2025年5月9日金曜日

子福猫


しばらく前にヤフーオークションで、京都伏見の招き猫を見かけました。
競るのが苦手ですっかり遠ざかっているヤフーオークション。でも、一期一会、今逃したら伏見の猫には一生出逢えない。なんとしても落札しようと最後まで競り合って、手に入れることができました。出品元は広島県の方でした。


伏見特有の子福猫と呼ばれる猫で、前に2匹、左右の横に1匹ずつ、頭の上に2匹、挙げた左手の上に1匹、全部で7匹の子猫が、親猫にくっついています。
欲しいと思ったのは先住の伏見の招き猫とそっくり、菱平の招き猫だったからです。


並べてみました。同一人物の作でしょうか? 別の人の作かもしれない、左の猫の方がなんとなく古く見えます。
前垂れが違うのは一目瞭然ですが、目の上の髭が4本と5本というのも、意外に大きな違いかなと思ったりしました。慣れた手は、つくる人の描きたいように動くので、個体によって4本にしたり5本にしたりすることは、おそらくないと思われます。

『郷土玩具 招き猫尽くし』(荒川千尋著、坂東寛司写真、風呂猫、1999年)より

上は、招き猫ミュージアム収蔵の「子福猫」で、菱平5代目の上田昌子さん作のものです。
我が家に来た子福猫は、右手と脚の間にいる子猫2匹のうちの小さいのが向かって右にいますが、5代目の作は左にいるという違いがあります。前垂れは形も模様も違い、毛の模様も違いますが、目の上の髭は4本で、同じです。

郷土玩具/招き猫十八番より、上田昌子さん作

ネットでもう一体見つけました。やはり5代目の作でしたが、向かって右側、左足の上に乗っている子猫の位置が、招き猫ミュージアム収蔵の子福猫とは少し違います。子猫は別の型でつくって、くっつけてから素焼きするのだと思いますが、この猫では子猫は左右対称に近い位置にいます。


伏見で、戦後まで残った土人形の窯元は丹嘉と菱平のみでした。その菱平は、21世紀初頭まで制作していましたが、今では廃絶しています。


ネットで、4代目の上田平次郎さんや5代目の上田昌子さんのつくられた招き猫たちを見ることができますが、おもにはわりと小さいものをつくられていたようです。
この子福猫の高さは31.5センチ、簡単につくれたり売れたりする大きさではありません。


伏見人形は土人形の元祖と言えるもので、全国各地にみられる土人形はほとんどが伏見人形の影響を受けています。
伏見人形の起源は、古墳時代に埴輪をつくって、殉死の悪習を正した野見宿祢(のみのすくね)の子孫が、土師部(はじべ)として垂仁天皇の時代(紀元0年ごろ)に伏見深草の里に住みついて、土器や土偶をつくりはじめたものとされていますが、今日に見る伏見人形の形態を整えたのは江戸初期でした。
伏見稲荷を背景として民間信仰と結ばれ、江戸後期には最盛期を迎え、伏見街道には60軒もの窯元が並び、約2000種の土人形を生み出しました。
幕末から明治へ、明治から大正、昭和へと時代が変わり、新しい素材のおもちゃが市場に出回るようになって土人形の需要は減りましたが、それでも戦後の1960年代には、丹嘉と菱平で、100種ほどの土人形をつくっていました。
かつて、伏見人形の主要製品は布袋や歌舞伎人形で、招き猫はではなかったとは思われますが、招き猫はいつごろからつくられ始めたのか、『郷土玩具 招き猫尽くし』には、伏見でつくられた古い招き猫も載っています。





 

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