2021年6月22日火曜日

『青天を衝け』を観る

知人が大河ドラマ『青天を衝け』の、座繰り指導をしたことを知り、観ています。
大河ドラマを観るのは二度目、ドラマはテンポもよく、特に最初のころは、関東でも藍を育てていたなど、興味深いことがいろいろあり、リアルタイムではうっかりして見逃すことも多いのですが、オンデマンドもあり、観続けることができています。


座繰りとは、蚕の繭から糸をつくる道具とその繰糸方法を指します。


これが座繰り機です。


勇の座繰り場面

ドラマの中では、渋沢栄一の母のゑい、妻の千代、妹のてい、そして幼い尾高勇の4人が座繰りをしている場面がありました。
ちなみに尾高勇の父、
尾高惇忠は富岡製糸場の初代場長になる人で、その娘の尾高勇は富岡製糸場の、女工第一号だったそうです。

幕末のことは何も知らなかった私ですが、最近漂民ダンケッチの生涯』を読んだばかりなので、時代感がちょっとだけついていました。
さらに、昭ちゃんの友人で、かつて昭ちゃんがブログを書いていたころに、そこに集っていた月猫姐さんという、江戸研究家の方がいらっしゃいます。月猫姐さんのブログを読むと、『青天を衝け』のドラマを観ているだけではわからない人物像がくっきりとしてきて、面白さが倍増します。 ドラマでは、そろそろ江戸が終わります。
 

2021年6月21日月曜日

獅子かぶり金太郎

日曜日の昨日、起きると雨が降っていました。
「骨董市は無理だろうなぁ」
でも、天気予報では雨があがるとなっていたので、骨董屋さんたちは来て待機しているはずと、お天気を気にしていたら、9時前にはすっかりやみました。
出かけてみると結構な人出で、駐車場も満員、いつもの駐車場には停められず、別の駐車場に停めるほど、知り合いにも、3人も会ってしまいました。そのうちの2人、EちゃんとHさんは、マグノリアくまさんの店にいました。
マグノリアくまさんはいつも美しい品揃え、私は、
「目の保養をさせてくださいね」
と断って見るだけですが、世の中に欲しいと言えるものがそうそうない中、お金さえあれば端から端まで欲しいと思えるような、素適な器が並んでいます。

さて、彼女たちと別れて、おもちゃ骨董のさわださんの店に行くと、私の顔を見るなり、
「あっ、しまった。京都の招き猫、忘れて来ちゃった。こんくらいの小さいやつで座布団がついているんだけど」
と叫んで、親指と人差し指で5、6センチの形をつくりました。
私が京都の招き猫と呼んでいるのはもっと大きいし、京都産寧坂あたりで売っているのはもっと小さいし、見当もつきません。店には常滑系1体と中国製1体の招き猫がいて、そちらは別に勧められもしなかったので、私向きの猫だったのかもしれません。
まっ、出逢えば出逢うし、出逢わなければ出逢わないので、さわださんほど、がっかりもしません。


店先には、金太郎が獅子頭をかぶった、「獅子金」がありました。手に取ると、
「そういうものも集めてるの?」
「集めてるってわけじゃないけれど」
「ええとねぇ、ええと」
「鴻巣でしょう?」
「そうそう。500円!」
古いものとは思われないけれど、ごく新しいものでもなさそうです。


というのは、鴻巣の新しい獅子金の獅子頭には布がついているようなのです。


この獅子金には布は貼りつけてなくて、色が塗られています。しかもそれがかっこいい、後ろ姿がちょっといなせです。
赤ものと呼ばれた、赤く塗った人形は江戸時代から、疱瘡除けにつくられました。
どこかの子どもが疱瘡にかかると、病気平癒のためみんなが赤いものを持ちより、病んだ子どもの枕もとを赤いもので埋め尽くしました。


我が家の赤もののうちの、金太郎さんだけで勢ぞろいさせてみました。
鯛に乗る鯛金、熊に乗る熊金、猪に乗る猪金、そして獅子を被った獅子金というわけです。





2021年6月20日日曜日

北海道の背負い籠


ひょんなことから、「北海道に残存する背負い籠の形態と用途」という抜き刷りを見つけました。
もとの報告書は、『北海道開拓記念館調査報告 第30号』というもので、抜き刷りの部分を書いた人は、舟山直治・氏家等となっています。『北海道開拓記念館調査報告 第30号』は1991年に上梓されていて、同年に抜き刷りもつくられています。
たった20ページの抜き刷りですが、当時すでに消えかかっていた北海道の竹でできた背負い籠について、地域、用途、つくり方などが紹介されていて、興味深いものでした。
舟山直治さんは、北海道博物館の学芸員で、さまざまな時代や地域を経て北海道に伝わった有形・無形の民俗資料を対象に、それぞれの経緯や過程を整理するとともに、それらが積雪寒冷地で伝承されている意義とその役割について、考察されている方のようです。

北海道の背負い籠といえば、すぐ思い浮かべるのが木のモッコです。


私が、2019年にのらさんのお世話で北海道に行ったとき、興味津々で眺めたのは、ニシン漁が盛んになるとともにたくさん使われ、ニシン漁衰退とともに消えてしまった木のモッコでした。


干からびたニシンのうろこが残っている木のモッコを見て、当時の賑わいを思い浮かべたりもしました。
そのときは、寒冷地の北海道では竹細工はさして盛んではなかっただろうという先入観があり、各地の博物館で竹籠を見ることがあっても、「本州から、もたらされたものだろう」くらいに思って、さして気にもしませんでした。事実、本州から持ってきた竹籠、本州からの行商人から買った竹籠などを目にしました。

そんな竹細工の背負い籠について、全道とまではいきませんが、たくさんの町村で実際に使われているものや、資料館の収蔵品を見て、まとめられているのがこの抜き刷りです。
道がまだ少なく、舗装されてもいなかった時代、竹の背負い籠はとくに内陸部に多く見られ、畑仕事に行くときなどに使われました。当時も、リヤカーや一輪車はありましたが値の張るものであり、ものの運搬には背負い籠が一般的でした。
畑仕事、買いものなど目的別に違ったサイズの背負い籠を持っていたり、家族一人一人の背負い籠を揃えていた地域もあったようです。

積丹町

海辺でも、竹の背負い籠は木のモッコより軽いので、自家用の昆布などを取りに行くときに使われました。


この抜き刷りでは、北海道で見られる背負い籠を、6種類の形に分けています。
どうやら、用途によってさまざまな形になったというより、出身地の形を踏襲して根づいたものが多かったようです。
呼称も、ショイカゴのほか、タンガラ(福島出身者)、タガラ(新潟県出身者)、モッコ(宮城県出身者)、ツンボリ(富山県、福井県出身者)など、出身地によって別の名前で呼ばれていました。

標津・函館 屏風絵、部分

1860年に描かれた「標津・函館 屏風絵」の中に見える背負い籠は、分類6の漏斗形です。


史料が少ないので断定はできないとしながらも、この抜き刷りでは、北海道での背負い籠の起源は、1818年に書かれた『模地数理』の中の「松前の物売り 夜番の図」にある「連尺」ではないかと、推察しています。
連尺って何?
なんと、背負い紐のことだそうです。知りませんでした。

竹籠は、本土の行商人からももたらされましたが、北海道内でも製造されました。
ほとんどの籠は根曲がり竹(チシマザサ)でつくられましたが、底の補強などには、本州からの真竹も使われました。

利尻町

底が補強されてない背負い籠を使う地域では、底がすぐ抜けるので、布で補強したり、荷負い縄と梯子で支えていたそうですから、底に差し込む真竹は、手に入りにくかったり、遠くから運ばれてくるので高価だったりしたのかもしれません。

通常、竹細工の技術は親から子へ、あるいは親方から弟子へと伝承されます。北海道における技術は、移住前に習得されていたものが多いのですが、北海道において技術が習得された例もあります。

講習会

大正8年から各地で行われた副業奨励政策の一環の講習会では、多くのつくり手を育てることができました。講習会では、手籠、椀籠、目籠、カツギ籠、ショイ籠、ホマザル、豆腐籠、雲丹籠などの生活用具がつくられ、販売もされました。
主要な市町村では、籠師として専業化する人もいましたが、農家の副業としてつくられたものも数多くありました。

農村部での背負い籠の利用は、昭和30年前後、袋入りの化学肥料が売られるようになってから、堆肥の運搬の必要がなくなり、廃れていきます。

浜益町

さて、この抜き刷りには、これまで私が見たことがなかった、フゴ形(ビク形)の背負い籠が、北海道各地で使われていたことが報告されています。

2005年1月8日の朝日新聞。高知市の福井浩之さんのコレクション

思いついて、以前朝日新聞に掲載された、日曜版の連載「こだわり博物館」の中にあった背負い籠コレクターの方の記事を出してみましたが、この写真で見る限り、ビク形の背負い籠はありません。
背負い籠は、重いものを入れるので、底を頑丈にでつくることと、背負い紐をしっかりつけることが重要です。
この写真でもわかるように、多くの背負い籠は縁に背負い紐をつけています。背負い籠は、紐をつける部分が壊れたり、縁が壊れるなど、つけ根に力がかかる宿命を持っていると言えます。

神恵内村

ところが、ビク形にすれば、くびれたところに紐を回して、それに背負い紐をつければいいので、一点に力がかかりません。なかなか良い方法です。
北海道以外でつくられていた事例もあったのでしょうか?

浜益町

この抜き刷りでは、ビク形の背負い籠が普及している理由として、悪路を歩いても、中のものが飛び出しにくいことをあげていますが、背負い紐をつけるのに適していたということも言えるのではないかと思いました。


なんと、私の撮った写真、小平町(おびらちょう)の旧花田鰊(ニシン)番屋の横に建てられた、道の駅の二階の資料室にも、奥の方にビク形の背負い籠がありました。
抜き刷りを参照すると、小平町ではフゴ形(ビク形)と釣鐘形の背負い籠が、郷土資料館に残されていて、いずれも農家で、豆などを運ぶときに使われたものだとのことです。


ビク形の背負い籠がないかと、ネットで検索していたら、フナコレタロさんの背負い籠に関する過去の記事がヒットしました。
いろいろな形の背負い籠が紹介されていて、とくに急峻な山の中で威力を発揮する、底が小さい背負い籠(抜き刷りで言うところの漏斗形)が宮崎県のかるい以外にもいろいろあって、興味深かったのですが、ビク形の背負い籠はありませんでした。

余談ですが、我が家にある日本の背負い籠といえば、かるい、関東の丸い籠、そして四角い籠アケビの籠くらいです。
関東形(1の円筒体形)の落ち葉籠も持っていましたが、大切に使っても壊れやすく、とっくに使い倒してしまいました。

追記:

何の関係もありませんが、フナコレタロさんのコメントに応える形で、2019年に羽幌の博物館に行ったときに撮った、籠の写真をUPします。


台所道具の棚に、米揚げ笊、みそこし、うどんすくいなど見えますが、どれも本州からもたらされたものだと侮って、説明札など読んでもいませんでした。


また、穀物用の漏斗も見ました。お米だけでなく、小豆や大豆にも使ったものと思われます。
小平町ほど大規模ではありませんが、羽幌にもニシン番屋が立ち並んでいた時期もあったようでした。




2021年6月19日土曜日

梅雨らしい日

今日は朝から、雨が降っています。梅雨に入って、初めての梅雨らしい日ですが、昨日は、朝のうちは珍しく、盛大に晴れていました。


ガルバリウムの屋根を葺いていたのですが、熱い!
ルーフィングの上も木材の上よりずっと熱いのですが、ガルバリウムはもっと熱い。屋根材だけでなく、バールなどの工具も、素手で持つには熱すぎるほど、熱を吸収しています。作業しながら、ときどき板張りの場所に移動して、涼を取りました。


そんな暑さの中、ふと見上げた空、きれいな、鹿の子みたいな雲ができていました。


そんな雲がどんどん増えて、午後からは曇り空となり、夕方の蛇神を見ることはできませんでした。


今日は一日雨のようです。




 

2021年6月18日金曜日

青天

久しぶりに、朝から晴れ渡っています。


なので、我が家には蛇神が現れました。


雨どいにするつもりで立てたコンクリートの柱に、瓦屋根の軒先がちょうど影を落としてギザギザ模様になるのを、勝手に蛇神と読んでいます。
蛇神は、陽が南に傾く時期だけ見えますが、まだ日の出が遅くて、太陽の位置が低い季節にはきれいに見えません。反時計回りで、刻々と陽の当たる部分が移動します。


夕方まで晴れていれば、反対側からも見られるはずです。


朝、8時ごろのことでした。





 

2021年6月17日木曜日

小さな旅


お菓子を買いに行った日に、見るつもりで行ったのではなかったけれど、食事をした場所の前に、ハナショウブが広がっていました。


池のほとりのカエデの老木。


葉が、傘のように広がって、よい陽陰をつくっていました。


崖から小道の上へと光を求めて、水平に茎を伸ばしたヤマユリ。しっかり陽が当たるので、実もたくさん生ったようでした。
すぐ上には今年の茎が伸びています。


帰りに、海に廻って帰ってきましたが、海のごく近くだけ霧が出ていて、海は見えませんでした。
波止場の霧なんて、歌では聴いたことがありましたが、海辺でこんな濃い霧を見たのは、もしかしたら初めてだったかもしれません。




2021年6月16日水曜日

なべやの粽

 いつもはどこかに遊びに行く計画を立てても、時間が経つにつれて、
「今日はやめようか」
「やめよう、やめよう」
となってしまい、どこにもいかない私たちですが、珍しく出かけました。
「どこに行きたい?」
「常陸太田のお菓子屋さん」
いつか機会があったら食べてみたいと思っていた、「なべや」の粽(ちまき、笹団子)を買いに、常陸太田に行きました。


10個だと、籠に入れてもらえます。


粽は1つ150円ですが、10個入りの籠は2000円です。


なべやさんは、創業が明治8年(1875年)、もともと、粽は籠に入れて売っていましたが、籠をつくる人がいなくなって困っていたところ、幸運にも行方(なめかた)に住む勢司恵美さんにたどり着かれたようでした。


渋い包装紙を取ると、


粽が10個入った籠があらわれます。
しばらく前まで、桃、梨、みかんなどは、特に観光地では籠に入れられて売られていました。しかし、その籠はというと数を稼ぐために雑につくられたもので、ひごは均等ではないし、折れていたりけば立ったりしているしで、とても取っておきたいという代物ではありませんでした。
しかし、勢司さんのひごはなめらかに仕上げてあり、捨てることなどできない美しさです。


粽は笹の葉に包んで、イ草で結んでありました。
今でもイ草が流通しているのも嬉しいことです。


勢司さんは、昔ながらの竹細工を踏襲していくことに徹している、骨太の籠師さんです。
つくるものは、真竹を使った生活道具のほか、籠玉、香取神宮の御田植祭につかう傘、神社のお祭りで使われる塩籠など、伝統の籠なのにつくり手がいなくなって困っている分野でも活躍されています。
この籠も、重いものを入れるわけでもないのに、底には3本の補強材を入れるなど、行き届いています。

余談ですが、いつも大相撲を見ていて、不思議に思うことがあります。それは、塩籠が青いことです。
青竹でつくったかごは、できてすぐは青々していますが、すぐに色が褪せ、やがて飴色にと変色していきます。ところが大相撲の塩籠はいつも青いのです。
きっと、塩籠を毎回つくる方がいらっしゃるのでしょう。鵜飼の鵜を入れる籠といい、神社で祭礼に使う籠といい、長く続いてきた行事が技術を次世代につないでいく一助となっているのが、面白いことです。

余談のまた余談ですが、なべやさんのすぐ近くのお菓子やのくじら屋さんにも寄ってきました。


くじら焼。小豆餡とカスタード餡。


お菓子三昧の一日でした。