『たくさんのふしぎ はじめちょろちょろ中ぱっぱ』(森枝卓士、文、絵、福音館書店、2024年)はご飯の話、見るとよだれが出てきて、お腹がすいてきます。
小さいとき、羽釜で炊いたご飯で育ちました。
今思うと、戦後出回っていた「農林〇〇号」というお米は現在出回っているお米のようにおいしくはなかった気がします。ご飯は一日何回炊いていたのか、子どもだったのでうろ覚えですが、朝は祖父の好物の芋粥の日が多かった記憶があり、夜は温かいご飯だったでしょうか。
祖父母の家の台所はこんなに広くはないけれど土間で、竈だけでなく七輪も置いてあり、おかずは七輪で料理していました。七輪で焼いた焦げのある固いホットケーキの味が忘れられません。
さて、タイで2年3カ月、カンボジアで2年10カ月暮らしましたが、その間ずっとこのタイ製のアルミのお鍋でご飯を炊いていました。タイでの正しいご飯の炊き方は、『はじめちょろちょろ中ぱっぱ』にあるように、たっぷりのお湯でお米をぐらぐらと茹でて、そのあと粘り気のあるお湯は捨てるのですが、私は日本式、というかはじめは強火で沸騰したら極弱火にして8分ほど炊き、火を消して10分ほど蒸らす方法で炊いていました。また、カンボジアにいるときは白米ではなく玄米(ブラウンライス)を食べていたのですが、圧力鍋もなしに同じ方法で炊いていました。
タイに電気炊飯器が普及したのはいつごろでしょうか、おそらく1980年代だと思います。
1990年ごろ、チャイヤプーン県の山の中の村に電気が引かれたのですが、引かれるとほぼ同時に炊飯器を担いだ行商人が、村々を歩いて回って、炊飯器を売り込んでいたのを思い出します。
タイ東北部、北部、ラオスなどの人々はもち米を主食としていて、毎朝、壺型の土鍋やアルミ鍋の上に竹で編んだ柔らかい籠や木彫りの蒸し器を乗せて、もち米を蒸します。
ところが、炊飯器の普及によってもち米を食べていた家族でも、うるち米を食べるようになったという話を何人かから聞きました。この四半世紀、私はもち米を常食としている村を訪れていないので、いったいどのくらい、もち米を常食する人たちが減っているかはわかりません。
タイは、人口のわりに面積が広いので、狭い日本とは村のでき方が違い、1980年代でも新しい村がつくられていました。そんな村で、もち米を主食としている地域からの移住者とうるち米を主食としている地域からの移住者が入り混じってできたような村では、人々は両方のお米になじみます。
おもしろいことに、もち米を食べて来た人は「もち米でないと、腹持ちが悪い、力が出ない」と言い、うるち米を食べて来た人は「もち米を食べると眠くなる」と言っていましたが、私にはどちらの感覚もよくわかりませんでした。
さて、小さいときから当たり前に食べて来たご飯ですが、なんておいしいんだろうと身に染みて感じたのは1990年のこと、カンボジアのバッタンバンの郊外ででした。やっと内戦が終結して、カンボジア(当時はカンプチア)本土が国際社会から国として認められたころで、まだ田舎には電気もガスもないころのことでした。
国連が常駐することになり、国連の車も見かけるようになっていました。タイ国境に近いバッタンバンあたりには、食事をする場所もまだほとんどなかったのですが、その日は街道のそばにポツンとあった、掘っ立て小屋で料理をして、野外にテーブルを置いてあるレストランに行きました。
国連で働く旧同僚と偶然(必然? 国際協力にかかわっている人以外は誰も来ないと思われるレストランだったから)出会ったりして、10人くらいで一つしかないテーブルを囲んでいたのですが、テーブルの上に置いてあるものがやっと見える暗さ、料理にも時間がかかっていたのか、おかずがなくなりました。話は弾んでいたのかどうか、ビールなんかがあったのかどうか、私は食べるものがなくなって、なんとなくご飯に箸を伸ばしました。すると、一口食べてそのあまりのおいしさに、箸が止まらなくなっていまいました。
「何、このおいしいお米は?」
それまで、生まれてからずっとご飯を食べてきて、何となくおかずが主でご飯は脇役のように思ってきたのですが、そのご飯は おかずなど要らないおいしさでした。
訊くと「ソマリ」という香り米でバッタンボンの特産品、衝撃的なおいしさでした。
炊飯器を保温機能に惹かれて使っていたのは、息子たちと同居していた1980年代までのこと、以来長くお鍋で炊いています。
ガーナ、タイ、カンボジアなどではペラペラの薄いアルミのお鍋でご飯を炊いていましたが、土鍋、圧力鍋、ステンレスの鍋などなど、どんなお鍋でもご飯をおいしく炊ける自信があります。
0 件のコメント:
コメントを投稿