかを書いた本で、木に携わってきた人々の知恵が紹介されています。
この本で一番興味深かったのは、江戸時代に伊達政宗がつくらせた、外洋に出る船、「サン・ファン・バウティスタ号」を復元(1993年に進水)したという話でした。
サン・ファン・バウティスタ号は推定500トン、スペインの「ガレオン船」をモデルとして、17世紀に建造され、1613年の初航海では、支倉常長などを乗せて、第一目的地メキシコに向かって太平洋を渡った船ですが、船の丸みのある部分、人間でいえば肋骨に当たる部分(肋材)に木の「あて」が使われています。
「あて」は、斜面で根を張った木が、途中から上へと伸びるために曲がった部分のことで、通常の建物には癖が強すぎて使いません。
でも、船では肋材として、割って左右対称で使うというものです。
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| 建造中の復元版サン・ファン・バウティスタ号 |
しかも、洋の東西を問わず、船大工さんたちは「あて」を肋材として使ったらしいのです。
となると、その昔、ヨーロッパ人が船の材料として中東で伐採したレバノン杉の船の肋材はどんなものだったのでしょう?
ヨーロッパ人はレバノン杉がなくなると、東南アジアのチークに目をつけ、船材として伐りました。イギリスが植民地を、インドからビルマ(東インド)にまで広げ、事実上タイも勢力下に置いたのは、ひとえにチークのためでしたが、そのときも「あて」まで伐って持って行ったのでしょうか?
いろいろ想像が膨らみます。
カンボジアの港で、何度も建造中の木の船を見ましたが、もっと目を開いて、「あて」が使われていたかどうか、よく見なかったのが残念です。
曲がっているところつながりの話ですが、手斧(ちょうな)の柄は、生のカシの木を曲げて、紐でくくって形づくると書いてあったのも面白いと思いました。
考えてみれば、手斧の柄は曲がっているのですから、曲がった木の枝を利用するか、曲げるかしかありません。
あらためて我が家の手斧をよく見ると、確かに、曲がったところの木の肌が、無理させられている感じがありました。
生木とはいえ、よくこんなに曲がったものです。
木の性質が生かされてきたことや、道具にはたくさんの知恵が詰まっていることはよくわかるのですが、これらの木に関する本を読んで、ちょっとだけすっきりしないのは、どうして技を残してきたのに、木を残してこなかったのかということです。
西岡さんは、樹齢2000年の木は、その木の特質を生かして建物を建てれば2000年は建ち続けるとおっしゃっています。
でも、木を残してこなかったので、法隆寺の建て替え(完成は1985年)にも、薬師寺の再建にも、台湾ヒノキが使われました。余談ですが、夫の母の実家は、深川で台湾ヒノキを扱う材木商でした。
そして、台湾のヒノキも枯渇したのか、この頃では神社仏閣の建て替えには、ラオスヒノキが使われています。
ラオスの山地に住む人たちの、生活の基盤である森を失う窮状を見てきた者としては、自分の森を持って、20年ごとに建て替えている伊勢神宮の方が、潔いと思ってしまいます。