2019年7月22日月曜日

ミルク匙

 

ソマリアの木彫りの匙です。
先が大きくひび割れています。民具は、使っていた人が要らなくなったものだから手放すとは言え、使いものにならないほど壊れたものに出逢うと、なんかほっとします。
破れた籠や穴の開きそうな器、結構好きです。

匙は、左右対称ではなくなるほど使われています。
まるで我が家のご飯杓文字のようです。夫がおこげをがりがりと取るので、我が家ではどんな杓文字も、削れていびつな形になってしまいます。


右はソマリアの新しい匙です。
新しいと言っても30年も前のものですが、使わないので育っていません。
古い匙は、柄に開けた穴に親指をあてがうと、しっくりと手になじみます。


持つときに指をひっかける突起が、匙を安定して置く役目もしています。


ソマリアの匙は、ほのかにラクダの乳の匂いがします。






2019年7月21日日曜日

ナガの仕事

先日、友人Yさんの家で、服とバッグの展示会がありました。
Yさんの家は、自身で家畜小屋を改造したり、それに増築したりしてつくられたもので、どこをとっても忍者屋敷のような、美術館のような、とても楽しい家です。

服がかかり、バックが並べてある展示室の一角に、手織りの古い布が重ねてありました。値段がついています。売りものでした。
私がその布を興味深そうに見ていると、Yさんのお連れ合いのKさんが、
「インド東北部に住むナガの織ったものです。広げてみてください」
と言って、一枚ずつ広げて見せてくれました。
Yさんはかつて、タイ北部の手織り布を使った服のデザインをして、縫製をやはりタイでして日本で売ることを生業としていらっしゃいました。タイに通ううち、タイ・ビルマ国境の市場まで運ばれてきたナガの織りものに夢中になり、何年間も、タイに行くたび市場に出かけて、ナガの織りものを運んできた人から買っていたそうでした。


その中の一枚です。

ナガは、インドとビルマの国境沿いのナガランドに住む人々で、約200万人います。かつては集落単位のアイデンティティーを持っていましたが、1963年にナガランドが成立して以来、ナガとしての共同体の意識が芽生えました。


『The Nagas』(Julian Jacobs著、USA)の初版本は1990年に発行されています。
初版本は、第二次世界大戦の戦中(1936年ごろ)や戦後(1947年ごろ)に撮られた白黒の写真を収めた本でしたが、2012年に発行された改訂版には、2008年前後に撮られたカラー写真が加えられ、消えてしまったから逆に集められて写真に撮られたであろう生活道具の数々が、ナガの生活文化をより伝える内容となっています。

2008年

例えばこの写真は、2008年に撮られた室内の写真、高台のついたアルミニウムの食器が壁に掛けられていますが、その形は以前は木や土でつくられていた形を踏襲しています。


これが、同じ形の木の器です。


そして、焼きものでも、同じ形のものがつくられていました。
左は焼きもをつくるための道具です。


ナガの布は、どれも90×170センチほどの大きさで、腰巻にしたり、肩掛けにしたり、毛布にしたりと、多目的に使えるものです。
特徴は、経糸(たていと)を見せ、緯糸(よこいと)を見せない織り方で織っていることで、その織り方を生かして、一部に緯糸で模様をつくっているところです。
裏を見ると、経糸に使ってある縞模様しか見えないことがわかります。
この織り方だと、平織りでも目が積み、風を通さない暖かい布が織れます。


縞以外の模様は、織るときに模様を出したい場所の経糸をすくい、表に模様糸が見えるように、模様糸を刺してつくります。


この写真の竹串が、模様糸を刺すために経糸を拾うための道具です。


裏には、ちょっとだけ影響が出ています。


ナガの布は地機(じばた)で 細く織ったものを、2枚、あるいは3枚とつないであります。
織り方がうまく、布のミミの仕上がりがとてもきれいなので、とてもきれいにつなげています。布によってはあまりきれいにつないであるので、灯に透かして見ないと継ぎ目がわからないものもありました。

布は村によって、家によってさまざまなバリエーションがありました。
織りで模様をあらわすだけでなく、織り模様と刺繍を組み合わせたものや、無地の布に刺繍だけで模様をつくった布がありました。

1947年

これは、刺繍の割合の方が多い布です。


タカラガイを縫いつける村もありました。
Yさんのコレクションも一つ一つが違うものでした。

ナガの人々は家づくり、布、鍛冶、籠、木彫りなどなどすべてにおいて巧みでした。

1936年

1936年の集落の一つです。
家は村によっていろいろな形がありましたが、村人総出で柱を立て、小屋を組み、屋根を葺きました。

1936年

ベッド一つとっても、ただ寝られればいいというものではなく、物語を感じます。
この、手のような羽のような飾りは、何を表しているのでしょう?

2004年

そして、伝統社会が崩れて、近代化の波に飲み込まれ、すでにたくさんのものを捨てて、たくさんのものを取り入れた後での写真も興味深いものです
籠師さんはカジュアルな姿で竹籠をつくっていますが、腕は確かなようです。しかし、これも生活形態や物流形態が変わり、つくり手がいなくなるのは、時間の問題かもしれません。


籠はどれも、息をのむほど美しくできています。


竹を利用したこんな水筒を持って歩き、


こんなパイプで刻み煙草を楽しんでいたなんて、なんて贅沢な時間だったことでしょう。


生活の隅々に、遊び心があふれていました。









2019年7月20日土曜日

醤油さし

わりとお客さんが多い我が家、あまりたくさんの方がグループで泊まったりするときは、台所を開放したり、バーベキューの鉄板を用意したりして、勝手に食事をつくっていただきます。


すると、「調味料はあるから」というのを伝え忘れる私が悪いのですが、どんどん使い残しの調味料がたまっていきます。
で、久しぶりにキッコーマンの卓上醤油さしを目にしました。


かつて、この醤油さしは実家にもあったし、誰でも見たことのあるものでした。


それ以前、どんな家庭にもあった醤油さしは、こんな感じのものでした。
使うたびに「液だれ」して、注ぎ口のあたりには、こぼれた醤油がこびりついていました。食卓を汚さないために、いちいち台布巾で底を拭いたり、専用のお皿の上に置いたりもしていました。それを、このキッコーマンの醤油さしが変えたのです。卓上革命ともいうべきものでした。
調べてみると、1961年に発売されています。
バーコードをつけるなど、マイナーなモデルチェンジはしたかもしれませんが、発売当時のままの姿で、かれこれ60年も経ちます。


この卓上醤油さしはGKインダストリアルデザイン研究所の所長であった故榮久庵憲司さんがデザインされたもので、発売から50年近く経ってから、グッドデザイン賞を受賞しています。


これは1964年のオリンピックの年のキッコーマンの広告ですが、選手村の食堂の卓上には、この醤油さし置かれ、以後、世界各地のレストランにも広がっていきました。


ちなみに我が家では、空きビンにポアラーなるものをつけて醤油さしにしています。


しかしこのポアラー、いくつかあったのが最後の一つになり、しかも醤油が染みついていて、そろそろ何とかしなくてはと思っているところです。
東京の合羽橋に行けるといいのですが、ポアラーを買うだけのために寄るのもおっくう、ネットで買えば送料が高いしで、最後の一つが壊れるまでは、使い続けそうですが、後はどうなるか。

今では、「液だれ」するものの方が少なくなりました。
しばらく前に友人から自分でつくった火入れしていない醤油を小さなペットボトルにに入れてもらったのですが、使うとき「液だれ」しないし冷蔵庫に寝かせて入れても大丈夫でした。こんな快適な生活が手に入れられているのも、プラスティックのおかげと言えばおかげ、複雑な気持ちになります。
ちなみに、火入れしていない醤油は超美味でした。






2019年7月19日金曜日

宝船


茨城県東海村の村松山虚空蔵には、十三詣の日に門前で、真弓馬だけでなくもう一つ売られたものがあります。「宝船」です。
一片の木片をくりぬいて舳先(へさき)や三枚の桁(たらし)をつけたもので、赤、青、黄、墨で彩色してあります。


宝船と言っても宝物を積んだ船ではなく、漁船をかたどったもので、艫(とも)には、「宝」と記してあります。
村松山虚空蔵堂の近くの漁師たちが、大漁と海上の安全を祈願して、これも真弓馬同様、神棚に祀りました。


船底には村松山の焼き印がありますが、ないものもあったようです。


船腹に三つ描かれているのは、蛇の目の紋です。


本体は一枚の厚めの板ですが、上をくりぬいて底の両側を船の形に削ったものに、舳先(へさき)などをつけることによって、船らしくしています。
実際の漁船にも、かつては桁(たらし)がついていて、時化のときなど落ちては困るものを桁に括りつけました。
これだけの桁があれば、転覆してもそれにつかまって生還できたことでしょう。

以下の三つはネットで見つけた村松山虚空蔵堂の宝船です。

村松山虚空蔵堂のホームページより

柏崎コレクションビレッジの展示品より

この宝船は、前から二番目ではなく、一番前の桁がもっとも長くて、桁には模様が描かれてないように見えます。
また、影から、舳先も艫も浮きあがっているように見えますが、私の持っている宝船は、上から2枚目と4枚目の写真でわかるように、舳先から艫まで底が平らです。

ブログ、「鈴をふりふり」より

これも、一番前の桁が長く、桁の模様は青海波ではありません。


そして、『日本郷土玩具事典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)に載っている宝船はよりシンプルで、彩色してありません。
「古くは船腹に赤、青、黄で蛇の目の模様を三つ描いているものもあった」と書かれているので、この本が書かれた1960年代には、桁の短い、彩色されていない宝船だったようです。


というわけで、宝船はいろいろな変遷を重ねてきて、今の形になっています。
実際に行ってみないと何とも言えませんが、現在は、真弓馬も宝船も村松山虚空蔵堂がつくり、授与しているようです。
かつては周辺の農民が農閑期の副業としてつくって門前で売っていたものが、いつごろから虚空蔵の授与品になったのか、おもちゃ一つにも歴史があります。








2019年7月18日木曜日

アセチレンランプ

大工仕事も地味なことばかりやっているし、何も書くことがないなぁと思いながら洗濯物を畳んでいると、アセチレン(カーバイト)ランプが目に入りました。
若気の至り(?)で、ここに来た当時、照明器具として使おうと買ったものでした。


しかも、銅製でも何でもない、ブリキのものです。
結局、照明器具としてはどこにも使いようがなくて、ただの場所取りのままで、今日に至っています。


アセチレンランプは、夜店でしか見たことがなかったので、てっきり夜店で使うものかと思っていました。


しかし、改めてラベルを読むと、漁具でした。
特に夜間の河川でのテナガエビ漁、海でのイカ漁などでは、明かりが長持ちし、アセチレンランプ独特の光による集魚効果も相まって重宝され、近年まで使われていたようです。


長野県須坂の硫黄鉱山のカンテラ

かつて、アセチレンランプは鉱山でも使われ、自動車の明かりとしても使われたそうです。しかし、炭鉱などでは裸火では引火することもあって使用されなくなり、自動車もエンジンの回転で明かりをともせるようになり、使われなくなりました。



こちらは、中にガスを入れたら安定するのか、ぶら下げて使用するだけだったのか、頭が重くてかなり安定が悪いものです。


針金の留め具で、開閉が簡単にできます。


九州地方で発明表彰を受けたとありますが、どこが画期的だったのでしょう?


もう一つのアセチレンランプは、ねじを緩めて倒して開く方式ですが、パッキングのゴムが劣化していて、開けられません。