2019年7月31日水曜日

たけちゃん


用があって東京に行き、8か月になったたけちゃんに会いました。
掃除が行き届いたところで、たけちゃんはさすが長子、大切に育てられていました。
離乳食が美しい。


これを全部平らげました。







2019年7月30日火曜日

陽ざし好き


梅雨がやっと明け、夏らしい日がやってきました。


くそ暑い陽ざしは照りつけても、トラは陽だまりを見つけると日向ぼっこです。


あったかいニャァ。


気持ちいいニャァ。






2019年7月29日月曜日

草、草、草


ちょっと目を離していたかしら、どこも緑になっています。
涼しげでいい?
 

いえいえ、草刈りを怠っているのです。


そこそこは刈っていますが、追いつきません。
ここはまだいい方、しかし、今日も、明日も、明後日も草刈りはできそうにありません。







2019年7月28日日曜日

集落の行事

昨日は集落総出の林道の草刈りでした。
その数日前、たけさんがやってきました。
「草刈りは出るんかい?」
「出るよ」
何か言いたそうですが、はっきりしません。
「おれも87だからなぁ」
「たけさん、出なくていいよ。私たち一人はたけさんの代わりで、二人で出るから」
「そうかぁ。わりいなぁ。うちの周りをちょっと刈ってもいいんだけんど」
たけさんの家から上はもう山の中の道です。
「なんもしないでいいよ。私たちに任せて」
あれは12、3年ほど前だったか、たけさんは乗っていたスーパーカブで道をショートカットしようとして転び、かかとのあたりを複雑骨折して3か月入院して、2度も手術したことがありました。
病院にお見舞いに行くと、気にしているのは草刈りのことばかり、出られないので罰則金3000円を払わなきゃいけないのを心配していました。
まさか、怪我をして入院している独り暮らしのおばあさんから罰則金を取ったりしないと何度言っても信用しませんでした。

さて、草刈りの前夜、たけさんから電話がありました。
「おれ周りを刈ったから、一人でええぞ」
「大丈夫よ、二人で出るから」
確かに、たけさんの家から近いところはとってもきれいになっていました。刈り払い機が壊れているので鎌で刈ったのです。


私はいつもの年なら刈り払い機を使って草を刈るグループに入っていますが、2台ある刈り払い機のうちの1台には紐刃を装着しているので、刈り払い機は夫に譲り、刈った草や落ち葉を道路わきまで片づける作業をしました。


なんてこと、毎年刈った草を片づけるのはだいたい女性(というかおばあちゃん)の仕事ですが、今年は女性がいない、私ともう一人だけでした。
あと男性が一人、刈り払い機と鋸、熊手も持ってきて、一人三役してくれましたが、たった3人で長い林道の清掃をするという、大仕事になってしまいました。
滝への道はそれでも人通りもあり、手入れしている人もいるのでわりあいきれいですが、もう1本の林道はあまり誰も通らないところ、荒れ放題になっていました。


草刈り後は、集会所で行なわれた万燈祭に参加しました。
草刈りは集落を二つに分け、3本の道をきれいにします。そのため、一緒に草刈りをしないグループの人たちの中には、知っている人たちもいますが、なじみが薄い人たちもいました。

集会所には、いつもは滝の上のお不動さまに祀ってあるご本尊が、運ばれて祀られていました。初めて拝見しましたが、木彫りの50センチほどの大きさのお不動さまで、かなり古そうなものでした。
集落の万燈祭は、万燈を掲げて練り歩くのではなく、今はみんなで集まって会食するものですが、昔はどんなお祭りだったのか、訊いてみました。

現在60歳くらいの人たちが子どものころは、小学生たちがお不動さまを背中合わせに背負って、約50軒ある家をすべて訪ねて歩くお祭りでした。
「重くて、ひいひい音を上げたよ」
「えっ、お不動さまは軽そうじゃないですか?」
「厨子ごと背負ったから、ずいぶん重かったよ」
「へぇぇぇ!」
家々では、訪ねてきた子どもたちにお金(約30年前には2000円)を渡しました。そのうちの半分は集落(組)の資金になりますが、半分は子どもたちに還元され、その日はジュースやお菓子をたらふく飲んだり食べたりできる、とても楽しい日だったそうです。子どもが少なくなって、約30年ほど前から行われなくなりました。
「ほかに子どもたちが楽しみだったのは何ですか?」
「夏休みかなぁ」
「海水浴に行きました?」
「学校から一泊どまりで大洗まで行ったなぁ」
学校からの臨海学校も、戸別に行くようになって廃れました。

お不動さまのご本尊がつくられたのはいつごろか、もちろん誰も知りませんでした。
江戸時代か、もっと前か、集落には歴史があるものです。






2019年7月27日土曜日

ラタンの扉づくり

しばらく前から、駐車場につくったファイル棚の扉をつくっていました。


材料は短く残っていた端材です。


それを枠の大きさに割ります。
枠はそれで決まりだけれど、扉全体の素材はどんな厚さの木を使うか、やはり野地板かなぁとぼんやり考えているうち、ビニールハウスの倉庫に残っていた、ラタンの敷物が目につきました。


母屋をつくったとき、野地板代わりに天井裏に張ったラタンの残りです。
幅は90センチでくるくる巻いてあり、厚みは4ミリほどです。
天井裏の張ったラタンは、湿気で伸び縮みしていますが、扉に張るものはピタッとしていてもらいたいのです。
何日か考えているうちに、そのまま額縁のように裏からはめて、押さえ棒で留めただけでもいけるのではないかと思い当たりました。釘で密に泊めれば伸び縮みもそう気にはならないでしょう。


二階の窓をつくったときだったか、戸車を入れる穴を開けておくのを忘れて組んでしまったことがありました。
組んでしまったら、角のみ盤は使えず、仕方なく手で穴を開けました。今回は忘れず先に穴を開けます。
 

こんな感じに戸車を埋めます。


枠を組みます。


ラタンの敷物は横向きに張るので、縦に一本桟を入れました。


さて、レールはずっと前に買ったものを立てて置いていたので、真直ぐではなくなってしまっていました。手で何となく曲げて伸ばして、あとは釘穴が30センチおきくらいに開いているので、線を引いておいて真直ぐに留めると、何とか使えそうでした。


ラタンを張る前の方が軽くて加工しやすいので、枠だけで鴨居にはまるように上部を加工して、はめてみました。
次にラタンを張ります。


剪定ばさみで枠にはまる大きさにラタンを切り、はめて、周囲と縦桟の裏に棒で留めました。
ラタンに糸を通して綴ってある敷物の裏には、薄くて荒い蚊帳のような布が張ってあります。巻いてあったのですが、ところどころかびたり汚れたりしていました。
  

そして表です。


引き手もつけました。


完成です。
板より趣がありました。


心配していたレールもスムーズに開閉できます。






2019年7月26日金曜日

曲がっている!

今日は、この夏初めて朝からカッと陽が照りつけ、セミがじりじり鳴く、夏らしい日になっています。

さて、毎回声をかけていますが、夫はめったに骨董市にはいきません。
ところが先日、
「今度は行くからな」
と、骨董市に一緒に出掛けたことがありました。
ノミを欠いたり、叩くところを潰したりしてしまったので、買いたいとのことでした。


その日は、大工道具を持っている骨董屋さんは少な目で、私は一軒しか見かけませんでした。大工道具ばかり扱っている骨董屋さん(古道具屋さん)の店では、ノミはいつでも出ていますが、その日は桶を削るセンとか、大小の手斧とかがやたら充実していました。

別行動でノミを買った夫に、購入品を見せてもらいました。
「あらっ、なんで?曲がってるじゃない」
「いいんだよ」
全然気にしていません。


骨董市では、ばら売りではなく、専用の引き出しや専用の箱に、ずらっと何本、何十本の美しいノミが揃っているのを、見かけることがあります。どなたかが大切に使ってきたものだと、伝わってくるようなたたずまいのものもあります。

さて、我が家ではほとんどの大工道具を共用していますが、ノミとカンナだけは別にしています。
ちなみに、私の使っているノミはかつてホームセンターで買ったものばかり、夫が使っているノミは骨董市で買ったものばかりです。
私は4、5本しか持っていませんが、夫はたくさん持っています。
骨董市で売っているものの方が、刃物としては上等なものが多いと思いますが、見る目がないので私には善し悪しが見分けられません。かといって、買うなら一本だけ、いかにも立派そうなセットを買っても使いこなせません。

夫の買ったノミのうち、すり減っているノミの方が100円高いのは、よく使われていることからも、よい鋼だったということでしょう。
でも、あまりにもすり減っているとまた、使いにくいものでもあります。







2019年7月25日木曜日

北緯36度線


山梨のYさんが、ルバーブのピッツァと一緒に絵本を送ってきてくれました。
『えほん・北緯36度線』(小林豊著、ポプラ社、1999年)です。
「なぜ、送ってくれたのかな?」
と、一瞬いぶかしく思いましたがすぐに思いあたりました。
夫の講演を聞きに来てくれたので、緯度の話を聞き、スライドを見たからでした。


筑波山系の足尾山は、我が家の真西にあります。
そのことは、ここに越してきてすぐ気がつきましたが、2009年にデンマーク人の友人イエンスが来たとき、実際に測量して、我が家も足尾山の頂上も、北緯36度16分49秒という場所に位置していることを知りました。
イエンスは、若いころヨットに乗っていたこともあって、旅に出るときはいつでも、正確なコンパスを持ち歩いていますが、そのイエンスと一緒に山に登って調べたのです。


夫は、我が家から足尾山を通ってまっすぐ西に伸びる緯度線を、地図の上に引きました。
以前、シチリア島生まれのレナータさんが来たとき、夫の説明を聞いて、
「じゃぁ、私の家はこっちね」
とまっすぐ足尾山を指さしました。たどってみると、レナータさんの生家はほぼ、同じ緯度の線上でした。以後夫は我が家のテラスを、居ながらにして世界が見えるマジックテラスと呼んでいます。

『えほん・北緯36度線』は、東京を出発して西へ西へ、36度線上にあるの町や村の暮らしを描いています。


日本海を越えてまず着いたのは、キョンジュです。


そして西安、東京と同じ緯度にあります。


パミール高原を通り、


アフガニスタンの『せかいいちうつくしいぼくの村』のパグマン村も通ります。


戦禍で建物が壊れたままの町を通り、


難民キャンプを通ります。


アナトリア高原、エーゲ海から地中海を通り、36度線は太西洋に出て、アメリカ大陸を越えて太平洋を越え東京へとたどってきます。

南が上の地図

絵がどの土地か説明はないので、どこだかわからないところもありましが、同じ緯度線上にいろいろな生活があることが、よくわかります。
こんな本があったなんて、知りませんでした。

ちなみに、我が家の位置する北緯36度16分49秒線上にある地を西にたどると、群馬県の舘林、富岡、長野県の松本、石川県の三国を通って日本海へと抜けます。
東にたどると?もちろんほどなく太平洋に抜けます。






2019年7月24日水曜日

正真正銘の真弓馬

もっと左手

村松山虚空蔵堂の社務所は、本堂の左手にありました。


真弓馬は縁日しか置いていないのか、それとも年中置いてあるのか、それを早く確認したいと社務所を横目で見ながらも、まず本堂にお参りして、そのあとやっと足を向けました。
鉤型になった、かなり細長い窓を備えた社務所には、お守りがいろいろ並んでいるのですが、真弓馬も宝船も目に入りません。焦ってちょっと早足になって、最後の最後にやっと見つけました。端っこの特別のケースの中に二つ、ひっそりと並べられていました。


そこのガラス窓は閉まったままなので、お守りの方に引き返して、奥にいる方に声をかけると、倉庫から出してくれたのはこの箱でした。


後で中に入っていた説明書を見てわかりましたが、全国どこにでもすぐ送れるように、きれいに包装して箱に入れられていたのでした。
今では、参拝した人たちが求めるより、郵送で手に入れる人の方が多いのかもしれません。


真弓馬は想像していた以上に素敵でした。
では、私が今まで真弓馬として長く愛でてきた馬は、なんだったのでしょう?
村松山に関係のない、ただの「もどき」だった可能性があります。


台は厚みがあり、海ではなくて小川らしい絵が描いてあります。


後ろには村松山の焼き印がありました。


手持ちの真弓馬(もどき?)と比較してみると、貫禄が違います。

さて、村松山虚空蔵堂で私が知りたかったことの一つは、近隣の農民たちが農閑期の副業でつくっていた真弓馬や宝船が、村松山の授与品になった経緯でした。


それに関しては、真弓馬の箱の中に、一枚の題名のない説明書がありました。記述では年代わかりませんが、おおよその流れは想像できました。

村松山虚空蔵堂は、創立から聖叡の高僧が代々相継いで、隆盛は日に日に盛んで、十三詣りの村松山として全国に知られました。「諸願を成就する霊験」を慕って参詣者は後を絶たず、参詣者の列が、里を貫き野を越えて、数里のかなたまで連なっていたそうです。
全国といっても、参詣者は歩くしかなかった時代です。
この説明書からは、賑わっていたのは、建立後いつごろからか、そしていつまで続いたかなどはわかりません。そして縁日(とくに正月15日の修正会の日)に、近隣の農民たちが自分でつくった真弓馬と宝船を持ってきて境内で売りはじめた時代についての記述はありませんが、ほかの資料から、江戸時代以降のこととされています。
説明書に戻ります。
やがて、世は開国交易となり、外来の風潮が激しく入ってきて、人心は海外に奪われ、耳目は新奇を追うことに暇がない時代となり、真弓馬や宝船は境内から消えていきました。長い歴史を持つ古来伝承の遺風が消滅することは惜しく、虚空蔵堂で独りこれを保存することになったそうです。
この、「外来の風潮が激しく入ってきた時代」についても、いつかは書かれていないのではっきりしません。明治維新ではなくて、第二次大戦以後ではないかという感じがします。あるいは敗戦後しばらく経った、1960年代かもしれません。
1960年代は、地球上のどこもが大きく変わった時代でした。


時代考証はさておいて、私が関心を寄せるのは、村松山虚空蔵堂の往時の賑わいです。
「参詣者の列が、里を貫き野を越えて、数里のかなたまで連なっていた」というのは、誇張ではないのでしょう。
私がまだ小学校に上がる前、祖母の家から3キロほど離れた藤戸寺の縁日は、いつもにぎわっていました。寺に向かって歩いて詣でる人の姿がそこここに見え、寺に着くといつもは静かな境内が、人、人、人だったのを思い出します。
普段はあまり歩いて行かない距離も、お米を入れた小さな袋をさげ、隣近所誘い合って世間話をしながら歩き、途中の祠や石仏にもお参りしながら行くと、そう遠く感じません。そして、寺に近づくに連れて、その賑わいが肌で感じられます。一つの高揚感、仏さまに対しても自分に対しても、なにか成し遂げた、あるいは行かずに感じる後ろめたさを回避したという想いを、誰もが感じていたのかもしれません。

かつて、村松山虚空蔵堂に集まった人々。馬や船を刻み、運んで境内で売った人たち、そしてそれを買って神棚に納めた人たち、そんな大人たちを見上げる子どもたちの想いも、村松山に行って、ちょっと感じられたような気がしました。

そして、絵馬でも何でも機械でプリントにする時代に、手描きの板絵馬が残っていることを、とても嬉しく思いました。





2019年7月23日火曜日

村松山虚空蔵堂

先日来、いつかは真弓馬を授与している、東海村の村松山虚空蔵堂に行きたいと思っていましたが、チャンスは意外と早く来ました。
「気分転換に海に行かないか?」
と、夫が言います。何の気分転換?何でもかまいません、渡りに船です。
「ちょっと足を延ばさなくちゃならないけど、東海村に行きたい」
「いいよ」
というわけで、村松山虚空蔵堂に行きました。

原子力科学研究所の隣で、北には東海第二原発があり、南東には火力発電所がある場所ですが、門前の町にはわずかに昔の面影が残っていました。

仁王門

そして村松山は、手入れが行き届いている、威風堂々としたお寺でした。

本堂と鐘楼

縁起は古く、建立は807年(平安)です。
1485年(室町)には戦火で焼失しましたが、すぐに再建されました。
また、1870年(明治3年)には門前の民家から火が出て、当時の伽藍はすべて萱葺きだったため、すべて類焼してしまいましたが、大正時代になってから次々と再建されたそうです。
また、二度の火災にもかかわらず、ご本尊と厨子は運び出され、焼失を免れたました。


本堂の前、右手に鎮座されている牛神です。


そして、左手はどなたでしょう。
もしかして、猫神でしょうか?
つくばに蚕影山神社があるくらいですから、こちらにネズミから蚕を守る猫神がいても不思議ではありません。


絵馬の数々。


大正時代に再建されたとはいえ、大変立派なお寺でした。
不思議なことに、浜から遠いのに、境内も砂地、奥の院のあたりも小高くなっているのに砂地でした。
村松浜には境内から裏山を通って歩いて行けましたが、600メートルほどの距離、車でも行けるかと歩いては行きませんでしたがあとで、歩くしかたどり着けない場所だとわかりました。


阿字ヶ浦から見た、村松山虚空蔵堂あたりの景色です。
左が東海火力発電所、その右あたりに村松浜があるはずですが、村松浜に降りると、そこからはどんな景色が見えたのでしょう。

肝心の真弓駒のお話は明日です。