2018年4月30日月曜日

框(かまち)

作業棟のホールの上がり框(かまち)にする堅木を買いに、いつもの材木屋さんに行きました。


目星をつけたものは、かなり下の方に置いてありましたが、フォークリフトで、次々と上の材木を動かし、見せてくれました。


古くて、ちょっとダメになっているところもありましたが、目星をつけたのに決定、二本買いました。
太くて、そのままでは家に帰ってから持ちあげることもできないので、二つに割ってもらいました。


大きな機械で、正確に二つ割りします。
よかった。
物理的には我が家の万能木工機についている縦挽きの鋸でも割ることができますが、こんな重くて長い材ではほぼ無理です。
万能木工機には、この写真にある円筒形のような、横と上から材を抑えるものがないので、二人で材を押したり引いたりするだけでなく、鋸刃の位置で材を、横についているガイド板に押しつけて、ゆがまないようにしなくてはなりません。
直径の大きい丸鋸もありますが、100ボルトで力が弱いし、堅木なので抵抗も大きく、丸鋸を使っても、こんなに長い材を切るのはたいへんです。


手鋸で挽いていた富嶽三十六景のころはすごいなぁ、現代人は機械の前にひれ伏してしまいます。


二本目を切っています。
挽き終わった材は、手前の人が一本ずつ体重をかけて材の反対側の端を浮かせて、その端を左側のローラーの上落とすと、簡単に移動しました。そのあと、ローラーの電源を入れると、材は奥で待っているフォークリフトのところに、難なく運ばれて行きました。


そしてそのまま、軽トラックに乗せてもらって、


紐までかけてもらいました。

家で降ろすときは、私は5キロ以上のものを持てない半人前の身体なので、抑えたり押したりするくらいしかできず、夫が四苦八苦、なかなか大変でした。
製材機恐るべし、フォークリフト恐るべし。


ところで、この框は、戸のレールの内側につけます。
レールの外側のコンクリートにはタイルを敷きました。レールとタイルの隙間には、これからカラーモルタルを塗って、穴埋めします。


タイルは、立ち上がりに貼るための細いのがなかったので、四角いタイルをタイルカッターで切りました。


レールは戸袋の中まで敷いたので、戸袋に戸を全部収めて、全開にすることができます。


框は、レールより7、8センチ高くなります。
框をつけたあと、室内には、根太を置いて断熱材も置き、そこに足場板で床を張ります。足場板とは、八寸(24センチ)幅、一寸五分(4.5センチ)厚の、比較的安価な杉板のことです。






2018年4月29日日曜日

油ろ過器


世の中は、激しく移り変わっています。
30年前、日本と電気のないタイの農村との交信のため、農村に携帯電話を導入しましたが、それは車のバッテリーほどの大きさ、重さのものでした。電気が隅々までいきわたっていなかったため、携帯電話が普及するのは、タイの方がずっと先でした。
携帯電話が日本でも一般的になってきたのは、90年代の終わりでしょうか、以来、交信手段、情報共有手段は劇的な変化をしました。
そんな、大昔の感のある、30年前に買った生協の油ろ過器ですが、まだ現役です。


フィルターは紙を重ねたもので、ゆっくりとろ過します。


あまり頻繁には揚げものはしないとはいえ、30年も使っているのは、ひとえに、ろ過紙の予備をたくさん買っていたからです。

消耗品は、ついつい多めに買わないと落ち着かない性格の私、ずいぶんたくさん抱え込んでいました。


そのろ過紙が、残り少なくなりました。
最近の生協のチラシでも、この油ろ過器はあまり見かけないし、手持ちのろ過紙を使い切ったら終わりかと思っていましたが、ネット時代のありがたさ、さがすといまでも売っているようでした。
やれやれ。
今はもっといい油ろ過器が出ているのかもしれません。
油が全く新品になるような油のろ過器があらわれない限り、これを使い続けるつもりです。






2018年4月28日土曜日

Svepask(曲げ木の箱、2)

図1


ネットでノルウェーの曲げ木の箱(Svepask)の、蓋の仕組みを描いた絵を見つけました。
蓋をまずAの下に差し込んではめ、Bをくるっと点線のところまで回せば、蓋を閉めることができます。
Bの下の方は円柱になっていて、それを白樺の根や蔓で箱に留めてあります。
蔓で巻く部分をちょっと細くしておくと、Bは上下に動きません。

Pinterestより

こんな写真も見つけました。
曲げ木をつないだ場所と突起の位置が、上の絵とは真逆になっていますが、この箱を描いたのではないかと思われるほど、上の絵とよく似ています。


でも、この模様でこの取っ手のつけ方の箱はほかにも見かけたので、ノルウェーでは、ある時期、よくある形、よくある模様だったのかもしれません。


我が家でお茶入れとして使っている曲げ木の箱も、この方法で開閉します。
片手で、簡単に開け閉めできるので、とても便利です。

図2

もう一つ、お弁当箱などによくある、蓋の閉め方です。
蓋をまず、箱の左の突起に差し込んで、蓋を上から押して嵌めます。右の突起が押されて、ちょっと外側にしなる感じで、はまります。
この方法は、きつくつくってあるものも多く、片手ですいすい開閉するわけにはいきませんが、しっかり閉まって、多少振り回しても蓋が外れることもなく、お弁当箱などには最適です。


蓋の両端をとがらせて、装飾的にしたものもあります。


そして、両端を尖らせてないものもあります。スウェーデンのものです。

北欧では曲木の箱は、なんと石器時代からつくられていたようです。
日本で曲げ木の箱がつくられたのは江戸時代からですから、歴史が違います。北欧では、各種食品の貯蔵だけでなく、曲げ木の箱は旅行鞄としても使われていました。


蓋を止める突起ひとつ見ても、それぞれ特徴があり、自分のために楽しんでつくったとしか思えません。


北欧の曲げ木の箱には、つくった年号を記してあるものが、よくあります。
これは1832年(天保3年)、200年近く前につくられたものです。
日本でも、明治のころは曲木の箱はありふれた日用雑器だったようですが、北欧では、日本同様、あるいはそれ以上に、ありふれたものだったのでしょう。

曲げ木の箱の蓋を留めるのに、大まかには上記の二つの方法がありますが、細かく見るとさらにバリェーションがあるようです。

Bukowskisより

例えばこの二つ、蓋の一方に切り込みではなくて、穴を開けてあります。
上からまっすぐ、蓋を落とすようにすると、左の突起がちょっと外側に開いて、蓋が留まるものでしょう。

北欧の曲げ木の箱を見ると、千差万別でどれも個性的です。
造作が見事なものもあれば、稚拙なものもあります。専門の職人さんもいたと思いますが、多くは農閑期の副業だったり、自分でつくったりしたのではないかと、想像します。


シンプルなもの、彫り模様のもの、そして、ペイントしたものもあります。

北欧の曲げわっぱにはもちろん、ただの木の蓋を乗せたもの、曲げ木の蓋をかぶせたものなどもありますが、それらの閉め方は北欧以外の地域でも見られますが、上記二つは、北欧だけに見られるものです。







2018年4月27日金曜日

ドローン


昨日、近所のIさんが来て、我が家をドローンで撮ってくれました。
しかも、午前中から夕方まで撮ってくれました。


ドローンの写真は、やっぱり不思議です。
左が母屋、右が作業棟。中庭に、私たちとIさんの三人が座っていて、影が長く伸びています。


あれっ、ちょっと前に三日月だった月が、もうこんなに丸くなってきたのでしょうか?
夜の作業棟です。






2018年4月26日木曜日

面桶(曲げ木の箱、1)

瀬戸内で育ったせいか、小さいころ曲げ木の箱を見たことがありませんでした。
弁当箱はアルマイト、おひつは桶づくりのものでした。
曲げわっぱの存在を知り、使うようになったのは、大人になってからでした。

曲げわっぱのお弁当箱と言えば、いまでは日用雑器というより、ちょっと高級なイメージがあります。
ところが、『文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』(林丈二著、柏書房、2016年)を見ると、曲げ木の箱は「面桶(めんつう)」と呼ばれていた雑器で、明治のころには、どんなに貧乏して、家財道具がほかには何もなくても、誰もが持っていたもののようでした。
「へぇぇ!」
曲げ木のことを、知っているようで知らなくて、びっくりでした。
この本は、明治の新聞挿絵を、「路上な目線」で林丈二さんが観察した本で、林さんの手にかかれば、すっかり世の中からは忘れ去られた事実が、あぶり出し絵のように浮き上がってくるのです。


明治16年10月7日の「絵入朝野新聞」掲載の挿絵です。
「絵入朝野新聞」は、文字どうり「絵入り」の新聞で、貧乏な家族を一回読み切りで紹介した実話物語が、毎日のように載っていました。

これは、元は深川六間堀で古着屋をやっていた、六右衛門さん(56歳)一家の話です。病気がちの六右衛門でしたが、女房のおこと(45歳)が目を病んで失明したため、幼い二人の子どもたちを、仕方なく奉公に出しました。
子どもたちの働きでなんとか暮らしていましたが、やがて夫婦二人で大病を患い、やっとよくなったと思ったら、明治14年の火事で焼け出されてしまいます。
子どもたちが給金を前借して、浅草の裏長屋の部屋を借りてくれ、なんとか暮らすことができましたが、六右衛門がまたもや病気再発して困窮するという、果てしない貧乏物語です。
壁が崩れ落ちた部屋へ、孝行な兄妹が駆けつけている絵ですが、わずかに残っている家財道具のなかに、炭入れとして使っている面桶があります。

余談ですが、当時のせんべい布団には、稲わら、反故紙、ぼろなどが入っていたそう、七輪も、割れたのを反故紙で繕ってあります。


さらに、面桶の参考資料として、二枚の絵が載っていました。
物乞いをしていても面桶が必要なので、大切に持ち歩いていたのです。


面桶を施しの受け皿として使うだけでなく、これで白湯(水)を飲んだり、食事もしていたのでしょうか?
二人とも、寝具にするための菰と面桶、あとは竹の杖と竹の尺八を持っているだけです。

曲げ木の産地は、青森(曲げ物)、秋田(曲げわっぱ)、静岡(めんぱ)、長野(めんぱ)、三重(尾鷲わっぱ)、福岡(博多曲げ物)などです。
産地の近くだけで売られたり、手づくりのものを使っていたのだとばかり思っていましたが、明治時代には、東京でも広く売られていたことがわかります。








2018年4月25日水曜日

新しいガラス


ガラスを扱うときに使う吸盤です。
大きなガラスを扱うときは左の吸盤も使いますが、小さいガラスなら、右の吸盤を二つ使います。


二階のゲストルームの南面に、ガラスを嵌めました。
新しいガラスは、塵一つついてないので、吸盤がなければ、はまっているかどうかわからないほどです。
事実、右も左もまだ嵌まっていない時の写真です。


南面の三枚は、嵌め殺し、東西の窓が開閉します。
「網戸はどうやってつけるの?」
窓は、片開きです。
「考えてあるよ」
どう考えても、どうつけるのかまだわかりませんが、私がつくるのだからそのうちわかることでしょう。






2018年4月24日火曜日

家づくりは楽し

日曜日、SくんとOくんの、自力建設中の家を見に行きました。


O家の進捗状況です。
基礎の上に、もうヒノキの土台が乗っていて、5月初旬には棟上げの運びとなりました。


東が入り口、北側には下屋も出ます。


材木置き場には、大工さんが刻んだ材木が、出番を待っています。


梁は、追掛け大栓継ぎでつないであります。


上棟を控えて、わくわくする季節ですが、農作業の一番忙しい季節とも重なっています。
棟上げして屋根まで作り終えたら、今の家に住みながら、ゆっくりつくっていくそうです。

Sくんちの写真は、撮るのを忘れていました。
棟上げの時の写真はあるのですが、コンピュータを別の(息子のお古)にして、写真の保管方法も変えたため、ちょっと出てきません。
家は、窓サッシの取りつけなど、だいぶ、進んでいました。





2018年4月23日月曜日

漢方塩

 

T.Sさんから、「漢方塩」をいただきました。
漢方塩と言っても、何が入っているのか、明記してないので、
「なんだろう?」
と、思いました。
食べてみると、何かこの味知っているぞ、とは思うのですが、何の味か思い当たりません。


小分けにするために、二階の展示室から蓋物を持ってきて入れてみました。
そのとき、我が家で一番小さな匙をつけてみましたが、それでも大きすぎたので、指でつまんで使いました。


そのあと、一緒に益子に行ったら、T.Sさんが小さな匙を買って、プレゼントしてくれました。

蓋物は、タイの染つけに金彩を施したもの、匙はチークですから、こちらもタイから来たものでしょうか?
それとも、最近は元々チークがなかったインドネシアなどでも育てていますから、インドネシアから来た匙かもしれません。

それにしても、漢方塩って、いったい何なのか?
おう、そうだと思って、ネットで調べてみました。
なになに、仁山竹塩(韓国の西岸でとれる塩)を、3年熟成させたのち、3年目の竹の中に入れて粘土で蓋をして、松の木を使って鉄窯で焼く。その作業を9回繰り返した塩だそうです。
松竹梅と土の成分が微量含まれているので、ミネラルが豊富なこと、1600度で焼いているので、緊急時には薬として使える塩のようです。
塩というより健康食品だったのです。


ちなみに我が家の塩は、この十年くらいは生協で買える「沖縄の塩シママース」です。
それ以前の十数年は、「赤穂の焼き塩」を使っていました。八郷に来てからも取り寄せていましたが、面倒になってシママースになりました。
右の岩塩はヒマラヤのピンク・ソルト、専用のミルが壊れて、普通のソルトミルに入れてみたのですが、固まってしまってうまく挽けず、ほぼ出番がなくなっているものです。





2018年4月22日日曜日

戸車


磁器製の蔵の戸の戸車です。
しばらく前にこれを、古道具屋の内町工場で見たとき、あかずきんさんのブログで見たことがあった形なので、戸車かなと思ったのですが、店主さんの話では、碍子など(がいし)など、電気の絶縁体と一緒に出てきたデッドストックだったとのこと、戸車だという確証が持てませんでした。
それで、帰ってからあかずきんさんのブログも含めてネットで調べてみたところ、戸車に間違いないと思って、連絡して取っておいてもらったものです。
全部で500円のものを、何か月も取っておいていただきました。

あかずきんさんは北九州に住んでいらっしゃいますが、玄界灘の浜を歩くと、しばしばこの磁器の戸車が浜に打ち上げられていて、拾われています。


戸車は大小あり、周りと、穴の中にも釉(うわぐすり)がかかっています。


長い棒にしてから切ったのか、この面は概してざらざらです。


雑に刷毛目がついたのもあれば、


何やら絵が描いてあるのもありました。

店主さんの話では、私から、
「蔵の戸の戸車に違いないからとっておいて」
と電話があってから数日後、奇しくも旧家の蔵の戸を引き取る機会があったそうです。そのとき、戸車に注目してみたら、これがはまっていた、厚い戸なので二列になってはまっていた、事前に聞いておいてよかったという話でした。
「で、蔵の戸は?」
「すぐ売っちゃいました」
あぁん、見たかったなぁ。

さて、蔵の戸車と分かっても、磁器製のものは金属の代用品だったのか、それとも、そんなことに関係なく磁器製のものもあったのか、そのあたりは全く分かりません。

ブログ「建築業を営むおっさんの思いつき日記」より

古い蔵の戸にはまっている写真を見つけました。
これは磁器製のもの、

同上

もう少し重い戸には、真鍮製のものが使われていたそうです。
そして、心棒が金属か否か、どうやって留めてあるのか、これを書かれた方にもわからないそうです。