2026年6月24日水曜日

『明治物売図聚』


『明治物売図聚』(三谷一馬著、中公文庫、2007年)は、江戸風俗の資料画を描いては第一人者の画家三谷一馬さんが、街の風物詩であった明治の物売りを、当時の雑誌や様々な資料をもとに模写復元した労作で、300余点の絵に詳細な解説を加え、文明開化による急速な変化に直面しながらも逞しく生きる庶民の姿を鮮やかに描き出した興味深い本です。
口絵に続く目次は、祭事、食、甘、飴、菜・果、薬、芸、玩具、道具、雑に分かれています。なんといっても食べ物に関する章が圧倒的で、冷蔵庫もない時代、日々の暮らしの基本である食べ物売りが多かったのでしょう。
東京の物売りが中心ですが、大阪、京都、岡山などの物売りも描かれています。

おもちゃにだけ目をやると、ダルマ売り、風鈴売り、羽子板売り、繭玉売りなど、季節限定で売られるものは、「玩具」ではなく、「祭事」の章で紹介されています。

『風俗画報』、明治32年、山本松谷

達磨売り(1)
達磨の製造地は上野国碓氷郡豊岡町(現在の高崎市)で、豊岡達磨、あるいは福達磨とも言いました。行商人は一籠に大小取り混ぜて5、60個くらい運びました。

高崎から東京までは直線でも100キロメートルありますが、歩いて運んだのでしょうか?

『風俗画報』、明治45年、写真

達磨売り(2)
農閑期につくられる目なし達磨は群馬や埼玉が盛んです。達磨市で有名なのは高崎市で、少林寺で開かれる達磨市は盛大です。

この絵は、著者が昔の絵からではなく、写真から絵にしたものです。

『風俗画報』

まゆ玉売り
餅花 其角が句に『餅花や鼠の目には吉野山』などよみて柳の枝にむし餅の円き球をさし歳徳の神棚に供ふるを餅花と云り。当時は家毎に之を飾らぬはなく夜店商人などは新粉のむし餅をまろめて之に彩色を施し宝煎餅、又は玩具の類を結び吊るして子供の翫弄にひさぎしが這は京都より江戸に移りし俗なりしと」(『風俗画報』の説明文)

ちなみに、江戸時代の物売りは男性だけでしたが、明治になるとたくさんの女性の物売りが出現しています。
以下、玩具の章からいくつか紹介します。

『風俗画報』、明治37年、山本松谷画

人形売り
子どもが持っているのは宝寿の玉(貯金玉?)で、台には人形が並んでいます。
解説によると、東京では江戸時代から今戸の土人形が有名でしたが、今戸人形は明治初年に絶え、7、8年ごろに一時制作されたものの、明治13年に再び断絶、昭和初期に土中から原型を掘り出して(関東大震災の後か?)、再度つくられるようになるまで、絶えていました。
この絵は今戸人形がつくられていなかった明治37年に描かれたものなので、人形は埼玉の赤物だろうとのことです。赤物は麦を砕いて挽き割りをつくるときの過剰麦花(?)を煮沸して練った練り物で、1年くらい経つとたいてい虫に喰われて穴だらけになると書いてあります。

これは、著者の思い違いでしょうか? それとも、麦の残滓でつくった時代もあったのでしょうか?
鴻巣では、古くから人形づくりで有名でしたが、1700年代に、地域特産の桐箪笥の制作過程で多量に出るおがくずを正麩糊で練り固めた練り物をつくりはじめました。練り物は土人形より軽くて運送にも便利なのでたちまち定着して今に至っているというのが、定説です。
おがくずの練り物も、接着剤の麩糊が美味しいので、大抵は虫に喰われて穴だらけになりました。

『東京風俗志』、明治32ー35年、松本洗耳画

姉さま人形売り
江戸時代の錦絵に姉さま遊びの図があり、江戸土産のこの錦絵が全国各地の姉さまの顔などに影響を与えたとされています。『おもちゃ風土記』(朝日新聞社編、1958年)によると、全国に80種類ほどの姉さまがあったそうで、江戸時代から明治の初期まで、姉さまは白い紙でつくられていましたが、のちに千代紙などを使うようになりました。


燕売り
『都の華』、明治25年、画家不明
左側、燕のおもちゃです。
「5尺ばかりの篠竹に4尺ほどの細き糸をつけ、其の先へハ経木細工の燕を結付け、尻尾の具合にて風に向へバ忽ち低く飛ぶやうに作れり、昔ハ此の仕掛を蝶とも鳥とも付かぬ形にしつらへしを45年前より始めて(初めて?)燕の形に改めて売出せり」(『都の華』の説明文)
江戸時代には、燕の他に都鳥があったそうです。

みみずく売り
『風俗画報』、明治45年、画家不明
右側、ススキの穂のみみずくは、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内で、10月のお会式に売られました。昔病床の母の全快を祈る心やさしい娘のために、鬼子母神がこのつくり方を教えたという伝説があります。


私も、ずっと昔には雑司ヶ谷鬼子母神のみみずくを持っていましたが、引っ越しを重ねるうちに傷んでやむなく処分しました。
このみみずくは、15年ほど前に思い立って自分でつくったものです。現在の鬼子母神のみみずくの耳も短いのですが、耳は明治の頃のように長い方がかっこいいです。

『風俗画報』、明治33年、山本松谷画

板角力売り
熊本県の日奈久温泉に、同じ板角力が古くからありました。
この絵の板角力は、4本柱に屋根をつけ、下に行司の絵の額を入れて土俵を表していて、東京の縁日で売られました。


子どものおもちゃというわけではありませんが、この「稗(ひえ)蒔き売り」もおもちゃに通じているような気がして、興味深い物です。

稗蒔き売り
資本が少なくてできる商売でしたが、問屋で卸すのは土鉢に稗を蒔いただけのもの、附属の土人形や、泥細工の鷺、もろこし殻の橋、葦の穂の案山子などは稗蒔き屋の売り子の手製細工だったので、不器用な植木屋には稗蒔きを売ることができなかったそうです。


稗蒔きの鉢は今戸の土焼製で、丸鉢、角鉢、小判型の3種類あり、売り子の好みは丸鉢の尺物(直径30センチ)と、小判型の5寸物(15センチ)に集まっていたそうです。
稗はあっという間に育ちます。東京っ子は、束の間の景色の何が面白かったのでしょう?
ちなみに、問屋は下谷入谷町の平井さん1軒だけ、江戸時代から何代もにわたって稗蒔きをつくっていたそうです。ということは、江戸時代から稗蒔きが売れ続けていたということ、初鰹にあんなに熱狂した江戸の人(明治の人も?)ですから、稗蒔きにも何か季節先取りの満足とかがあったのかもしれません。

タイやカンボジアでは、行商のお菓子売りやおもちゃ売りに出会った時はまさに一期一会、二度と食べることができなかったお菓子もたくさんありました。
明治時代、お寿司や牛飯の屋台は毎日同じ場所に店を構えただろうし、野菜、果物、魚などは決まった道を決まった時間に歩いたかもしれないけれど、おもちゃの行商はやはり一期一会、達磨、羽子板、風鈴など祭事のものではないものには、出会うのは難しかったのではないでしょうか。






 

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