2011年6月30日木曜日

おさんぽカエル





いくら、現代が情報社会と言っても、アンテナを張り巡らしていなければ、情報の外で暮らすことになります。
そんな情報の外というか、限られた情報の中で暮らしている私なので、偶然このおさんぽカエルを見つけたのも、すっかり一ブーム終わった後ででした。




カエルコレクターでもなんでもありませんが、かっわいい!

奇譚クラブからおさんぽカエルが発売されたのは、昨年の7月のこと、V.1の七匹はもう売り切れ、V.1.5の七匹だけ残っていたので買ってしまいました。
もともとはがちゃがちゃのカプセル入りです。いい年をして、がちゃがちゃもできませんから、ネットで買えるのは、喜ばしいことです。




足も、手も、舌も動きます。
あと七色あるのですが、これで満足、当分楽しめます。

庭には、田んぼから登ってきたのか、カエルが満ち溢れている、今日この頃です。





2011年6月29日水曜日

生活道具のミニチュア



今でもあるかどうか、バンコクに住んでいた30年前には、月に一度くらいの割合で、山岳民族のつくった手仕事の数々を、展示販売する市がありました。

会場となるインターナショナル・スクールの体育館の前には、いつも時間前には行列ができていました。というのは、一点物も多く、掘り出し物を見つけようと思ったら、早く行った方がいいからです。
開場とともに、長い行列は体育館に吸い込まれていきます。あちこちに人だかりができ、熱気がムンムンし、取りあえず気に入ったものを手にして会場の隅に座り込み、熟考している人たちの姿も、見うけられます。




この市は、キリスト教系のNGOの、山岳民族の人々の現金収入向上プログラムの一環だったので、パッチワークや刺繍の色使いなど、山岳民族の好みの配色ではなく、西洋社会で売れるようなパステルカラーになっているものもありました。しかし、大半は山の人たちのつくるままのものでした。

町のお土産物屋にはない品揃え、品質が良く、しかも値段も安かったので、いつも大人気だったというわけです。

そんな手仕事市で手に入れた、台所道具のミニチュアです。壁に飾れるよう、笊に貼りつけてあります。
真ん中に七輪、上から時計回りに。お鍋、包丁とまな板、クロック(すり鉢)とすりこ木、もち米の蒸し器、おひつ、炒め鍋とへら、そして水差しとグラスです。
笊の大きさが直径20センチくらいと、小さいものですが、山の生活が十分見えます。




これは、笊に貼りつけていない、ばらばらの農具です。やはり手仕事市で手に入れました。
上の二つは、牛につけて。田や畑を起こしたり、均したりする道具、右上の道具で牛や水牛につけます。

下の左の五本は、鍬やスコップ、右にはもっこと竹の水筒と、のこぎりが見えます。




ブリキの鍬、つるはし、スコップも、丁寧につくってあります。




なにに使うものか。よくわからない鍬もあります。
金属を使っていない、手づくり鍬でしょうか。




まとめて突っ込んでいるので見栄えがしません。
笊に貼りつけたらいいかもしれませんが、飾る壁が不足しています。




カンボジアの漁具セットです。
試作だったので、今でもつくっているかどうかわかりませんが、メコン川での漁の代表的な漁具が並んでいます。




川に仕掛けておく筌(うけ)、投網、魚篭(びく)、浅瀬でかぶせて上の穴から手を突っ込んで掴む道具、魚すくいなどです。

ゆったりとしたメコン川が思い出されます。広いところでは対岸まで一キロもあり、直径が人の背より高いような漁具も使っていました。


2011年6月28日火曜日

もっこ





カンボジアの町の、ごくごく一般的な雑貨屋さんの店先です。
雑多なものばかりで、訪ねてもなんの興味もそそられないようなお店ですが、写真で見ると、籠からカンボジアの生活が垣間見えて、別の面白さがあります。

左の棚には、町のブリキ屋さんがつくった、バケツやじょうろも並んでいますが、目立つのは籠です。ラタンの籠も、竹の籠もあります。

並んでいる籠は、毎日の生活に欠かせないものばかり、手前右端の笊に乗せてあるのはちいさな箒です(写真はクリックすると拡大します)。その横には、お米を入れる籠や、買い物籠、茣蓙、左の方には、箒、鶏にかぶせる大きな籠などが見えます。

鶏やひよこは、昼間は庭を自由に歩きまわっていますが、夜や、ついばまれたくない収穫物を庭に乾したりするときは、この籠を鶏にかぶせます。

鶏籠の上と、地面に直接置いてある長いものは、編めるばかりに加工したラタンです。たぶん森で採集したものでしょう。
ラタンはヤシの一種で、蔓状に伸びます。枝分かれせず、他の木を支えにしながら、長いものは300メートルも伸びるものがあります。
太いもの、細いもの、短いもの、長いものがあり、育ち方も、大きな原生林の木の下でしか育たないもの、カンボジアのように道端に生えているもの、バングラデシュのように畑で栽培しているものなどなど、いろいろです。
そのままでは刺があるので、刺をきれいに取り除いてから使います。

奥にある大きな籠は「なんでも籠で」す。ゴミを入れたり、収穫物を入れたりする籠です。そして、手前は「なんでももっこ」、土や石、ゴミなど運ぶのに使います。




プノンペン郊外の村でも、副業として、もっこをつくっている村がたくさんありました。
写真の雑貨屋さんで売っているもっことは、ちょっと材料が違います。タイでもカンボジアでも、モッコは丈夫でさえあればいいので、もっとも安価で手に入る材料を使ってつくります。

プノンペン近郊の村では、近くの荒地や道端に生えている、細いラタンを使ってもっこを編んでいました。刺があるので、ラタン採りは楽な仕事ではありませんが、村の道では、よく自転車の後ろなどに、採ってぐるぐる巻きにしたラタンを、満載して運んでいるのを見かけました。

このもっこは縁にだけ、竹を回してありますが、プノンペン郊外では、竹は他の地方から運ばれたものを買わなくてはなりません。かつては村にも竹が生えていましたが、椰子砂糖を採る椰子の木に梯子として使われるなど、採り尽くされて今はありません。

日本の、放置されて山へ山へと拡大していく竹やぶを見ていると竹が採り尽くされるなんてことは考えられませんが、インドではかつて竹細工がもっとも盛んだった、広大なタミルナドゥー州一帯で、竹がまったく見られなくなっているのですから(最近の一部植林地域を除く)、人間の力は侮れません。




できあがったもっこです。
日本の手箕と形は同じですが、これを箕として使うことはありません。重い土や石を入れて運んでも、ちょっとやそっとでは壊れない、一家に一つ以上なくてはならない道具です。




2011年6月27日月曜日

液体石鹸入れ






長い間使っていた台所用液体石鹸が、いつもの店で見つからなくなりました。生協でも、台所用石鹸は取り扱っていません。
さがして、なんとか新しい液体石鹸を見つけました。
やれ嬉しや、これまでの不透明な容器に比べて、透明な容器は悪くありません。詰換え用の石鹸も二袋買って、いそいそと帰ってきました。

液体石鹸は、いちいちキャップを閉めないと、口のところで固まってしまいます。そのため、開けて閉めてを繰り返しますが、最初の一本を使いきらないうちに、透明な容器のキャップがちぎれてしまいました。
なんという商品でしょう。

仕方なく、代わりになる容器、あるいは容器入りの洗剤をさがしました。丈夫だった古い容器は捨ててしまいしたし、置き場所の幅は決まっています。




一本目の石鹸を使いきらないうちに、形、大きさとも申し分のない洗剤を見つけました。




キャップを閉める型ではなく、頭を押すディスペンサー型なので、石鹸液を入れるときどうなるか、ちょっと心配でした。でも毎日、何度も使うものですから、容器が気にいるかどうかも重要な要素の一つです。

見つけたのは外国製の洗剤でしたから、天然植物原料だけを使ったものといえ、かなりきつい香りがしました。しばらくして、きつい香りの洗剤を使い終わり、買っておいた詰換え用石鹸を入れました。

使うたびに口をスポンジできれいに拭っているのですが、やはり石鹸が、口のところでかたまります。次に使うとき、液があらぬ方へ向かって、勢いよく飛び出すのです。
「今日はどっち方向に飛ぶか?」
予測しながら、口にお皿をあてがったり、スポンジで押さえてそーっと押してみますが、何度もシャツや顔に、石鹸がかかってしまいました。

今後の選択は二つです。
ディスペンサー型の容器をやめて、使い切る前に壊れてしまう、あの石鹸用の容器に入った液体石鹸を使うか、あるいは、いっそ石鹸ではなく、自然素材の洗剤に切り替えてしまうかです。

いずれにしても、詰め替え用のものを買うことは出来なくなるでしょう。しかも、どこのお店でも石鹸製品は冷遇されているので、液体石鹸はいつなくなってしまうかわかりません。

といっても、熱心に代案をさがしているというほどのことではありませんが。



2011年6月26日日曜日

ヴェトナムの籠、高い技術が惜しい!





二階に、足を乗せて左右に動かすマッサージ器が置いてあります。
時々、寝転んで足を揺らせながら、暇にまかせて、手の届くところに置いてある籠を手に取って見ていました。
この、模様がちゃんと中心に来ていない適当さ、




それでいて、縁はラタンではなく、皮を剥いだ竹で巻いた技術の高さ。きっとヴェトナム製の籠に違いありません。
原理としては、皮のついていない竹でも縁は巻けるでしょう。薄く削ったかんなくずがくるくると巻くくらいですから。

でも、自分で竹を割いてみると、それがどんな大変なことかわかります。先日、壊れた籠の修理をしただけで、太くて厚いひごですが、均等に割けないで四苦八苦しました。

ヴェトナム製、とくに平地に住むキン人のつくる籠は、人間業ではないようなものです。細くて薄いひごできれいな形を出します。でも、やっぱり耐久性は劣ります。
「いったい何を考えて、すぐ壊れるものをこんなに手間隙かけてつくるんだろう」と、いつも思います。

厚みのない籠を買った覚えはありません。どうして家にあるんだろうと思っていましたが、今朝突然、「取っ手つきの籠の蓋と似ている」と気がつきました。




取っ手つきの大きな籠は、お手洗いの上の棚に乗せてあります。
あれと比べてみたら、何かわかるだろうと、踏み台を持って行って下ろしてみたら、蓋がありません。なあんだ、この籠の蓋だったのです。

たぶん、地震の折に、もともとは細い竹で片側がくっついていた蓋だけ落ちてきて、夫が二階に片づけたのでしょう。全然気がつかないで過ごしていました。




この籠は、縁の下に装飾があります。
熟練した人が、ちゃちゃっとつくるのでしょう。プノンペンの市場でも、時々売っていました。
今持っている籠は、直径40センチもある大きな籠ですが、




プノンペンに住んでいたときは、小さな籠を、食卓の明かりとして使っていました。




しかしこの籠、大きいのにたくさんのものを入れると、手が取れそうになって運べないし、ちぎれたところから壊れかけているし、実用的ではありません。
やっぱり、せっかくの技術がもったいない気がします。





2011年6月25日土曜日

切手で見るラオスの象





ラオスはその昔、「ラーンサーン王国」と呼ばれていました。ラーンは百万、サーンは象です。
それほど象との生活が当たり前の国でした。




象は人々の足であり、木を切り出したりものを運んだりするときの頼もしい「トラック」であり、戦争の時の「戦車」でもありました。




象の背には、木でつくった専用の椅子が置かれます。
その上に座ると、安定して、細い坂道でも楽々進めます。
象は、絶えず道端の木や草の中から、食べられるものを見つけて口に運びながら、ときには糞もしながら、悠々と何時間でも歩いていきます。
象に乗ると、見下ろす象の頭の形の面白さになごみます。前から見ても横から見ても凛々しいのに、上からみると、頭は台形というか、とても間抜けな形をしています。




象と共に暮らしてきたラオスですから、象の切手もたくさんあります。




野生の象の絵もあれば、人々と生活している象の絵もあります。




人々は、飼っている象の子どもを育てることも、野生の象の子を育てることもあります。




象の寿命は長く、人と同じくらいです。
性格はおとなしく、当たり前ですが力持ちです。




重機のない時代、とくに大航海時代に、船をつくるためにチークがたくさん伐採されましたが、川まで運び出したのは全部象でした。




あれっ、こんな持ち方もするのでしょうか?
なんか、牙が痛そうです。




もちろん、トラック代わりに材木以外の荷物も運びます。
川は母なるメコン川です。




象は大切にされています。




お祭りにも、なくてはならない存在です。




2011年6月24日金曜日

パレスチナのコーヒー道具



もと同僚のSさんは、アラビア語がよくできたこと、なんでも曖昧にはしておかない性格だったことなどにより、アラブ社会の奥深くに入って行く力が傑出していました。
学者などと比べても遜色が無いどころか、アラビア社会の理解度においても、融合度においても、日本人としては、五本の指に入ると思われます。
彼は、正調アラビア語が話せるというだけではなく、パレスチナ方言、さらにパレスチナの各地方の方言まで、いろいろ使い分けていました。そして、パレスチナの村々をほぼ隈なく歩きまわり、夜はアラビア語の勉強も兼ねて、コーランの勉強をするのが常でした。
イスラム教のしきたりを、最大限尊重していましたが、彼自身はキリスト教徒でした。

そんな彼と一緒に仕事ができたことは、幸せ以外の何ものでもありませんでした。経験の少ない私にも、イスラム社会を垣間見て、人々の暖かさを知ることができました。

知られていませんが、パレスチナにはほとんど犯罪がありません。家には鍵がついていませんし、路上に車を停め、カメラやお財布など入れたバッグを置いて鍵もかけず、数時間放置したとしても、何も盗まれたりしません。私はうっかり、二度もやったことがありますが、問題ありませんでした。
そんな社会が、他にあるでしょうか?

初めてパレスチナを訪問したとき、Sさんがパレスチナの絵描きさんたちに引き会わせてくれました。
一人は、プロパガンダ色の強い絵ばかり描く人、一人は抽象画を描く人、そしてもう一人はナイーブアート(素朴絵)を描く人でした。
三人はそれぞれ、国際的にも評価されている、パレスチナ絵画界を代表する画家たちです。




名前を忘れてしまいましたが、素朴絵を描く人は、ベツレヘムに住んでいました。小高い丘の上にある、古くて気持ちのいい家の、二方には出窓があって、 そこからベツレヘムの町が一望できました。そして、部屋のいたるところに、古いアラビアのコーヒーポットのコレクションが並んでいました。

人の持っているものを見ると、欲しくなってしまう私です。それから折りにふれ、コーヒーポットを探すようになりました。しかし、壊れているなど欠陥があるものが多く、形も質感も気に入ったものが、なかなか見つかりませんでした。
何年かたって、やっとめぐり逢ったのがこのポットです。銅板を叩いて、形をつくったもので、取っ手と尖った蓋の先は真鍮の鋳物でできています。




蓋を開けたまま写真を撮ろうとしましたが、上が重くてバランスを崩し、ひっくり返ってしまいます。
あんまり蓋が重いので、蓋全体が鋳物かとも思いましたが、それにしてはポットと蓋の色や質感が同じです。どうやら鋳物は、先端の部分だけのようでした。

パ レスチナの家を訪問すると、まずソフト・ドリンクが、続いてカルダモン入りの濃いコーヒーが出されます。カップは小さいのですが、一日に何度もそれを 繰り返し、その合間にオリーブオイルの効いた濃厚な食事をいただいていると、やがて胃がSOSを発信してきます。そして、やっと胃が慣れたかなと思ったこ ろには帰国です。




コーヒーポットを手に入れてからまたしばらくして、エルサレムの旧市街の骨董屋で、コーヒーを潰す臼と杵を見つけました。遊牧民、ベドウィンのコーヒー挽きです。
昔は、毎朝これでコーヒーを挽きました。その杵を打ちつける音は美しくリズミカルで、まるで音楽のようだったと、顔見知りになったアラブ商人のお兄さんが、出前でとったコーヒーを勧めながら、実演して見せてくれます。




普通のパレスチナ人と違って、骨董商を営むアラブ商人はみな、口から生まれたようでした。あれこれ面白い話など聞いていると、いつのまにか乗せられて、なにか買ってしまいま す。

もうすぐ底が抜けようという、とんでもなく古びたコーヒー挽きは重いものでしたが、「今買っておかないと、二度と逢えない」という気にさせられて、運ん でくることになりました。
もっとも、おんぼろなので、ベドウィンがまだ使えるものを生活に困って手放したとは考えなくていいので、気は楽です。




装飾金具がかろうじて形をとどめているのは一ヶ所だけ、跡は全部すり減って、ただのブリキの破片になっています。




草原のテントから毎朝、競うようにコーヒーを潰す音が聞こえた日々は、二度と戻ってはこないでしょう。
ベドウィンの人々は、イスラエルとパレスチナに分断され、移動の自由も奪われて、本来の生活である牧畜は、ほとんどできなくなっています。




その画家の描いた水彩画です(空の四角は、額のガラスに映った窓)。伝統的な石積みの家が見えますが、中に入ると天井は真ん中で高くなっていて、居心地良い空間が広がっています。

ベツレヘムの、画家の窓の外に広がっていた景色も、今では失われ、イスラエルの建てた高いコンクリートの、分断壁しか見えなくなっているでしょう。
折り合いをつけて仲良く暮らせればいいのですが、なかなかそんな社会がやってきません。




2011年6月23日木曜日

フェイスブック考





「ねえ、世界中の人とお友だちになりたいと思わない?」
と、遊びに来ていた下の息子が言います。
「思わない」
と、私。
「J.Oなんかと、連絡取れるよ」
「メールで取ってるもん」
「う~ん、じゃあ、昔の友だちで、消息が途絶えてたりして、あの人に会いたいなぁって人いない?」
「いない。あっ、カンボジア人が一人いたけど、メールアドレスがわかって連絡ついたからもういい」
「その人なんて名前?」
「C.N」
「きっと、フェイスブックに登録しているよ」
「まさかねぇ」
さがしていた息子が、
「この人?」
「違うよ。女じゃなくて男」
「じゃあ、この人?」
「あっ、そうよ!へ~ぇ、C.Nはフェイスブックに登録してたんだ」




こうして、息子に乗せられて、フェイスブックに登録して、C.Nとお友だちになりました。

「卒業大学とか書いておいたら、それで検索した人も連絡つけてくれたりするよ」
「ふ~ん。あっ、高校の名前は書かないで」
「どうして?」
「今私は行方不明になっているの。見つかったら同窓会費払わなくちゃならなくなるから。同窓会費って、高いんだから」
同窓会費は、もう15年分くらい未払いです。一度に払うなんて、とてもとても...。

「あっ。僕とは友だちにならないで外しておこう。僕の友だちに変なやつがいるから」
と息子。
いったい、フェイスブックってなんなの?




フェイスブックに登録してしばらくして、インドネシアにいる、日本人の友人S.Yさんからお友だちになりたいというリクエストが来ました。彼女のメールアドレスを知っているけど、もちろん、喜んでフェイスブック上の友人になりました。

自分から何一つすることもなく、フェイスブックの存在すら忘れた頃、15年ほど前から音信不通になっていたタイ人のK.Sから、連絡が入りました。
最初は、「元気、どこにいるの?」というもの、次は、「お友だちになりたい」というものでした。
もちろん喜んで、お友だちになりました。

「ひゃぁぁ。見て見て!K.Sだって」
フェイスブックには冷ややかな夫に見せていたら、K.Sからまた連絡が来ました。立て続けです。
「お友だちとして、I.Kを紹介したい」
えっ、いりません。
日本人のI.Kとは、もし連絡をつけようとしたら、勝手につけられます。20年以上会っていない彼と、フェイスブックで何を話せばいいのか、想像もつきません。そのリクエストは放置しました。




夫は、
「な、めんどくさいじゃないか。俺はやらなくてよかった」
と言って得意そうです。
「残念でしたね。私の紹介の写真に、きみもくっついているわよ」
そうです。私のフェイスブックでの紹介写真は、息子が勝手に選んで載せたもので、夫とのツーショットです。

カンボジア人のC.Nとも、タイ人のK.Sとも、長年一緒に働いてきました。仕事をしていた当時は毎日、話しても話しても話すことが尽きませんでした。しかし、仕事を離れた今となっては、なにも話すことがありません。
C.Nは、どこでどんな仕事をしているか知っていますが、K.Sは現在何をしているのかも知りません。

私は古い人間なのでしょうか。冷たい人間でしょうか。フェイスブックを日常的に活用するという展望が持てません。

ところで、最近、近くに住むI.Aさんから、メール代わりにフェイスブックで連絡が来ました。メールアドレスは知っているはずなのに...。
もしかしたら、フェイスブックって、メールより簡単な、次世代のただの通信手段なのでしょうか?




後日談:
お友だちになるのを保留していたI.Kから、直接お友だちになりたいという連絡が来ました。
ほっほっほ。
とうとう、お友だちになってしまいました。



2011年6月22日水曜日

こばやしゆうさんの仕事



先日、一度は行ってみたいと思いながら、何度も機会を逃していた、こばやしゆうさんの展示会に行ってきました。
場所は、宇都宮市内の個人のお家で、小さめのかわいい蔵や、古い建物の中での展示で、家も素敵、大谷石を敷き詰めた庭も素敵、ゆうさんの油絵や焼き物も素敵、楽しい時間を過ごしました。




私が気に入ったのは、「パズ」でした。陶器の中に、顔の描いてある木のピースが入っています。外にはみ出している青い顔もパズの一部で、真ん中の列の左のピースとだけ、取り替えることができます。




ピースを外してみるとこんな感じ。
一番上の灰色の顔だけ、木を削ってつくったものではなくて、陶器でできています。




そして、横長の顔には、裏に別の表情も描かれています。もっとも、こちら側を見せるようにはめることはできませんが。
とったり、はめたりしていると、幸せな気分になってきます。

その昔、土門拳の『筑豊のこどもたち』という写真集を手に入れて、息子の同級生のお母さんに見せました。一緒に楽しんでくれる思ったら、まじまじと顔を見られて、
「へぇぇ、こんな本を買う人もいるんだ」
と言われてしまいました。
息子は大きくなってからその同級生と再会し、結婚しましたが、すぐに破綻しました。

「パズ」を見ていて、なんだかそんなことを思い出しました。
あの人に見せたら、
「へぇぇ、いい年してこんなものを買う人もいるんだ」と言われてしまいそうな「パズ」でした。




展示会に行っても、いつも何も欲しがらず、見てるだけの夫ですが、この日は庭でいただいたコーヒーが入っていた「しっぽカップ」が気に入って購入しました。




こうやって持ちます。重い!
土を紐のように伸ばして、その紐をぐるぐる巻き上げてつくってあります。




普通のコーヒーでもゆうに三杯は入りそう、エスプレッソなら十杯も入りそうな、大きな大きなカップでした。

このところ、足の裏に根が生えてきたのか、あまり出歩かなくなっていますが、行ってよかった、楽しい一日でした。