2018年3月31日土曜日

ル・コルビジェの版画


作業棟に版画が転がっていました。
その昔から、我が家には壁が少なくて、その割には絵葉書や布を額装したものなど、壁に掛ける以外、置き場所のないものが多く、あぶれた額縁はあちこちさまよっています。

ところでこれは印刷ではなく、フランスの建築家、ル・コルビジェの本物の版画です。


コルビジェ好きの夫の友だちがくれたもの、63枚刷ったうちの8枚目、コルビジェのサインもあります。
巨匠の作品なのに、我が家では昔から冷遇され切っていて、マット(絵を取り囲む厚紙)にはシミもできています。
とりあえず、外はきれいに拭いてみました。今度ホームセンターに行くときに、マットを替えてもらったら、もっと見栄えがするかもしれません。


掃除しようと開いてみたら、絵の裏に記載がありました。
フランス語なのでよくわかりませんが、題名は「独裁者の手」というものらしい、1963年の作品です。ル・コルビジェは1965年に亡くなっていますから、最晩年の版画ということになります。

ル・コルビジェには、今でも熱狂的なファンがいて、友人で建築家のM.Iさんは昨年、メガネをコルビジェスタイルのものに替えています。


これは、コルビジェが設計したロンシャン教会の礼拝堂です。




2018年3月30日金曜日

とびら


北側の扉ができました。
といっても、蝶番やドアノブをこれからつけなくてはなりません。
北側の扉は、枠の中部分に松の板を使いましたが、幅が37センチもある幅広の板は、これ一枚、あるだけです。
南側の扉の中部分には、どんな板を使おうかと、手持ちの材を物色します。八寸幅の杉板をぶつぶつ切って横並べするのが一番簡単ですが、できれば、ほかにあまり使い道がない板を使いたいものです。


目をつけたのは、ケヤキです。
真ん中の節だらけの板が一番面白いのですが、厚みがありすぎます。また、こんなに節の多い木を、自動かんなに掛けるのも至難の業です。
というわけで、右の長い板にしました。ずいぶん前に、薪用にと、製材所でいただいたものです。


重いので、まず扱いやすい大きさに切りました。
そして、扉に横に並びで収めるよう、薄くして相じゃくり加工もしました。


この左の板は、大きな丸い節があって気に入っていたのですが、


形に切ってから不用意に自動かんなに掛けたら、節のところが逆目になってしまって、欠けて、使いものにならなくなりました。
しかたなく、右側の予備につくって置いた、ありきたりの部分を使いました。


まず、片方の縦枠に横枠を差し込んでおいてから、中板を横向きに並べて入れ、片側の枠をはめます。


素材としてのケヤキはあまり好きじゃないけれど、贅沢は言えません。


相じゃくりは、溝ができるようにつくったので、外側だけですが、溝が入りました。





2018年3月29日木曜日

今戸毬猫


いまどきさん(吉田義和さん)の今戸焼き復刻猫の、毬猫です。
なんてかわいいのでしょう!
いまどきさんのことですから、関東大震災と東京大空襲で埋もれ、出土された猫などの型を探して忠実に復刻されたもの、彩色も、江戸時代に使われたキハダ(黄柏)やスオウ(蘇芳)などの植物染料を何度も塗り重ねるなどして、その昔の猫を復元されています。


それにしてもこの完成度、非の打ちどころがありません。
今戸焼でも、ものによってはまだ抽象化しきれていないものもあり、犬もその一つと(私は)感じますが、猫は(狐も)すごいと思います。


ずっと眺めては和んでいて、飽きません。






2018年3月28日水曜日

扉づくり


出入り口の扉をつくっています。
母屋に面した北側と、反対側の南側、二か所の扉をつくります。


戸当たりは、あらかじめ柱に溝を彫っておいたところに、材を埋め込んでいます。


枠は、母屋の建具をつくるために、その昔に買った、無節の材を使います。
母屋では、台所、食品庫、脱衣場などにも扉をつけるつもりでしたが、結局カーテンで間に合わせたりしてつけなかったので、材がまだ残っているのです。
木材は、古ぼけて見えても、削ると中はまっさらなのが素晴らしいところです。左が削る前、右が削ったあとです。


さて、枠の中は横張とか縦張りとか、いろいろできますが、できたら古い松の板を活かしたいと思いました。
しかも、スタンプを残したらおもしろいかと思って、周りを磨いてみたのですが、夫が、
「下手物趣味!」
と、めちゃくちゃ悪く言います。
まぁ、こんな幅広(37.5センチ)の国産の松の板があるということだけでも、古いことは十分わかるのですが、私としては、消さないでスタンプを残したい気持ちが、しばらく残りました。


松の板をそのまま嵌めるなら、枠は太くなくては、幅が足りません。
枠は、取っ手をつけるので、幅75ミリもあれば十分なので細くして、残った材は障子をつくるときに使ったりすれば経済的ですが、太いまま使うと、なんとかぎりぎり松の板を活かせるので、そのまま使うことにしました。


さて、枠を加工している間も、松の板のスタンプを残そうかどうか、迷います。


でも最終的には松の板をきれいに削って、板厚を決めてから、枠に嵌める溝を彫りました。


武骨な扉ですが、こんな感じになります。
奥に見えるのは我が家の桜、咲きはじめました。




2018年3月26日月曜日

日曜日

もやではじまった昨日、日曜日は、よく晴れて穏やかな一日でした。
「無印良品」の店でドアノブを見て、ホームセンターにも行きたいと、つくばに行きましたが、取り扱ってはいませんでした。
最近は「無印良品の家」というのをあちこちに建てているので、店舗で建築金具を売る必要がなくなったのでしょう。以前はネットでも売っていましたが、今は有楽町店に行かないと買えなくなっています。

さて、お昼は何を食べましょうか?
二人とも軽く食べたい感じでした。
無印良品のあるショッピングモール内のパン屋さんで食べようとしたら、長蛇の列だったので、旧市内(?)の、いつものパン屋さんに行くことにしました。
そこなら、店の外にテーブルが置いてあり、コーヒーは無料で飲み放題、買ったパンを食べることができます。ところが、そこも外まで行列が続いていて、揃ってせっかちな私たちは並べません。
そこで、タイ料理屋さんに行きました。以前はよく行きましたが、昨年から食材がお粗末になったので、しばらく足が遠のいていた店です。何年も値上げしないで、昼食500円で頑張っているのは立派とはいえ、タイの麺のセンレグナームから、フィッシュボールはなくさないで欲しいものです。
ところが、そのタイ料理屋さんも行列。やれやれ、つくばの人たちは、まだ桜が咲いていないので、市内でうろうろしているようでした。
で、タイ料理屋さんのお隣のネパール料理屋さんに行き、やっと昼食にありつけました。


最初から、ネパール料理屋さんに来なかったのは、お昼は軽く食べたいと思っていたのに、ここのナンが大きいからでした。


カレーは、チキンカレーと、マッシュルームのサグカレー(ほうれん草カレー)を、辛口で頼みました。マッシュルームのサグカレーは前からあったかしら?前に食べたのはチキンのサグカレーばかりで、マッシュルームは初めです。あぁ、コテージチーズのサグカレーが食べたいものです。
お腹がすいてないと思っていたのに、なんだ、完食してしまいました。


昨日、夕日は足尾山の真上に沈みました。
足尾山は我が家の真西にあります。
春分秋分の日に陽が真西に沈むのですが、足尾山の標高は628メートル、我が家は標高90メートルなので、我が家から見て、足尾山の90メートルの高さに真西に沈むのが春分秋分の日というわけで、数日遅れで、足尾山の頂上に沈むのを見ることができます。

桜もほころび始めた、よい日曜日でした。





2018年3月25日日曜日

目まぐるしい朝


朝起きたら、八郷盆地には朝もやが満ち満ちていました。
と、気がついたら我が家も霧に包まれてしまって、山も見えなくなっていました。


さて、外に出ていたら、お日さまに温められたのか、霧は見る見るうちに晴れてきました。


そして、また、霧がかかる前の状態になりました。


今日あたり、暖かくなってコブシは散るかもしれません。




2018年3月24日土曜日

『ジャックと豆のつる』


しばらく前に、益子の「内町工場」に行ったとき、『ジャックと豆のつる』(ジェイコブス作、イギリス民話選、木下順二訳、瀬川康男絵、岩波書店、1967年)を買ったのは、ただ、大好きな瀬川康男の絵に惹かれてのことでした。

そのとき、3冊買ったのですが、『ジャックと豆のつる』は、どうせ知っている話ばかりだろうからと、読むのを後回しにしていました。


そして、読むものがなくなってから手に取って、びっくりしました。
なんというか、今どきのきれいごとの世界ではなく、生々しく、ということは生き生きとお話が踊っていたからです。


いつも、あとがきから読んだりするのですが、我慢我慢、全部読んでからあとがきを読んで、「なるほどね」とうなずかされました。

あとがきには、民話というものは、文字を持たず、語り継がれてきたものですが、それを文字にした人たちは、J.ジェイコブズ、木下順二を含めて、グリム兄弟なども、「民話に語られたものは何か?」という考察のもとに、当時の言葉でできるだけ語る、一般庶民の言葉で語る、ということを心がけてきた人たちであったと記されていました。


また木下順二は、日本の民話は、明治・大正期の「近代化」の中で、冷遇され歪曲され、次に来る戦争の時代の中でさらに歪曲され、「伝承文化」のもっとも弱い存在の一つであったゆえに、「生き生きとした肝心な部分が」が相当消されてしまったとも記しています。


J.ジェイコブスの『 イギリス民話集』(English Fairy Tales)は1890年から94年にかけて発表された古いものですが、言葉は(翻訳当時の現代語と)そう変わっていなかったそうです。
44編訳されていますが、それらは、ふしぎなはなし、おろかもののはなし、またまたおろかもののはなし、力だめしのはなし、だれでも知っているはなし、そのつぎにだれでも知っているはなし、またまたふしぎなはなし、という構成になっていました。

親もない貧乏な子どもが成功したり、ずるいやつがうまくやったり、おろか者がおろか者を笑ったりと、なかなか痛快です。


「三匹の子ぶたのはなし」でも、三番目の子ぶたが二匹の子ぶたを助けてめでたしめでたしとはならず、二匹は簡単に狼に食べられてしまうし、その狼も、改心して仲良く暮らしましたとさではなく、三番目の子ぶたにぐつぐつ煮て食べられてしまいますから、現在この本が発売されたとしたら、たちまち良識のある人々にクレームをつけられて、発売禁止になってしまったことでしょう。




2018年3月23日金曜日

改良


写真があるものだと思ったら、撮っていませんでしたが、ここは二段に穴を開けた棚をつくって、スクリュードライバーを差していました。
プラスとマイナスのドライバー、キリ、目打ちなど差していましたが、場所を取るわりにはたくさん収まらず、ごちゃごちゃと、いつも汚らしくなっていました。

インパクトドライバーがある時代とは言え、インパクトが使えない場所の作業もあり、スクリュードライバーの出番も少なくありません。とりわけ、マイナスのドライバーは缶を開けたりと、別の目的でもよく使います。 


そこで、ドライバー入れを別につくりました。
 

そして、普通の引き出しをつくるには高すぎるところに置きました。


プラス、マイナス、その他と分けて差してあるので、ケースを引っ張り出して適当なのを取り出します。


キリだけは太さも長さも違うので、別の収納場所を見つけなくてはなりませんが、そのほかはきれいに収まりました。


ドライバーを差していた場所の棚板は取り外して、ステンレスパイプを2本差し込み、これまで行き場所はあったものの、最善ではなかったクランプ類を仕舞うことにしました。

右の電動工具の棚は、出し入れも激しく、コードをきれいに仕舞えないので、いつもごちゃごちゃしてしまいます。高いところの利用も問題、頻繁には使わないもの、ペンキ缶など置けると最高、片づくのですが、持ち上げにくい重いものは、上げられません。
軽くてかさばって、頻繁に使わないものはビニールシートくらいですが、きれいに畳んで、やっとの思いで仕舞うとすぐ夫が出してしまい、二度と仕舞うのがおっくうになります。ここも、改良の余地ありです。





2018年3月22日木曜日

バンバラのチワラ

先日、ボゾの生活をもっと知るためにネットでいろいろ見て、なかなか楽しい時間を過ごしました。
たった15年前には、地上電話の回線しかなくて、料金を気にしながら、メールを送る時など、必要な時だけネットにつないで、急いで切っていたというのに、世界は目まぐるしく変わるものです。

というわけで、ボゾに味を占めて、ほかの民族グループの人たちも、覗いてみたくなりました。モシ、ロビなどガーナ北部に住んでいた懐かしい人たち、木工品や織りものなどを頭に乗せて歩いて家に訪ねてきた、風格のあったハウサの老商人、いつも市場で元気にしていたヨルバのおばちゃんたち、などなど、興味深い人たちはたくさんいますが、まず西アフリカの大民族のバンバラを、覗いてみました。

バンバラと言えば、チワラです。

MAGより

チワラとはカモシカで、バンバラの人々にとっては特別な存在、カモシカがバンバラに農耕をもたらしたとされています。
雄と雌のチワラが対になっていて、雌は背中に子どもを乗せています。そして、雄のチワラはとくに造形的に優れています。
もちろん、一本の木から彫り出したものです。

ギャラリーかんかんより

バンバラの人たちは、農耕祭のときチワラを頭に乗せ、豊穣祈願の踊りを踊ります。
後ろに見えるのは、18世紀の半ばに建てられたモスクです。そう太くない木、そして日干し煉瓦という、近隣で手に入る材料だけで、内部に大きな空間をつくり出すことに成功している、素晴らしい建物です。
土づくりの建物は、雨季には多少は傷みますが、雨季明けに表面を修理すれば元通り、雨季明けの修理を見たことがありますが、見事によみがえります。

バンバラの分布図

バンバラ人はおもにマリに住んでいますが、ブルギナファソやコートジボワールなど、近隣諸国にも住んでいて、人口は約4,000,000人、バンバラ語を話す人はもっと多く、約6,000,000人いると言われています。


広域に暮らしているため、住む地域によって、チワラの形も、踊りも、少しずつ違います。


これは、1853年(明治14年)にヨーロッパ人が見たバンバラ人です。
農耕に従事している民族であることや、服装は今とほとんど変わらないことがわかります。


それにしても、かっこいい衣装です。
この女性は、できたてを売るお菓子屋さん。雑穀の粉を甘く味つけしたものを、タコ焼き器のようなお鍋で焼いて、それを二つに合わせたお菓子をつくっています。

Trip down memory lineより

こちらは、かっこいい、若い男性たちです。

alamy stock photoより

乾季のバンバラの村です。
雨季になると、雑穀や豆、そのほかの野菜など植えるので、一面が緑になって風景は一変します。


さて、我が家のチワラです。
 
 
白壁のときの方が映えましたが、今はインドネシアの絵のナーガと共生しています。
 

雄の顔も雌の顔も、ブリキ板で装飾し、宝貝(子安貝)を飾っています。
 

角の先につけた動物の毛は、このあたりに多い、羊の毛でしょうか?それとも野生動物の毛でしょうか?