2015年6月19日金曜日

紙ものプレゼント

おもちゃ友だちのいいじまさんから、矢中の杜での、次回の手ぬぐい展のご案内をいただきました。


案内状の中に、紙ものがいくつか入っていました。


この二枚の共通点は、筑波山です。
私はいつも、いいじまさんの郷土への思いに触れるたびに、ちっとも郷土愛のない私を反省します。

生まれた町横須賀には、物心ついてから一度も行ったことがありません。父母が元気なときに、一度は連れて行ってもらえばよかった。もっとも、いつだったか、両親は行ってみたけれど、どの坂を登ったのかもわからないほど、町が変わっていたと言っていました。
子ども時代を過ごした倉敷も変わり、祖母の亡きあとはすっかりご無沙汰です。そして、青春時代を過ごした品川も変貌すさまじく、むしろ行かない方がよく昔を偲ばれるほどです。

いいじまさんと私の郷土への思いの違いは、もしかしたら筑波山がある無しの違い?
いえいえ、それだけではないと思います。


さて、いいじまさんにいただいた、カンタ(=ノクシカタ)の絵葉書です。
日本民藝館で求めたと書いてありましたが、絵葉書には「岩立フォークテキスタイル・ミュージアム」と書いてあります。
岩立さんのコレクションを日本民藝館で見せていたということでしょうか?岩立ミュージアムでは(日本民藝館でも)、ときおり興味深い展示をしていますが、いつも行けずじまいです。


このカンタはおもしろい!
右下のものが何だかわかる人、います?


正解は、ビンロウジュの実を切るはさみでした。
 

ままごと道具の箱に貼るラベルは、貼らずのデッドストックだったようです。

漫画サザエさんの妹のワカメちゃんのような刈り上げの髪、素足の子はぽっくり下駄、靴下をはいた子は甲がゴムの運動靴、二人とも頭にはリボンをつけています。
敷いているのは稲わらの茣蓙、まな板には脚がついていて、七輪や羽釜、炊いたご飯を入れるお櫃らしきものも見えます。
縦8センチ、横10.5センチほどの大きさに、少女たちのあこがれた、「完璧なままごと姿」が詰まっています。

ぺらぺらの紙質も、印刷の色も素敵、可愛さ満点です。






2015年6月18日木曜日

久米の赤物


郷土玩具に特徴的な色と言えば、やはり「赤」でしょうか。
江戸時代の赤は、前右の犬の前垂の朱色や、奥の獅子舞の赤褐色などでした。自然の中にある材料からだけ色を得られる時代から、化学的にいろいろな色が得られる時代になって、緋色は一気に華やかになります。
さまざまな赤は、郷土玩具のつくられた時代を知る、一つの指標にもなっています。


おもちゃに赤を使うと華やぎますが、赤は特別な色でもありました。
江戸から明治にかけて、子どもが疱瘡に罹ると、その枕元を赤いもので埋め尽くして、治癒を願いました。
右側の三つは埼玉県鴻巣の練物、鼻の欠けた熊金(熊にまたがる金太郎)は鴻巣の古作、左手前のイノシシにまたがる金太郎は、産地を忘れましたが土人形です。

練物とは、木くずを膠で固めて、乾かしてつくるもののことです。
かつて下駄の産地であった中山道の鴻巣では、下駄の廃材の桐を利用して練物をつくり、大消費地の江戸に近いこともあって、練物、特に疱瘡よけの赤物の練物の一大産地としてにぎわいました。


これは、岡山県久米郡の土人形、岸川武士(1901-1986年、明治34-昭和61年)の赤物です。

久米の土人形は、文化年間(1804-18年)に、農業の副業として伏見人形をもとに創始されたとされています。
全盛期の明治時代(1868-1912年)には、9軒の人形師がいましたがやがて衰退し、昭和初期には、岸川武士の家、ただ一軒が残りました。
武士の死後、一緒につくっていた妻の留代が跡を継ぎましたが2000年に死去、200年続いた久米土人形は廃絶しました。

岸川武士の活躍した時代には、疱瘡の平癒を赤物に託すという時代は終わっていたはずですが、当時でも需要があったのでしょうか?
面白いのは、鴻巣の赤物との類似性です。


左が鴻巣の鯛金、右が久米の鯛金です。


後ろ右は鴻巣の古い熊金、後ろ左が久米の熊金、前は最近の鴻巣の熊金です。
久米の土人形は、鯛金も熊金も鴻巣の練物とそっくりです。

鴻巣の練物は、関東では高い評判を得ていましたし、郷土玩具の名品でもありました。
その評判が遠く岡山にも届いていて、久米でも伝統的に鴻巣の赤物に似たものをつくっていたかどうか、参照できる資料は全くありません。

以下は私の勝手な推測です。

岸川武士は、大正から昭和初期にかけて土人形をつくっていましたが、戦争の激化によってそれどころではなくなり、農閑期に少しつくるか、あるいはまったくつくらないという状態が、戦後15年くらいまで続いたのではないでしょうか。

私は子どもの頃、久米と同じ岡山県の倉敷に住んでいました。
中学生のとき倉敷を離れ、以後東京で暮らしましたが、学生時代に友人たち二人と北陸・関西を旅行したさい、倉敷にも行きたいという二人を同行して、祖母の家に寄りました。
そのとき一緒だった、私の郷土玩具収集のきっかけをつくったさっちゃんが、倉敷張り子の制作者の家を訪ねたいと言うので行ってみると、なんとその家は、以前訪れたこともある、同窓生の家だったのでした。

私が倉敷に住んでいたころは、町の掘割のあたりはいつも閑散としていて、大原美術館には誰も訪れる人もなく、美術館に遊びに行くと、ひがな一日名画に囲まれてのんびりしていることができるところでした。
ところが、わずか十年ほどで、様子は一変して、掘割のあたりには、『アンアン』や『ノンノ』などを手にした人たちが溢れていて、美術館の絵は他人の肩越しにしか見えないほど、混み合っていました。

その張り子制作者の家も、かつては普通の農家でしかなかったはずなのに、そのときはつくった張り子が並んでいました。
郷土玩具が求められる時代が到来したので、冬場だけ細々とつくっていたものを再開したようでした。
そのことから、久米の土人形も似た状況だったのではないかと思ったのです。

もう一つ、そう推察する理由があります。
郷土玩具がわりと網羅されている、西沢笛畝の『日本郷土玩具事典』(岩崎美術社、1972年)に、久米土人形の記載がまったくないのです。
そのことから、久米土人形は、『日本郷土玩具事典』が編纂される前には衰退していたものの、それ以後、民芸品などのお土産ものの需要が増したことによって、本格的に制作が再開されてのではないかと推察したのです。

この岸川武士の赤物は、最晩年の作と聞いています。
誰かの持ちこんだ鴻巣の練物をお手本にして、生活にゆとりが出てきてからちょっとつくってみたとなると、たたずまいがそっくりなのがうなずけます。

もっとも、久米を訪れたことはないし、あくまでも推測にすぎません。








2015年6月17日水曜日

助っ人大活躍、Part2

熱海から、GさんMさん夫妻が遊びに来てくれました。
地震直後に来てくれて以来、四年ぶりでした。
そのGさんが、夕食後、
「明日はあの栗の木を切りますから」
と言いました。

テラスから南西の方向、敷地境界線の生垣の中に栗の木を二本植えたのは十年ほど前、母屋が完成するよりずっと前のことでした。
確か、境界線上に栗の木を植えた方が先で、そのあとで、植木屋さんにツツジをたくさんいただき、植え込んで垣根をつくったのでした。

栗はよく生って楽しみましたが、一昨年一本枯れ、残りの一本も昨年枯れました。二本とも、花を咲かせ、実をつけるまではなにごともなかったのに、次第に葉を落として弱り、そのまま枯れてしまったのです。
栗は虫が入り易い木です。
このあたりの栗農家でも防ぎようがないようで、早め早めに新しい苗を植えて世代交代させています。
見事だった栗畑が、久しぶりに見るとすっかり若木に代わっていることがよくあります。


さて、残念ながらすっかり忘れていて、Gさんが木を切っている写真は一枚も残っていません。
我が家の手入れの悪いチェーンソーの目立てをするところからはじめて、大きい枝から切り落として、朝食時には太い幹だけになっていたのに、その写真もありません。


一年近く立っていた枯れ木がなくなり、その向こうにあるホオノキの全体が見えます。
ただの棒だったホオノキは大きく育ち、木の下に実生で生えたちび苗も、右奥で大きくなっています。


栗の木を切った跡です。
 

きれいに玉切りにしてくれたので、すぐに薪になります。


「この木は切らなくてはならない木」と、印をつけておいた木が一本片づきました。
 

Oくんといい、Gさんといい、ありがたいことでした。






2015年6月16日火曜日

嬉しいお土産

Yさんと、GさんMさんご夫妻が遊びにいらっしゃいました。Yさんとは一年半ぶり、GさんMさんとはもう、四年ぶりになります。

私の周りに、植物好きの友人はいないわけではありませんが、Yさんはダントツです。
いろいろな植物を見に、気軽く世界中に出かける方で、与那国から帰ったばかり、これからブータンにいらっしゃるそうです。

Yさんは、植物に関しては特別な勘が働くそうで、我が家の庭では、ヤブツルアズキを発見してくれました。
ヤブツルアズキでお赤飯を炊くとおいしいそうです。


そのYさんから、いただいたベリーズのお土産の刺繍です。
ベリーズにも、植物を見にいらっしゃったようでしたが、Yさんは布など手工芸品にも造詣が深く、道端などで売っている、刺繍布を見逃さなかったようでした。


ベリーズは、北はメキシコと、西はグアテマラと国境を接する、ユカタン半島の小さな国で、人口の約半分はメスティーソで、マヤの末裔である先住民は、わずか10%ほどです。
うっかり、お聞きするのを忘れてしまいましたが、たぶん先住民の刺繍だと思われます。


Yさんは、他にもベリーズから布を買っていらしたようでしたが、どれも新しい布が不足しているのか、古布に新しい糸で刺繍してあったと言っていました。
実際、そうなのでしょうか?
『FORK ART OF THE AMERICAS』にも、ベリーズの手工芸品は一点も載っていないし、ネットでも検索できませんが、刺繍した古いブラウスの裾の部分を切り取ったという可能性はないでしょうか?
 

地機(じばた、いざりばた)で手織りにした、幅24センチほどの布を、横に二枚剥ぎ合わせた上に刺繍してあります。
上は切りっぱなしなのに、下は端の始末をした上に刺繍してあります。
もし無地の古布を利用するなら、上の端の始末をしてから刺繍するのではないか、あるいは布が横長すぎると感じたら、下端を解いて刺繍するのではないかという気がしますが、実際に多くの布を見ていないので、はっきりはしません。
 

ベリーズは、四半世紀ほど前に、知人のKさんが熱帯林のトラスト運動をしていたので、初めて知った国でした。
トラスト運動は、原生林の伐採を阻止するため、ベリーズの人たちがその土地を購入する資金を海外から集めて、共闘するという運動でした。
ベリーズには熱帯林が残っているくらいですから、美しい鳥もたくさんいるのでしょう。


ロシアの土鈴は、Mさんからいただきました。
こちらも道端で、女性が売っていたものだそうです。
造形も素敵、レースのような絵つけも素敵です。


薄い薄い。
ロシアの土人形などと比べると、とっても薄いつくり、高温で焼いてあるのでしょう、いい音がします。


大きい方は、抽象化した花(?)の反対側には教会が描かれています。
「○○焼き」といったものではなく、道端で売っていた女性のオリジナルだったのでしょうか?

二日間、Yさんに家の周りのいろいろな植物を教えていただいたり、植物探訪にでかけたりと、楽しい時間を過ごしました。







2015年6月15日月曜日

ニャンコ先生の貯金箱


ニャンコ先生のソフトビニールの貯金箱です。
これまで、ニャンコ先生の小さなフィギュアはいろいろ集めましたが、大きいものには手を出しませんでした。
「買うべきか、買わざるべきか」
発売時から、迷っているうちに、ずいぶん時間が経ってしまいました。これから数年経てば、市場から消えてしまって、決して手には入らないでしょう。
というわけで、決心して(?)、買ってしまいました。


手には、夏目友人帳と書かれた小判を持っています。

まぁ、招き猫はもともと集めていたものだから、すっきりしています。


問題はこちらです。
招いていないので、招き猫以上に迷いましたが、二匹いた方がかわいいにちがいありません。
同じく、ソフトビニールの貯金箱です。
 

首が外せるようになっているので、底にお金取り出し口がなくて、裏返すと、手足には肉球が描かれています。
  

それにしても、大きい!
トラもびっくりです。


手持ちのフィギュアと比べてみたら、まるで化け猫が現れたようでした。






2015年6月14日日曜日

砕石を均しました


一週間前の写真です。
壊れたユンボを修理してもらって、試運転、いざ砕石をまかんとしているところです。
もっともユンボは、あちこちに砕石を分散して、大まかに積むことはできますが、ここには水道管も電気のコードもいっぱいあって、深くすくったり、がぁーと押したりはできません。

隅々まで均すのは、スコップやじょれんを使った手仕事の世界です。


そして今朝の写真。
手前はアスファルトになるところ、室内になる部分は見切りの型枠も設置し、ほぼ平らに均しました。


この上にメッシュになった鉄筋を敷いて、約10センチ厚みのコンクリートを打ちます。


西の大柱の上から、室内を見たところ。
ユンボが入ることを想定して、左の柱の下に見える見切りの型枠は最後に設置しました。
ただ、東西のコンクリートの大柱の足場は、まだまだ外せません。


隠れてしまっていますが、足場パイプの下には、土にめり込まないような足をはかせています。


このまま、足場がコンクリートに埋もれてしまったら、あとで取れなくなるので、パイプの足がすっぽり入るように、ボイド管を使って覆いをつくりました。


こうしておけば、足場を外さないでコンクリートが打てます。
 

建物の西側の屋外作業場です。
ここは大梁を上げたあとでアスファルトを敷くので、手順としてはまだまだ先ですが、写真の右側は、その前にコンクリートで見切らなくてはなりません。見切るとユンボや軽トラックが入れなくなるので、一緒に作業しています。
もっとも中央のブルーシートが見えるところ、すでに見切りのコンクリートを打ってありますが、砕石で覆って、軽トラックを入れているところです。

点々と見えているのは独立基礎、この上に柱が立ちます。


ついでに南側。
こちらは早くに見切っていたので、土を動かすのも、砕石をまくのも、すべて手作業でした。

長く続いた土木工事、背中も腰も脚もへろへろですが、コンクリート打ちも間近いと思うと、浮き浮きします。






2015年6月13日土曜日

『夏目友人帳』


先日、東京郊外の実家に母を見舞いました。
すると、妹のデスクの上に、『夏目友人帳』(緑川ゆき著、白泉社、2005年)が数冊、重ねて置いてあるのが目に入りました。
「あっ、まりちゃん、ニャンコ先生読んでるんだ」
「一巻を読んだら、わりとおもしろかったから、六巻まで買ったんだけれど、同じような話だし、読む暇もなくて。持ってって、先に読んでいいよ」
妹は仕事を持っている上に、母の世話で、忙しい毎日を過ごしています。


ニャンコ先生のフィギュアは大好きで、たくさん持っています。
でも、フィギュアの大もとである漫画、『夏目友人帳』は、これまで読む機会がありませんでした。


『夏目友人帳』は、普通の人には見えない妖怪が見える、高校生の夏目貴志のお話です。
夏目は、小さい頃両親と死に別れ、親戚をたらいまわしされて育ちました。周りの人に妖怪を見た話をすると気味悪がられ、嘘つきと言われ、みんなに疎まれてずっと一人ぼっちでしたが、今は優しい夫婦に引き取られて平穏に暮しています。

ところが、同じく妖怪が見えた、亡き祖母のレイコが妖怪たちの名前を記した「友人帳」を手にしてから、妖怪たちとかかわる機会が増えて、いろいろな面倒に巻き込まれます。

読みはじめは、ちょっと苦戦でした。
手書きの字が小さ過ぎてほとんど読めず、一つのお話も長くて、だんだん読むのがめんどうになってきました。一話が長いだけでなく、とくにクライマックスになってくると、クローズアップした部分的な絵の組み合わせが多くなって、誰と誰が戦っているのか、どちらがどうしたのか、パンチしている手は誰の手かといったことが、全然わからなくなり(わかりにくくなり)、二巻ぐらいですっかり疲れてしまいました。

それでも読み進んでいると、あら不思議、慣れてくるものです。
クライマックスシーンは相変わらず手だけが写っていたりして、何が起こったのかわからないのですが、こちらの想像力がついていけるようになってきました。


さて、全然知りませんでしたが、見慣れた丸っこい、かわいいニャンコ先生は、実際は夏目の後ろに見える大きな獣の、斑(まだら)という名の妖怪で、猫ではありませんでした。
ニャンコ先生は、夏目の用心棒と名乗り、妖怪ですが依代(よりしろ)と同化しているので人の目に見え、夏目の飼い猫として一緒に暮らしています。

ニャンコ先生は、夏目がピンチの時しか変身して斑になりませんが、妖怪のニャンコ先生もなかなか魅力的でした。


昨夜は夢ばかり見て目が覚め、よく眠れませんでした。
その夢というのが、ニャンコ先生もちらっと出てきた、『夏目友人帳』的な夢でした。
寝る前に読み過ぎたのかもしれません。