2015年4月30日木曜日

マヨネーズビン


しばらく前に発売されたキユーピーマヨネーズのペネロペ・ビンです。


開けやすい蓋に変えました、ということですが、どうでしょう?


ビンのバランスのためか丈が縮んでいますから、実質値上げが目的の気がしないでもありません。
もっとも、嫌なら買わなければいいのです。

これまで、長年生協のマヨネーズを食べてきました。ところが、この数年はキユーピーマヨネーズを消化するのに追われています。
すっかり商戦にはまっているのです。


さて、新しい蓋に文句をつける筋合いではありませんが、前からのビンとの一貫性は失われてしまいました。
これまでマヨネーズビンが増える一方でしたが、蓋が変わったせいで、歯止めがかかるでしょうか?





2015年4月29日水曜日

独立基礎設置


独立柱を立てるための基礎コンクリート打ちの箱を設置しはじめたのは、二週間ほど前のことです。
まず水糸を張って位置を出しました。
 

ここはアスファルト仕上げの屋外です。
設置する型枠の上端から5センチほどアスファルトに埋まって見えなくなるように高さを決めて、穴を掘りました。
夫が、
「ユンボで掘ろうか?」
と、私の背中を気遣って何度も聞きます。
いえいえ、とんでもない。糸は張ってあるし、ユンボで掘ったら周りもめちゃくちゃになります。それに、ユンボは土の中からドクダミの根を選りわけて、捨てることもできません。
固くお断りしました。ゆっくり掘れば、どうってことありません。


型枠の下に、5センチほど砕石を入れて突き固めます。


そして、水平に型枠を設置します。
型枠には、鉄の棒(丸セパ)が二本通してあるので、その上に既成品の基礎を置けば、出来上がりの高さが予想できます。


この間夫は、私には絶対できない下水道工事をしていました。


水道管を配管し、ところどころに升を埋めながら下水管を設置し、既存の下水パイプにつなげます。


さて、自分で駐車場を建てたいというSさんが、前からコンクリート工事を手伝ってみたいと言っていたので、Sさんのくる日にコンクリート打ちをしました。


鉄棒の下までコンクリートを入れ、既成品の基礎を置いてから、型枠の縁までコンクリートを足します。
合計10ヶ所で既成品の基礎を固定するのに、セメント(25キロ)は3袋使いました。
コンクリートは、セメント1、砂2、砂利3の割合ですから、大きな舟で何度もコンクリートを練りました。


四角い基礎には四角い柱が、丸い基礎には丸柱が乗ります。


明日はOくんが手伝ってくれるので、その準備もばっちり。
まあ、少しずつですが、形になっていっています。



2015年4月28日火曜日

でんぐり


でんぐりを知っていますか?
今では、中国製の単純なものをときおり見かけるだけになりました。


でんぐりとは、厚紙が二枚、その間にハニカムペーパー(蜂の巣のように貼り合わせた薄紙)がはさんであり、厚紙には、それぞれ棒がついているものです。


一本の棒を、360度動かして、厚紙の外側と外側をぴったり合わせたら、きれいに色を染め分けたハニカムペーパーが表れます。


夢のような美しさです。
それでも、ただ360度広げるだけのでんぐりは、もっとも単純なつくりのものです。


これはただの四角い外観、脇にちょっとハニカムペーパーがはみ出しています。


少し広げたときに見える部分は、このまま広がらずに、さらに外にでんぐり返り、その下の別のハニカムペーパーが見えてきます。


うぅん、お見事。あの、ただの四角から、まさかの立体が現れます。

一度、七夕飾りをつくりたいと思ったとき、ハニカムペーパーを買い、ハニカムペーパークラフトの本も買って、とっても単純な、球になるだけのでんぐりをつくってみました。
ところが、切るのも大変、貼るのも大変、色を染めるのも大変、適当な厚紙を選ぶのも大変。しかもできたものが、ゆがんでいて、美しくない!全然思い通りにはいきませんでした。
やれやれ。


これは、この中ではもっともダイナミックに変化するでんぐりです。


ちょっと開いたときに見える部分は、外にでんぐり返ります。


そして、大きくて美しいベルができるのです!
ベルの中には厚紙の芯がないので、ベルは神秘的にさえ見えます。


いったい、こんなものを考え出したのは、どこの誰だったのでしょう?







2015年4月27日月曜日

結婚式

よく晴れた気持ちのいい日、I.TさんとYさんの結婚式でした。


新郎はみこしに担がれて登場します。


そして、新婦も。


楽団は、ツリーハウスのテラスで音楽を奏でます。


料理はどれも手づくり。


美味、美味。
ほとんどの材料がこの農場でとれたものだから、おいしいのは当たり前でしょうか。
パンは天然酵母のTさんのパンです。


石窯で焼いたピッツァも、どんどん運ばれてきます。
 

会場は、いつもはポニーが放牧されている牧場。
地面がしっかり緑になるように、早くからポニーは閉め出されていました。


お餅搗きは、プロのような面々。
有機農家のYさん、かっこいいねぇ。
 

鍼灸師のKさんもかっこいいねぇ。


有機農家のAさんが、いつもの美声を聞かせます。
ルイ・アームストロングのものまねもそっくり。
 

踊っているのは、林業家のHくん


新郎も新婦に歌をささげます。


それに合わせて、みんな踊ります。


グループの名前を忘れてしまいましたが、アリランよさこい、素敵でした。

Kさんごめんなさい。せっかくの美しくておいしかったデザートの数々、写真に撮るのを忘れました。


農場の麦ももうこんなに大きく育っているのですね。
I.Tさん、Yさんおめでとう。




2015年4月26日日曜日

この子


遊びに来ていたひろこさんが、
「あの子、前からいたっけ?」
と聞きました。
そう、前にはいませんでした。
ここはずっと花、花がない時は花入れだけ置いてありましたが、しばらく前から、この子の指定席になっています。


花より、人形の方が、目を引きます。


強烈な個性で、人の心をかき乱そうとしたりしないので、この子はいつもここにいても、全然嫌な感じがしません。


友人のSさんは、人形が嫌いです。
Sさんは子どもの頃、お兄さんと二人で分担して、縁側など板の間の拭き掃除をするのが日課でした。
ところが、お座敷には男女一対の市松人形が飾ってあり、Sさんはそれが怖くてたまりませんでした。なんとかお座敷には近づきたくたいと思っていたそうですが、お兄さんも同じ心境だったのでしょうか、
掃除する場所を取り合って、喧嘩していたそうです。
確かに、まだ西洋人形の影響を受ける前の市松人形の中には、毎日見るには怖過ぎる子がたくさんいました。
 

窓を背にして立っているこの子の顔は、逆光でいつもはあまり見えません。
でも、なかなか可愛い顔をしているのです。


五味渕孝さんのおつくりになったもの、「おでかけ」という名前の人形だったと思います。



2015年4月25日土曜日

ブリキのおもちゃ


ブリキは薄い鉄板を錫で覆ったものです。
13世紀後半から16世紀前半までの間に、ボヘミア(現在のチェコ)で完成されたものとされていて、その後製造技術はドイツ、イギリスへと伝わりました。
ブリキが長崎に、オランダ人によってもたらされたのは、19世紀のことでした。


明治初期に、初めて外国から、ラッパなどブリキのおもちゃが輸入されました。
しかし、大変高価なものだったので、もっと安いものがつくれないかと、石油缶を再利用したブリキ板で、ガラガラやままごと道具などがつくられるようになりました。


 明治20年代の前半まで、日本のブリキ玩具の彩色は、すべて手でされました。
1892(明治25年)ごろ、ヨーロッパから花模様が印刷されたブリキが輸入されると、それに触発されて、木版印刷や石版印刷が試みられました。しかし、いずれの印刷も質が悪く、手間がかかりすぎました。
1900年(明治33年)には、ドイツから新型のブリキ印刷機を輸入して、やっと量産体制が整いましたが、この印刷機は高価だったため、導入できた玩具業者はほんのわずかでした。
1909年(明治42年)には、初の国産印刷機である、ヒロセ式簡易ブリキ印刷機が完成しました。これによって、ブリキのおもちゃは飛躍を遂げて、第一期ブリキ玩具黄金時代を迎えました。
といっても、ブリキそのものは輸入に頼っていて、日本のブリキ製造は、1922年(大正11年)に日本製鉄が試作に成功するまで待たなくてはなりませんでした。


当時、ブリキ玩具の第一人者はドイツでした。しかし、そのドイツは第一次世界大戦で敗戦、おもちゃ業界も疲弊してしまったので、新興勢力である日本に注文が寄せられるようになりました。
その結果、昭和初期には日本のおもちゃの生産量と技術が飛躍的に発展し、ドイツと並ぶ玩具生産王国になりました。
第二期ブリキ玩具黄金時代を迎えたのです。



しかし、日本も戦争態勢に入ります。
次第に金属が不足し、1938年(昭和13年)に国内向けの金属玩具製造禁止令が出され、やがて、ブリキのおもちゃは完全に姿を消しました。
そして、敗戦を迎えました。



戦後、ゼロから出発したブリキ玩具産業が注目したのは、占領軍のゴミの中の空き缶でした。
これを再利用してジープや自動車をつくるようになり、そんな中からフリクション玩具(車輪の摩擦を原動力として動くおもちゃ)が生まれました。
このフリクション玩具がアメリカで大好評を博したことによって、日本のブリキ玩具は活気を取り戻し、昭和30年代に入ると、第三期ブリキ玩具黄金時代を迎えました。
しかし、昭和40年代をピークに、安価なプラスティックのおもちゃに押されてブリキのおもちゃは衰退し、ほとんど姿を消してしまいました。



私の手元にあるブリキのおもちゃは、最後の花を咲かせた戦後のものたちです。

さて、それぞれのブリキ玩具黄金時代にどんなものがつくられたか?
私は持っていないので、『Wonderland of Toys①、ブリキおもちゃ』(北原照久編、シンコーミュージック、1983年)から写真をお借りして載せました。


1880年代
1920年代

1950年代