2016年7月31日日曜日

トゥルカナのカウベル

ネットで、トゥルカナのカウベルを見かけました。
トゥルカナ人は、ケニア北西部の乾燥草原に住む牧畜民です。
とっても素敵と見とれていて、そういえば我が家にも、トゥルカナのカウベルがあったのを思い出しました。ナイロビで手に入れたもので、一度、あっさりと紹介もしていました。


トゥルカナは、木工に優れた人たちですが、これは鉄板を打って曲げて、くっつけてつくった、鍛冶屋さんの仕事です。


厚みのある鉄板でできています。
中には、鉄の棒をぶら下げてあり、振ると高くて遠くまで聞こえる、いい音が出ます。


紐は、最初から工場製品を使っていたのでしょうか?
それとも、つくりなおしたとき使ったのでしょうか?
分厚いゴムを切った紐を、ベルの孔に通し、鉄棒をぶら下げ、そして再び孔から外に出したのを、軍隊用品の一部だったような、平打ち紐に二つ孔を開けて、留めてあります。
 

手仕事と、工場製品の併用が、世界均質化の波に洗われているトゥルカナ人の暮らしを象徴しているようにも見えます。


あんなに木工に秀でている人たちだから、もしかしたら木のカウベルもあるのかもしれません。

左は、トゥルカナの近くのソマリ人のキャメルベルです。空き缶で修理してあるところが素敵、砂嵐(?)で削られた木目も素敵です。





2016年7月30日土曜日

磨きに行きました


またまた、プレカット屋さんに行ってきました。


これです。これが我が家が持ち込んだケヤキです。


じつはこの日、ケヤキの柱と梁三本にサンダーをかけに行ったのですが、プレカット屋さんの作業が遅れていて、寸法を出すまでちょっと待ちました。


普通、プレカット屋さんは材木屋さんや大工さんと契約して仕事をします。
個人と直にやり取りすることはないのに、我が家の場合、一応材木屋さんとの契約という形をとりながらも、直接やり取りしています。
それがまれなことなのに、サンダーをかけようとのこのこ出向いて、作業場で大工さんたちに交じって作業するなんて、前代未聞のことだと思われます。
一体、どうしてこんな話になったのか.....、私も知りません。

ともあれ、午前中いっぱい、楽しく働いてきました。
粗いやすりをかけ、細かいので仕上げたら、ケヤキは虫食いだらけですが、つるっつるになりました。
虫の喰ったケヤキを柱、しかも門柱にするというのも、もしかしたら珍しいことかもしれません。


それにしても、フォークリフトはすごい!
プレカット屋さんの作業場を何台ものフォークリフトがすいすい走り回っていました。今でも、刻みを自分で入れる大工さんもいますが、フォークリフトなしで、重い材木を動かすのは、刻むより大変かと思います。

今日、そのケヤキの梁と柱を含む加工済みの材木が届きます。







2016年7月29日金曜日

パスハのマトリョーシカ


マリーナ・モロゾワさんのパスハ(ロシア正教の復活祭)のマトリョーシカです。
マリーナ・モロゾワさんのマトリョーシカは巧みですが、ちょっと暑苦しく感じることもあります。でもこれは、白っぽい色が多い色遣いのせいか、とってもさわやかです。


とくに、この少女たちがかわいいのです。
マトリョーシカの胴に描かれた人の姿は、何といっても「添えもの」なのであまり目は行きませんが、この少女たちは堂々と、マトリョーシカの娘と肩を並べています。


二番目の娘からは、卵、ネコヤナギ、人形、そして一番小さい娘はヒヨコを抱いています。
相似形のお顔ではなく、みんな、それぞれに個性あるお顔をしているのも、おもしろいところです。


後姿には、スノードロップの花や兎など、復活祭の定番が描かれています。


二番目の娘の前には鶏がいるので、靴は描かれていませんが、一番大きい娘と、小さい娘たちには、底にまで靴が描かれています。








2016年7月28日木曜日

消臭フクロウ

プレカット屋さんを訪ねると、よく90歳の理事長に大歓迎されて、理事長室に招き入れられます。
私たちが二人だけで家を建てていることを知っていらっしゃるからです。


理事長室には、組み木のパズル、さまざまな木彫り、茨城県の市町村のジグソーパズルなどなど、なんだか面白いものが、いろいろ置いてあります。
組み木のパズルは、前に全部やってみたので、次はミミズクに注目です。


ミミズクを手に取って見てると、理事長が、
「一つ持ってっていいよ。中に炭が入ってるんだ。車の中に置いて臭い消しにしようと、台湾で三千個ばかりつくってもらって売ったんだけど、あんまり売れなかったな」
と、一羽くださいました。

理事長は、材木屋さんの社長さんであると同時に、材木屋組合でつくったプレカット屋の理事長でもあります。好奇心いっぱいですが、ミミズクで商売しようとしたこともあるなんて知りませんでした。置いてある組み木も、売ろうとつくったものだったのかもしれません。


こんな手のかかるミミズクを三千個もつくったなんて、気が遠くなりそうです。
縦の線は、羽根のつもりでしょうか?籠を編んだ上に縦に走らせています。


開けると、消臭のための炭の粉が入っています。
すっかり古くなっているので、蓋は簡単に開きましたが、もともとは、ミミズクの首に巻いた黒い両面テープが、開かないように身と蓋を留めていたようです。


太めのひごを経材(たてざい)として放射状に置き、それに細いひごを巻きつけて底をつくる編み方は、日本の籠の編み方と同じです。


籠の編み方、とくに底の作り方はどこでも同じではなくて、その土地土地の特長があります。
台湾と日本が同じなら、中国にも同じ編み方の籠があるのかしら?

 
大きい籠では思いつかなかったので、ずっと前に骨董屋のがんこさんからもらった、上海の竹の鶏を見てみました。
胴の編み方が、ウィッカー編みの鶏です。


底を見ると、あれっ?網代に編んでありました。


変だなと蓋を取ってのぞいてみたら、内側はまぎれもないウィッカー、しかも、経材を一本足して、奇数にして緯材(よこざい)一本で巻き上げています。孫のはなちゃんが編んだ籠と一緒です。

これでまったく同じ底の編み方が、中国、台湾、日本にあることがわかりました。
 

中国、台湾、日本と同じ編み方があるのだから、韓国にもあるのでしょうか?
私は韓国の籠は持っていませんし、見たことがあるのは、柔らかい材料や柳で編んだ籠だけ、いつかウィッカー編みの韓国の籠に出逢うことがあるでしょうか?







2016年7月27日水曜日

まっ、いろんなことがあるよね


門と駐車場の上棟が間近に迫っています。たぶん、八月一日。

そんなおり、プレカット屋さんから、運んだ柱材数本が虫食いで使えないと電話をもらったので、我が家にある杉を運ぶことになりました。
長い間門の建設予定地に置いてあったけれど、門を建てるので、やっとの思いで作業棟の屋根の下に運んだ材木を、また取り出すことになりました。どれも、五寸角(15センチ角)の柱がとれるような、重い材木ばかりです。

低い屋根とコンクリート門柱の細い隙間から、夫がユンボで、屋根を傷つけないように慎重に材木を取り出し、軽トラックに積みます。
 

一旦、軽トラックの上に降ろして、積み直します。軽トラックは横付けしたいところですが、先日立てたコンクリート柱があるので、横づけはできません。


やっと6本積みました。
「あとは、軽に乗せるからな」


軽乗用車のルーフの上の鉄骨は、一本乗せただけでしなりました。


危ないので、鉄骨を材木で補強して、さらに乗せます。


「えぇぇ、三本も乗せるの?大丈夫?」
「大丈夫だ」
これが最後の一本で、合計9本の材木を二台の軽自動車に積み終わりました。
私は、背中の損傷で重いものを持てない身体ですから、ただ動かないように支えるくらいしかできません。それもあって、9本積むのに、二時間以上かかりました。

そしてよたよたと、二台ならんで峠を越えて、筑西市のプレカット屋さんまで運びました。


プレカット屋さんには、もちろんフォークリフトがあります。
乗せるのに時間と神経を使った材木たちは、一瞬にして降ろされました。


使いものにならなかったヒノキは持って帰ることになりました。


帰り道、これまで電車と出逢ったことのない踏切で電車と遭遇、一両だけの電車が単線をゆるゆると走っていきました。






2016年7月26日火曜日

アヒルの楽隊


しばらく前に、震度4の地震がありました。
棚からものが落ちたりはしませんでしたが、いつも地震に敏感なナイジェリアの楽隊は、二人ほど転んでいました。頭がちょっと重いのです。
 

豚の楽隊は、もちろん転んだりしませんでした。
 

最近、セーラー服を着たアヒルの水兵さんの楽隊が仲間に加わりました。
水兵さんですから、カモメということも十分考えられますが、くちばしの色は赤過ぎるし、お尻のかっこうからも、アヒルのようです。


アコーディオン奏者、


ドラム奏者、


そしてサックス奏者の、三羽編成です。


底には、MADE IN JAPANのスタンプが押してあります。
安っぽい、磁器の人形や、エッグスタンド、塩コショウ入れなどは、1970年ごろまで、日本の主要輸出品でした。


アヒルたちは、もとからの楽隊に仲間入りしました。
 

先輩方を立てて、ちょっぴり後ろに陣取りましたが、すっかり溶け込んで、毎日楽しく演奏しています。








2016年7月25日月曜日

丸〆猫


しばらく前に、昔ながらの今戸人形を、東京の土や昔の顔料にこだわって制作されているいまどきさん(吉田義和さん)が、ご自身のブログに、歴代の丸〆猫が一堂に会している写真をUPしていらっしゃいました。

後列左三体が戦前までの丸〆猫、右二体が嘉永安政(江戸末期)のころの丸〆猫、そして前列三体は、今戸人形最後の、生粋の人形師(今戸焼は窯がたくさんあり、瓦や日用雑器など、いろいろ焼いていた)の尾張屋、金沢春吉翁(1868-1944、明治元年-昭和19年)による作をお手本に、いまどきさんが再現されたものです。

嘉永安政スタイルの招き猫は、近世遺跡から出土した丸〆猫をお手本に型を起こし、色はすっかり剥げてしまってわからないので、いまどきさんは江戸後期の作と思われる今戸の伝世品の色味で再現されています。


招き猫がいつ頃生まれたはっきりしません。
しかし、歌川広重の『浄るり町繁華の図』(嘉永5年、1853年)には丸〆猫が描かれているので、19世紀半ばには存在したことがわかります。


『浄るり町繁華の図』の、丸〆猫(招き猫)の部分です。

『福の素』13号、1997年より

郷土玩具のバイブル的な版画集、『うなゐの友』(清水晴風著、1891から1913まで発行)には、全国の郷土玩具が収録されていて、第一編刊(明治24年、1891年)に、丸〆猫も紹介されています。
今でこそ招き猫は各地でつくられていますが、手を挙げた猫、すなわち招き猫は、今戸で発祥したことは、ほぼ間違いないようです。


さて、いまどきさんが復刻された丸〆猫を、私が初めて手にしたのは、1997年、日本招猫倶楽部の会誌『福の素』に載っていた、丸〆猫の記事がきっかけでした。


当時、いまどきさんはまだ高校の先生をなさっていて、古い今戸の招き猫が手に入らないなら自分でつくってみようとつくられたのを、頒布していただいたのです。
以後、ご縁があって、いまどきさんの丸〆猫は、少しずつ集まっていました。

いまどきさんが、ご自身のブログに歴代の丸〆猫をUPしたとき、我が家の丸〆猫とを見比べてみましたところ、ほとんど持っていましたが、二つばかりありません。


そこで、注文しておいたのが、出来上がって届きました。
左の猫は、いまどきさんのお手元にあるものを再現したもの、右は、嘉永安政スタイルのもので、出土したものの、色が剥げていてわからないので、彩色は現存の江戸後期と思われる「座猫」の配色で再現されたものです。


右の猫の方は、心もちクリーム色に見えますが、これは胡粉に雲母の粉を混ぜてパールカラーに仕上げてあるからです。


昭和の戦前まで続いたスタイルの猫たち。比べてみると、お顔は少しずつ違います。


というわけで、いまどきさんが再現なさった丸〆猫のすべてが、我が家にもそろいました。

おやっ、尾張屋写しの臥猫の前垂れの色と、敷物の色が、いまどきさんの写真のものと違っています。前垂れは通常、緑か「紫土べんがら」で彩色されているようですが、これは「きはだ」が褪せたのでしょうか?うっすら色がつき、全体に金粉が蒔いてあります。
直接いまどきさんから手に入れたものではなく、浅草の助六で買ったものだと思いますが。


嘉永安政スタイルの一体に、「本丸〆」とあるのは、浅草土産として爆発的に売れたとき、窯元が「我こそは本家本元」と差別化を図るために「本」の字を入れたものだそうです。

いまどきさんの丸〆猫は、毎年暮れの浅草の羽子板市で、「人形の吉徳」の出店に、羽子板とともに並びます。もちろん、注文でもつくっていただけます。

さて、巷には、招き猫は今戸焼きが元祖か、東京豪徳寺が元祖かという論争(?)があります。
どちらも、招き猫が誕生するに至った物語つきですが、これまで豪徳寺あたりに窯元があったという話はありません。豪徳寺の参拝土産に売られる招き猫は、今は常滑でつくられていて、その前は美濃でつくられていました。
さらに古作がいろいろありますが、いろいろな産地から運ばれたものと思われます。


『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)には、豪徳寺の招き猫として、この写真が掲載されています。とても小さくてかわいらしいものと書かれていますが、いまどきさんはこれを今戸でつくられたものと見ていらっしゃいます。

著者の西沢笛畝(1889-1965)は日本画家でしたが、人形や玩具の研究家であり、郷土玩具の収集家としても知られていました。これも彼自身の収集品だと思われますが、そのコレクションが今どうなっているのかは不明です。いまどきさんも実物を見たがっていますが、ご覧になったことはないそうです。

関東大震災や東京大空襲で、多くの今戸焼は失われました。しかし、西沢笛畝が『日本郷土玩具辞典』を上梓したのは、最晩年の1964年です。その時にはこの豪徳寺の招き猫は、お手元にあったのでしょうか?


いまどきさんはこの写真だけを頼りに、豪徳寺招き猫の型を起こし、試作されました。
丸〆猫のおまけでいただいてしまいましたが、これはまだ試作段階、もっと資料が見つかったらそれらを参考に、昔の姿に近づけていくそうです。

手を挙げて招いている猫は今戸発祥が確かだとしても、「招き猫」という呼称をつけたのは、もしかしたら豪徳寺かもしれません。あるいは、全然別のところかもしれません。
まだまだ謎の残っている招き猫です。