2017年5月25日木曜日

棕櫚のトレイ


Oさんの家に飾られていた、棕櫚の葉の籠です。
知り合いの方がつくられたものだとか、籠の原型であるココヤシの葉の籠に通じます。


以前、棕櫚の葉で魚をつくったら、時間が経ったら乾燥して、スカスカになったことがありましたが、時間が経っていても美しいこと。


下から見たところ。


というわけで、早速棕櫚の葉を切ってきて、真似てつくってみます。


葉が、うちわ形ではなく、円形についているのをどう処理するのか、結論を出さずに見切り発車で編み始めます。


葉が多すぎるので、途中から二枚重ねて編みましたが、きれいな船形にはなりそうにありません。


そろそろ限界かなと、葉を数枚切り離しました。


葉のつけ根が硬くて曲がらないため出っ張って、ちょっと似て非なるものができてしまいました。
 

見せていただいたのは、鳥のように軽やかだったのに、できたのは、太り過ぎた金魚のようでした。


で、数日たってから直そうとしたら、硬い葉柄が折れてしまったので、柄を短く切りました。
舟みたいで、太った金魚よりましかな?
なかなかうまく編めません。




2017年5月24日水曜日

丸散らしの器

「最近、レストランや居酒屋を開くのに、伊万里使う人が増えていて、手持ちのものが東京でごっそりまとめて売れてしまったのよ。だから仕入れに新潟まで行って、夜中帰って来たから、ほとんど寝てないんだ。ふらふら」
と、骨董市でまことさん。
全部売れてしまったにしては、その日も大小の伊万里の器が所狭しと並んでいました。

数十年前に比べると、たくさん出回ってきたためか、伊万里は値段が手ごろになっています。
店を開くとき、新しい器を揃えるより、ずっと安くつくと着眼した店主さんのお店、素敵なお店に違いありません。
「これなんか、煮物を入れて、カウンターにどーんと置いておいたら素敵ね」
中には、洗面器ほどの大きさの鉢もありました。


器はもうたくさん、と思いながら、ついつい印判の鉢を買ってしまいました。


直径23センチ、高さ8.5センチ、使いやすい大きさです。
 

丸紋に、勾玉紋が散らしてあります。
  

散らし方にむらがあって、込み合っているところもあれば、空いているところもあります。


いろいろ盛ってみたら具合よかったのに、写真を撮り忘れました。
慌てて撮ったこれは、茹でたブロッコリーと切ったトマトという芸のなさ、超ナチュラル(超手抜き)な、料理とも言えない代物でした。









2017年5月23日火曜日

鉄もの


招き猫を見た日、まことさんの店に並んでいた、鉄製品の数々です。
鉄大好き、刃物大好きな私にとって、興味深いものがいっぱいでした。
手前真ん中あたりと、奥真ん中あたりの、蟹の爪みたいなものは何だろう?これまで見たことのないものです。


この鉄の収集家は、まことさんの古いお知り合いで、鉄であれば、洋の東西にはこだわらなかったそうです。
この、草引きは、いったいどこの国のものかしら?長い柄につけるようになっています。鉄の味は、たまりません。
穴あき杓子は、インドのステンレス製のものにそっくりでした。


その日は、すでに招き猫と伊万里の鉢で福沢さんとお別れしていたので、鉄は見ただけでした。

でも、次の骨董市開催日に、地面に敷いてある藁のむしろ一枚をいただく約束をしました。
手で編んだ、とっても素敵なむしろ、いまどきなかなか見かけないものです。







2017年5月22日月曜日

前垂れをつけた招き猫


骨董市で、遠くから、まことさんの店に、招き猫の後ろ姿が見えました。
「大小あるなんて、豪徳寺招き猫かしら?」
と思いつつ近づきます。


なんの期待もせず、前に回ると、わぉぉ、初めてお目にかかる猫たちでした。
「この猫はなに?」
と、思わず変な質問をしてしまいました。
「招き猫だよ」
と、まことさんが返します。


「こんな眉は初めて見たかな」
と、まことさん。


「眉がこんなのはいるけれど、こんな前垂れは初めて見たかな」
と、私。
小さい方の前垂れには、唐草模様が浮き彫りになっています。


鴻巣の練りものの招き猫にちょっと雰囲気が似ていますが、鴻巣の猫たちよりずっと大きく、ずしりと重い素焼きの猫です。


家に帰ってから、『郷土玩具招き猫尽くし』をひっくり返してみました。
隅から隅まで見たけれど、どこの猫たちかわかりませんでした。
手足の指の赤が目立ちます。


「あぁ、猫が収まるところに行ってよかったなぁ」
と、まことさん。
「あぁ、猫が来るところに来てくれて嬉しいなぁ」
と、私。


「これはおまけだよ」
といただいた糸巻きには、東京で開かれて骨董市のためにつけたのか、かなりのお値段がついていました。




2017年5月21日日曜日

本の間から、「昔」が出てきた!

時折、思い出したように夫の本を片づけています。
長い間、居間の地下に、段ボール箱に入れたまま積んでいましたが、なにせ、地下室はカマドウマの集結場所になっていて、箱がカマドウマの糞だらけになっています。


おお、懐かしい!
ずっと夫の本棚にあった本が、久しぶりに姿を現しました。
左は昭和元年から30年までの写真、右は敗戦の年(昭和20年)から、60年安保の年(昭和35年)までの、新聞からピックアップした写真が載っています。


中にカビが生えていないかと、『写真昭和30年史』を開いたら、紙切れが出てきました。


たはっ。
「うちに、こんなものがあるのか?」
という古めかしさです。
  

裏返したら、映画館でもらえるパンフレットでした。
三輪自動車は、パンフレットの裏の広告だったのです。
「警察日記」とありますが、下に小さく「湯の町椿・東京の空の下には」 と書いてあります。


そして、パンフレットを開くと、中には、それぞれのキャストやあらすじが書いてありました。
字が小さくてその時はほとんど読めませんでしたが、宇野重吉、三橋達也などという文字が見えました。


場末の映画館では三本立てが当たり前でしたが、場末でパンフレットをくれたかしら?
いやはや、時代を感じてしまいました。







2017年5月20日土曜日

寝間着

私の両親は、浴衣地でつくった甚平、ひざ丈の着物のような寝間着を着ていました。
母が、私たちにもつくってあげようかと言ってくれたのは、ずいぶん前のこと、夫は紐で結ぶと、はだけて嫌だから、すぽっとかぶる方がいいと言い、ワンピース型の寝間着を所望しました。
母がつくってくれたのを着たり、私もつくったりで、以来夫は(私も)、ずっとワンピース型の寝間着を着ています。

さて、数年前に縫った夫の夏の寝間着がくたびれてきました。
昨年も、私の古い浴衣を解いて夫の寝間着を一枚つくり足したのですが、それはすぐにあちこち破れてきました。継ぎ当ても追いつかず、もう着られません。
二、三度着ただけの浴衣でしたが、タンスの中ですっかり弱っていたのです。


というわけで、寝間着には新しい布を用意するのが鉄則です。


とりあえず二枚縫いました。
「ちゃんと前後ろが、すぐわかるようにつくって」
というのが、夫の注文です。
毎日のように前後ろを反対に着て、首が締まりそうになるのだそうです。


ほとんど布を使い切るような直線立ちですが、首周りを切り取った端布をマークに利用しました。


丸く切って、前身頃に貼りつけたのです。


これでも前後ろを間違えるようなら、私の知ったことではありません。
「えっ、古いのは捨てるの?」
はい、きっぱりと捨てるので、一枚残すのと新しいの三枚で着まわしてもらいます。

私は長い間、母からもらった父の甚平をワンピースに改造したものを着ていましたが、さすがに残り三枚ほどになりました。
母は、妹のモンペもそうですが、つくるとなると量産しないと気が済まない人で、父の寝間着も、亡くなったとき十枚以上、しかも大半がまだ着てもいないものが遺されていて、それをもらったのです。

この夏は、これでなんとか行けそうですが、また、雨が降ったときでも、しかたなく縫いましょう。まだ布は、五枚分も残っています。








2017年5月19日金曜日

八郷の朝


用事があって、早朝外に出ました。
右の手前の丘の中、ミズキの花が咲いて白くなっている木よりもっと右寄りに我が家があります。

どこのブドウ栽培のビニールハウスからも、白い靄が立ち上っていました。
 

肉眼だと、山はもっと、けぶって見えます。


しばらく行くと、靄の中で真っ赤になった大きな朝日が!
写真だと赤く見えませんが.....。


今朝はどこからも、靄が立ち上っています。


帰り道では、靄は高く上って、盆地のところどころが霧に包まれたようになりました。
真ん中に見えるのが、筑波山です。


この季節の楽しみは、短い間ですが、鏡になる田んぼです。





2017年5月17日水曜日

「茨城黄色種創始記念碑」

つくばに住むN.Tさんから、最近、我が家の近くの日笠神社にある、煙草の記念碑を、わざわざ見に来たと聞きました。
「黄色種煙草の記念碑って何?」
毎日のように傍を通っている日笠神社、全然知りませんでしたが、行ってみると大きな碑が立っていました。


碑には、「茨城黄色種創始記念碑」と彫ってあります。
由来を一番よく知っているのは郵便局長さんだろうと、日笠神社のそばの郵便局をたずねてみたら、やっぱりよくご存知でした。

局長さんによると、記念碑は、戦後まもなくできたとか。
黄色種とは、今でも栽培されているアメリカから輸入された煙草で、葉が大きく、商品作物として効率的なので導入され、瞬く間に普及しました。

それ以前、八郷では煙草は栽培されていませんでした。
江戸時代から、県北で栽培されていた「水府」や、県西で栽培されていた「桐が作」は葉が小さく、自然乾燥することができましたが、黄色種、通称米葉(ベーハ)は、葉が大きい分、自然乾燥することができず、乾燥小屋をつくって密封し、薪で熱して乾燥させなくてはなりませんでした。


その煙草乾燥小屋は、今でも、八郷やその周辺のあちこちに残っています。


私たちが八郷に来た15年前に比べると、煙草栽培農家は減っていますが、まだまだ健在です。


煙草畑の多くは、ライムギの垣根に囲まれています。
ライムギの垣根は風よけか、それとも麦は甘いので虫よけか、誰かに訊いてみようと思いながら、まだ訊けずにいます。
 

黄色種、通称米葉は、播種時から収穫まで、たくさんの農薬を必要とします。
農薬は、栽培する人や近隣の人にも影響を与えますが、問題は煙になるとき、その残留農薬が発がん物質になって、煙に含まれることです。煙草を巻いている紙も、製造の過程で化学物質を使いますが、それも高温で発がん物質となり、煙には6,000種類もの発がん物質が溶け出すことになります。

健康を考えるなら、煙草そのものを標的にするより、農薬を標的にする方が妥当と思われますが、それができないのが、社会のありようかもしれません。

煙草では、鹿児島の「国府」が有名でしたが、「水府」や「桐が作」はどんな味がしたのでしょう。
いまでも、農薬を使わない煙草をキセルで吸っていたら、煙から発がん物質は検出されず、そう目の敵にされることもなかったかもしれません。