2017年10月31日火曜日

岐阜

神戸に一泊して、次の日の午前中、夫が大学で講義をした後、岐阜の友人Kさんを訪ねました。


Kさんの家は、長良川のほとり、かつては材木と和紙の集積場として問屋が並んでいた、河原町の一角にあるので、やはりその一角にある十八楼という宿に泊まりました。


十八楼は、今は一部高層ビルになっていますが、150年の歴史を持つ古い宿です。


これが、昔の姿です。
十八楼内の温泉の露天風呂からは、長良川の流れがよく見えて、なかなか趣がありました。
 

日本各地にある昔の町並みが、面影をとどめたり、リノベイションされたりはしているものの、実際は「大道具」として舞台をつくっているだけで、土産物店以外には実体がなくて、「死に体」になっているのに比べると、河原町通りは、県庁所在地の中心にあるという土地の利か、生きていました。

ここで店を開いていた問屋さんたちは、鉄道ができてからは駅周辺に、高速道路ができてからはインターチェンジ周辺に仕事場を移したものの、河原町の家を住宅として、今も使っています。
また、見事な木を集めた素敵な銘木店が、今も健在でした。


十八楼にあった古地図、です。
真ん中あたりに十八楼があり、その奥に河原町が、長良川の支流(運河?)に沿って並んでいます。


そして、これが、昔倉庫として使っていた建物を一部活かして建てた、Kさん家族の家です。
幅は狭いのですが、奥行きは二十数メートルあり、中はとても広々していて、M夫人は、ここで漆教室を開いていらっしゃいます。


さて、次の日の朝、急遽、ぎふメディアコスモスにある図書館に、Yさんを訪ねることになりました。


ぎふメディアコスモス前には、開館前から待っている人もいて、二階にある図書館は壁のない空間。
室内で乳母車を押している人も多く、老若男女、思い思いに楽しんでいる姿が印象的でした。


司書が選んだ本を置いてあるだけでなく、市民が選んだ本を並べたコーナー、DVDが楽しめるコーナー、みんなでつくった分野別の「まちのたからものマップ」を張り出している、などなど、いろいろな試みがなされていました。


昨今、子どもの声がうるさいと保育園建設に反対したりする風潮のある中、「子どもの声は未来の声」として、子どもの声の聞こえる図書館にしているのも、素敵な試みでした。
 


ちなみに、この建物の設計者は伊藤豊雄さん、魅力的な空間を生み出していますが、建物の前の広場では、いましも高層の市庁舎建設の基礎工事が始まっていました。
目の前に高層建築を建てれば、このぎふメディアコスモスの雰囲気は、ずいぶん変わってしまうことでしょう。





2017年10月30日月曜日

かわいい文化大革命

神戸芸術工科大学の展示室には、造形を選択している大学院生たちの、作品が展示されていました。学部を卒業しているとはいえ、入学半年目の作品なのにどれも、なかなかレベルが高く、分野も多岐にわたっていて、面白いものでした。
それを見て、展示室から玄関ホールに出ると、ホールのパネルに貼ってあった写真から何か視線を感じました。見ると、人民服を着た子どもたちの写真が10枚ほどありました。

パネルは、天井が高いホールに中途半端に立ててあり、しかも逆光でパネルの後ろが明るく、写真には上からの照明が反射していて、必ずしも見やすくなかったのですが、見入ってしまいました。
谷久文さん(中国の方)の組み写真、「文化大革命」でした。


どの子も底抜けに明るい顔をしていますが、よく見ると、モデルはたった一人の男の子でした。


Sさんにたずねると、谷さんはここで教師をなさっている方で、学生たちの展示があるなら、自分も展示したいと、貼ったのだそうです。
 

この写真の魅力は、アイデアもさることながら、モデルの男の子のかわいさです。
文化大革命という、シリアスなものを明るく笑い飛ばす面白さ。


キリストの最後の晩餐のパロディーもあれば、


おまるを使って、大小便をしている子どもがいるなど、見れば見るほど愉快な気分になります。


どこをとっても同じ顔と言えば、人物のすべてが自画像の、石田徹也の絵を思い出してしまいます。
石田徹也の自画像は無表情で暗く、文化大革命というテーマも、笑うようなものではないにもかかわらず、どちらも、どことなくユーモラスな気分にさせてくれます。


かわいいなぁ、面白いなぁで、楽しいひとときを過ごしました。





2017年10月29日日曜日

鳥尽くし


今年も、神戸芸術工科大学で講義する機会をいただいた夫について、神戸に行ってきました。
犬のうなぎも同行するので、車で行きました。うなぎの調子はいま一つで、最後まで私は残るかどうか予断を許しませんでしたが、何とか無事に、行ってくることができました。

Sさんの家に泊めていただくので、お土産は何にしよう、と考えて、


二つあった、鳩の蓋物を一つ、差し上げることにしました。

さて、鳩をお渡ししたら、Sさんご夫妻にはことのほか喜んでいただきました。
というのは、昨年うかがったときにはまったく気がつかなかったのですが、ご夫妻は大の鳥好きだったのです。


そう言われて見回すと、ピカソの版画(本物)は飾ってあるし、


レンブラントの時代(17世紀)の、何とかさんの遺した数少ない絵の複製というのもありました。


そして、庭には、雀やほかの野鳥たちへの餌場があって、そこには、金属でできた大英博物館のミュージアムショップで買ったという、ロビンが置いてありました。


中でも、私が心惹かれたのは、この鳥です。
神戸市道場町の太福寺(たいふくじ)で、祭礼の折に授与される、「雀の巣ごもり」で、生の漆の木を削ってつくってあります。最近はつくれる人が少なくなっているそうです。
もうすっかり乾いているので、漆の怖い私でもかぶれることはありませんでした。

東北から北海道にかけては、「削りかけ」はよく見られるものですが、神戸にもあったなんて、まったく知りませんでした。
また、テーマが雀というのも、ありそうで、なかなかないものです。
 

そして、キャビネットの上に置いてあったのは、35年ほど前、Sさんたちが結婚された時に、私たちがお祝いに差し上げた、鴨の蓋物でした。
Sさんご夫妻は覚えていらっしゃったものの、差し上げた私はまったく失念していて、先回伺ったときは見たのかどうか、久しぶりの御対面でした。







2017年10月25日水曜日

季節外れの大掃除

「26日に行くから」
と息子から電話がありました。
「私たち、27日から神戸に行くんで、3日ほど留守にするんだけど?」
「レンタカーして、三人で行くからかまわないよ」
そうか、息子一人じゃないなら、ご飯の心配が要りません。
息子が一人で来るときは、ご飯をつくってやらなくてはなりませんが、一年に一回か二回、仕事がらみで来るときは、彼らが材料を買ってきてお料理も勝手にやるので、心配ありません。
「じゃぁ、どうぞ」
「11月6日には、今度は六人で、5日ほど泊まるから」
内心は、えぇぇぇですが、愛想よく対応します。
「はいはい」
「布団ある?」
「何とか大丈夫でしょう」


息子がくるとき、一番気をつけなくてはならないのは、埃です。
埃アレルギーで、埃があると、くしゃみや鼻水がとまりません。
いつも、私たちは埃をものともせず暮らしているわけではありませんが、我が家には犬も猫もいます。どうしても埃がたちます。蜘蛛も、すぐ巣を張ります。
というわけで、息子のいそうな場所を中心に、念入りに掃除機をかけ、埃キャッチシートでモップかけをして、さらに雑巾がけをします。
 

家の構造からして、上り梁と垂木の間にはスペースがあるし、上り梁に渡した母屋(もや)と屋根の裏との間にもスペースがあります。
居間の母屋や上り梁など、高いところは簡単には掃除できませんが、二階は天井が低いので、雑巾がけします。
 

埃が、たまりたい気持ちになれば、ほかにもたまりやすいところはいっぱいあります。


階段だって、いかにも埃がたまりそうなつくりです。


三人となると、一人は猫部屋に泊まります。
彼らは、何だか仮設ゲストハウスが嫌いで、いつも二階にぎゅうぎゅうになって泊まります。
となると、猫部屋に敷いていた絨毯は持ちだして、叩いて、掃除機をかけます。


そして、埃取りの粘着紙で、さらに埃を取ります。


さて、絨毯の裏はどうする?
毛糸が絡まり合って、よく見ると猫の毛などもついていますが、面倒なのでパスしました。
夜中に、くしゃみが出ないといいのですが。

というわけで、二、三日、ブログをお休みします。
一番嬉しいのはトラです。一人で心細くお留守番をしなくても、息子がいてくれます。
もっとも、息子は猫好きですが、猫アレルギーでもあります。






2017年10月24日火曜日

裁縫のお供

雨の日曜日、久々に裁縫をしました。
戸棚を片づけていると、利用していない布がありすぎるので邪魔。そうだ、仕立ててしまおうと思ったのは、もう半年も前のことでした。
鋏を入れられない布は別として、無地の布、プリントの布などなど、かつて、なにかをつくろうと集めた布が、いろいろあります。
タンザニアのプリント布でワンピースをと思っているうちに、夏は去ってしまいました。しからば厚手の布でと、ボリビアの藍染手織りの布を裁ったのですが、裁ったところでぐずぐずしていて、はや数週間経ってしまっています。
昔は、服は自分でつくる以外ありませんでした。その延長で、既製服が手に入るようになっても、ときおり、なんとなく服をつくってきましたが、こんなに腰が重いということは、裁縫、とくにミシンは好きではなかったと、今更ながら思ってしまいます。
それでも、外は雨。決心して、食卓にミシンを運んできました。

縫いはじめて、糸くずを食卓の下のゴミ箱に捨てようとして、母が折り紙の卓上くず入れを使っていたことを思い出しました。当時、母は広告の紙を真四角に切ってつくっていましたが、その後、デイサービスなどで習ったのか、長方形のままつくっていました。


見よう見まねで、私もいくつかつくっておいたのを思い出して、引っ張り出してきました。
畳んであるのを広げて、このまま使おうとしましたが、底は尖っていて、どうしてもよじれてしまいます。
枝豆の莢や栗の殻など、重さのあるものを入れるとすぐに安定しますが、軽い糸を入れるとなると、いつまでも不安定なので、強く折り目をつけていて、思い出しました。先日、さちこさんが野菜を送ってくれたとき、新聞紙で折った容器にジャガイモを入れていたのですが、もっと浅くつくってありました。
もう一回外に折り返せば、縁全体に厚みが出て、安定しそうです。


というわけで、外側に、もう一回折り返してみました。
折り返すまでは、厚い縁と薄い縁があって、それもバランスが取れない一因になっていたのですが、ほどよく安定しました。
それに、浅い方が使い勝手もよいものでした。


さて、ミシンの手元がやけに暗いのに気がつきました。元々こんなに暗かったかしら?
後ろの方ばかり明るくて、肝心の手元が暗いのです。
我が家の食卓は、窓の外の桂の木が大きくなりすぎて、すっかり暗くなっている上に、この雨です。


そこで、息子にもらった充電式のライトを使ってみました。


このライトは懐中電灯とは桁違いの明るさ、暗い場所で作業するためのものです。


電池はインパクトドライバーにも使える電池で、かなり長持ちします。
大工仕事だけでなく、最近は夜中に犬を外に連れ出しておしっこをさせるとき、しているかどうか見るときに重宝しています。
ミシン仕事にも、役立ちました。






2017年10月23日月曜日

台風

台風の風が強かったのは夜半で、今は風が弱まっています。
我が家はペアガラスなので、窓を閉め切るとほとんど外の音が聞こえないのですが、さすがに激しい風の音で、夜中に目が覚めました。


寝室の、犬猫出入り口は、ときおり悲鳴のような音を立てて風にあおられ、室内に風が入り込みました。珍しいことです。初めてでしょうか。

犬のうなぎは、数年前から視力が完全に失われています。前後して聴力も失われ、あれほど怖がっていた雷もへいちゃらになったほどですが、これらの障害は日常生活には、まったく支障はありませんでした。
ところが、数か月前から、嗅覚が衰え、さらに、方向感覚が失われました。まっすぐに歩けなくなったのです。
それでも、緩やかに弧を描いて左へ歩きがち程度の時は、自分で犬猫出入り口から外に出て、排せつしていましたが、やがて同じ場所をくるくると回るようになり、自力で外に出られなくなって、トイレには連れて行ってやらなくてはならなくなりました。
放っておくと、うなぎは止まることなく歩き回ってしまうので、狭いところに首を突っ込んだら出られなくなるし、玄関に落ちたら、段差が上がれません。

 
そこで、寝場所にバリケードをつくって、必要な時、とくに夜の間は閉じ込めることにしました。
昼間は時間をみて、夜は気配がしたら、排せつに外に連れ出すことをしていますが、間に合わなくて寝場所を汚すことも多くなったので、一週間前からは、おむつをしています。
おむつをするのを嫌がりますが、つけてしまえば大丈夫、ずいぶん楽になりました。


そんなうなぎですが、台風が吹き荒れた昨夜は、いつも起きる夜中の1時前後に目を覚ましませんでした。目を覚ましたら、暴風雨の中を外に連れ出さなくてはならないのでおっくうだなと思っていたのですが、なんと4時半まで寝続けてくれました。

問題は猫のトラです。
3週間ほど前に、いつもの猫にいじめられて、尻尾にけがをしました。そのあと、妙に憶病になって、夜は出たくないのか、気がついたら、平笊に敷いた新聞紙の上に排せつしていました。
なんか臭いと思ったのですが、トラがそそうなんてと、信じられませんでした。
コーヒーかすを乾かすために用意していた新聞紙でしたが、片づけてしまいました。
しばらくしたら、使っていない裏の入口の土間が臭います。見ると、またトラがそこを、トイレにしていました。夫は、外を怖がっているトラに同情して、「タイルだからいいじゃないか」と言うのですが、私はいや、板を立てて、そこへは行けないようにしてしまいました。
そしたら今朝、落ちてしまったうなぎを拾い上げようとして、トラが玄関の大谷石をトイレにしているのを発見しました。
新聞紙の上、タイルや大谷石と、一応排せつ場所を考えてはいるのですが、うなぎで手を取られるというのに、トラにまでそそうされてはたまりません。
3.11の地震の直後に買った、猫トイレを引っ張り出してきて、裏口のタイルの上に置いてみました。
今は、安心しきって私の横で寝ていますが、使ってくれるでしょうか?


昨夜の台風で、どんぐりは落ちるし、


木の枝もばらばらと落ちていますが、大木が倒れるということはなかったようです。


屋根の上に置いた恵比寿さま、釣竿はただ差しているだけなのに、穴もそう深くないのに、吹き飛ばされたりしていませんでした。
雨は、まだ止んでいません。





2017年10月22日日曜日

割烹着


しばらく前に東京新聞に載っていた、1958年の渋谷の写真です。
玉川通りから、渋谷駅の方を見ていて、1957年にできたばかりの東急文化会館が威容を誇り、五島プラネタリウムのドームが見えます。

面白いのは、右の方、道路を横切っている女性が割烹着を着ていることです。
朝の連続テレビ小説を見て時代考証が変だと思うことの一つに、割烹着を着たり、 エプロンをつけて歩いている人が出てこないことです。
今より、着物の人は多かったし、洗濯機は普及していないし、洗濯しにくい服を着ていたし、料理するのにも汚れやすい台所だったりで、家庭の主婦は家にいるときはいつも割烹着や、サロンエプロン(前掛け)を着けていました。
1960年代には、私の一家は品川と五反田の中間あたりに住んでいましたが、母も、サロンエプロン姿のまま、五反田駅のあたりに買い物に行っていました。
冷蔵庫がなかったときも、氷を入れて使う冷蔵庫があったときも、母は毎日のように買い物かごを下げて、魚屋さん、八百屋さん、肉屋さん、かしわ屋(鶏肉屋)、お菓子屋さんなどをまわっていました。

ここに来てわりとすぐだから約15年前、ご近所のおばあちゃんたちは、割烹着を愛用していました。たけさんが式服を買いたいというので、たけさん、ちよさんを車に乗せて近くの町まで行ったとき、ちよさんが、真新しい、たぶんよそ行き用の青いギンガムチェックの割烹着を着てきたのが新鮮でした。
今どきだから、かわいい割烹着しか売っていなくて、犬のアップリケがついていました。
最近はこの村でも、割烹着を着ている人を、とんと見なくなりました。

 





2017年10月21日土曜日

備前


最初見たときは、ブロンズの鋳物に見えました。


てかてか光っているし、ずっしりと重いのです。


ところが、お尻には「備前」と銘がありました。 備前となれば、土です。
首の後ろには、あれっ?瀬戸の磁器の猫の約束事の、くぼみがあります。そういえば、なんとなく瀬戸の猫に似ています。


並べてみました。
瀬戸の招き猫から型を取ってつくったものかと思いましたが、土は焼いたら縮みます。この備前の猫は、瀬戸の猫の定番と同じ大きさですから、一回り大きくつくった原型(雄型)を元にして雌型をつくり、型抜きしてつくったものでした。

瀬戸の猫は磁器、備前の猫は陶器という違いがありますが、瀬戸の猫が、250から280グラムなのに対して、備前の猫は、750グラム、約三倍もの重さがあります。


瀬戸の猫も、備前の猫も、つくり方は同じでしょう。身体と頭は前後二つに割れる雌型(めがた)に伸ばした生地を貼りつけて乾燥させ、それを型からはずして貼り合わせたものなので、中は空洞ですが、それに挙げた手を別につくり、くっつけて焼きます。


備前焼きは、ほかの産地の陶器のように、素焼きをしてから釉薬をかけて本焼きをするのではなく、釉薬を使わないでいきなり本焼きする、「焼き締め」という方法でつくります。
長時間、ときには一週間も、薪で窯焚きします。もしかしたらこの挙げた手が、ちょっとお辞儀しているのは、窯の中で傾いてしまったのかもしれません。


普通、陶器や磁器で招き猫をつくるときは、底はまったく閉じてなかったり、大きな穴が開いている状態で焼きますが、備前の猫は底が閉じてあって、底と首後ろのくぼみに二つ、小さな穴が開いているだけです。


尻尾のつくりも、焼いてから彩色する瀬戸の猫と、彩色しない備前の猫では、形が違います。


お顔も、色を塗る予定がないためか、瀬戸の猫より丁寧につくってあります。
瀬戸の猫に比べると、頬はふっくらとしています。
 

どうして、備前で招き猫をつくったのでしょう?

私が子どものころまで、いんべやき(=備前焼)はただの実用品でしたから、岡山あたりではたいていどの家にも、一つや二つはあったと思います。祖母の家にも、花びんやすり鉢などありました。
招き猫はそんな、時代につくられたものでしょうか?
そんな実用陶器を、芸術品にまで高めたのは、金重陶陽さん(1896-1967年)たちでした。

岡山県備前市あたりでは、古墳時代から窯が焼かれました。
平安時代まで須恵器でしたが、鎌倉時代初期には、還元焔焼成による焼き締めが行われるようになり、鎌倉時代後期には、現在と同じ、酸化焔焼成による陶器が焼かれるようになりました。
堅牢なので評判がよく、水がめやすり鉢などの実用品をつくっていましたが、室町時代になると茶道が発展し、茶陶としての人気が高まりました。
ところが江戸時代に入ると茶道は衰退して、再び、水がめ、すり鉢、酒徳利など、実用品の生産に戻りました。それを、昭和に入ってから、金重陶陽さんらが桃山陶への回帰をはかって、備前焼の人気を復興させたのです。

学生時代に備前に行ったとき、金重陶陽さん、藤原啓さん(1899-1983年)、藤原雄(1932-2001年)さんなどにお会いしました。
陶陽さんが、電気轆轤も蹴轆轤も使わず、お連れ合いが轆轤に空いた穴に棒を突っ込んで回すのに合わせて作陶していらしたのが、印象的でした。
啓さんは、自分でつくった豪華な大皿にご馳走を並べて、豪放磊落にお酒を飲んでいらした印象しか残っていません。
そんな、どちらも後に人間国宝になられた、対照的なお二人でした。