2013年2月28日木曜日

きぶなの切手

日本の記念切手は、毎年お正月前後に中央郵便局に行き、その前の年一年分の切手を一枚ずつセットにしたものを買っていました。十年か、もっと長くそうしていたでしょうか。

一年分をセットで売っていると知る以前は、発売日をチェックして、都合がつけばもよりの郵便局に行って、その都度買っていました。
なんだかんだでずいぶん買い漏れがありますから、手に入れられなかった切手はあちこちの郵便物の中などから見つけて、使用済みので補っていました。
そんなわけで、ごく古い切手はあまり持っていませんが、1960年代からは普通切手も記念切手もだいたい揃っていると思います。


1990年代には、記念切手は一年分まとめて買うと二、三千円でした。
ところが1998年の長野オリンピック記念切手で、十枚すべて違う図柄の切手シートが初めてつくられ、翌年からそのスタイルが当たり前になり、年に何度も十枚綴りの記念切手シートが発行されるようになりました。
記念切手が巷に満ち溢れ、2000年ごろには、お正月に切手セットを買いに行くと、いきなり、一万円近い金額に跳ね上がっていました。
高額なうえ、シートでは従来の切手帳にうまくおさまらない、切手を見る楽しみが押しつけられるようでつまらない、整理する楽しみが全然ないなどなどの理由で、とうとう、切手を買うのはやめてしまいました。

それでも、見たことのない記念切手が貼られた手紙をもらうと、切手をきれいにはがして水に浸して糊をとり、乾かして未整理のままファイルに投げ込む習慣だけは今でも続いています。
また、郵便局に行くと、一応展示してある記念切手をチェックしたりすることもあります。でも、新しい切手を買うことはほとんどありません。
なにせ、使うための切手は、祖母が知り合いの郵便局に勧められて買ったものが、まだまだ手元にあるのです。
 

そんな私ですが、栃木県の切手を買ってしまいました。
買おうかどうしようか迷って、いったん外に出たのに、また引っ返してしまいました。

イチゴのトチオトメのみずみずしさに惹かれたわけでも、栃木の誇りの東照宮や、足利学校、真岡鉄道に惹かれたわけでもありません。
気になったのはきぶなの切手でした。


きぶなは、いつ見てもかわいいし、赤いバックも似合っています。

ところで、お正月切手の図柄は1954年から郷土玩具です。最初のうちは、姫だるま、こけし、潮吹きクジラ、恵比寿さまと鯛など、いろいろな郷土玩具の切手がありましたが、1960年から干支人形だけになってしまいました。どの年のものか一目でわかるとはいえ、干支だけではあまりおもしろくありません。
お正月切手に、いろいろなおもちゃの切手があったら、なんて素敵なんだろうと思ってしまいます。


2013年2月27日水曜日

ウルトラマン


仮面ライダーに比べると、ウルトラマンはほんの少々我が家にいるだけです。
じょじょに増えているという形跡も、まったくありません。1980年代のものでしょう。
写真に撮ってみると、赤、銀色、黄色だけの色合わせが、なかなかおしゃれです。

息子たちは小学生の頃、ウルトラマンシールを集めて専用の冊子に貼るのに夢中でした。どうしてあんなにたくさん持っていたのか、不思議に思っていましたが、最近謎が解けました。
上の息子の同級生に母子家庭の子がいて、彼はいつもお小遣いをたくさん持っていて、毎日シールを買って、ダブっているとみんなにくれたのだそうです。
「すっげえぼろいアパートに住んでいて、家には何にもないのに、毎日100円もお小遣いをもらって、お金持ちだか、貧乏なんだか、全然わからなかったよ。シールを貼る糊もなくて、ご飯粒を潰して貼ってて驚いちゃった。ご飯で糊つくるなんて考えられる?」
「それ、そっくいって言って、昔は当たり前につくった糊よ」
息子は、その当時の同級生のお母さんの年をとっくに超えています。そして、そのお母さんの気持ちが少しはわかる年頃になったでしょうか。

さて、我が家にいるのは、一番最初のウルトラマンのようです。


この貯金箱には裏にシールが貼ってありました。読んでみると、
「お金の出し方、シールをはがして前後に開いてください」
と書いてあります。
なんて単純なんでしょう!前後に割って取りだすなんて。


小さなソフトビニールのフィギュアは、がちゃがちゃだったのでしょうか。
二等身以下のウルトラマンには、着ぐるみのウルトラマンにはない愛嬌があります。


これは三等身のウルトラマンです。
走らせると、胸から光線を出します。


今日も元気で、シュワッチ!でしたっけ?


2013年2月26日火曜日

大伯父の箸



切干大根の煮物の写真を撮るために、「取り箸」を添えました。
それで思い出しましたが、母からもらったこの取り箸は、母方の祖母の弟である、母の叔父がつくったものです。

その昔、花入れなど、大伯父がつくったものをいろいろ見たことはありますが、母がいただいて待っていたのは、これだけでした。


母の叔父、私の大伯父は、姉四人から年が離れて末っ子に生まれた一人息子でした。
両親と姉たちから甘やかされて育てられたせいか、働こうとしても長続きせず、結局職らしい職につくこともなく、親の遺した土地や家作(貸家)を切り売りして、最後は無一文になった一生を過ごした人でした。
大伯父の生活は、私が知っていたころはもう売るものも少なくなっていたのか、はたから見ると大変そうでした。子どもが四人いましたが、大伯母は結核で寝たり起きたり、そして若くして亡くなってしまいました。
そんななかで大伯父は悠々と絵や書をたしなみ、手先が器用で竹細工や木工細工物も得意な、根っからの趣味人でした。

謹厳実直(そう)な祖父母に育てられ、小さい頃はうかがい知れなかった、周りの大人たちの生き方。大きくなってから知れば、すぐ身近に未婚の母もいれば駆け落ちした人もいて、
「明治の人もやるなぁ」
と驚きでした。
みんな楽しい人生を送って、よかったよかった。



2013年2月25日月曜日

一安心しました

大腿骨骨折の手術後の経過も良好な母が、先週の木曜日にリハビリ専門の病院に移りました。移ってから初めて、新しい病院を訪ねてみました。

よかった。不満と愚痴が消え、すっかり落ち着きを取り戻していました。
病院の方針でパジャマを脱いで普段着を着て、車椅子はできるだけ自分で動かし、食事はほかの人たちと食堂で食べていました。
 
あっちが痛い、こっちが痛いと週刊誌を広げてみる気力もなかった母が、行くと静かに本を読んでいたのでびっくりしましたが、もっと驚いたのは、日記を書いていることでした。
自分で自分のペースをつくれるまで回復したようです。
救急病院では、痛いのに加え、病室を何度も変わったり、車椅子に鍵のかかるベルトで固定されていたりしたのが、平常心を失わせていたのかもしれません。


そんな母のところに持って行ったのはこれ。毎週、東京新聞に同じような間違い探しの絵が載っています。二枚の絵があって、そのどこかしらを違えてあります。私も時折遊んでみることがありますが、たいてい最後の一つが見つからない、そう話すと、母はいつも全部できると言っていたのを思い出したからでした。
母のベッドの上の、布でできたバケツ(必要なもの入れ)にはノートなどと一緒にクロスワードの本も入っていました。見る余裕が出てきたのです。


そしてこれ、
漫画はのんきそうに見えるから見ない」
と言っていましたが、もう見る気分になっているでしょうか?
今頃、楽しんでくれているといいのですが。


2013年2月24日日曜日

続きが楽しみ

数日前に、『ビブリア古書堂の事件手帖』4 (三上延著、メディアワークス)が届きました。その数週間前だったか、もうすぐ発売されるので予約しないかという案内がAmazonから来て、予約しておいたものです。

最初の頃、Amazonは1,500円以下のものなら送料がかかっていました。でも、今では599円の本でも送料無料です。十年前には想像もつかなかったこと、駅前の本屋さんが店をたたむのも道理です。

 
『ビブリア古書堂の事件手帖』は、古書の生き字引のような古書店店長の篠川栞子と、アルバイト店員五浦大輔が、次々と古書にまつわる事件に巻き込まれ、それを解決する物語です。
2011年から立て続けに出されていますが、 古書好きな人がいっぱい出てきて、古書についても詳しく語られます。膨大な知識が必要であろうに、よく矢継ぎ早に書けるなぁと感心してしまいます。
もっとも、読む方は適当に読んでいますから、一冊完結ですが、前の巻から続いているエピソードもあり、古書にまつわることどころか、ストーリーまで忘れてしまって、しばらくぶりに手にした本に、とまどったりしながら読んでいます。

 

もう一つ、届くのを心待ちにしている物語があります。
『髪結い伊三次捕物余話』(宇江佐真理著、文芸春秋社)です。これは第一巻が発行されたのは1997年ですから、もう16年も続いています。

最初、一冊で一年年を取る勘定でお話が進んでいたのですが、二冊ほど前に、急に十年も歳月が流れて、若かった伊三次やお文もよい年になってしまいました。
伊三次やお文だけでなく、老若男女、素敵な人物がいっぱい登場するのも、この物語の魅力です。中でも昔は巾着切りだった直次郎は、ほんのときどきしか登場しないのに、いつもかっこよく出てきます。


2013年2月23日土曜日

雛壇屋


雛壇をまだ必要としているお雛さまがいます。
いつまでも放っておくわけにいきません。
以前、製材屋さんからもらってきた木切れを、薄い板に引いておいたカリンが残っていたので使います。


板の厚さは8ミリほどなので、ビスも細いミニビスを使います。
ボンドだけでもできるのですが、家づくりで習慣になったせいか、板をつなげて広くしたりする以外、あまり接着剤を使う気にはなりません。


一日目。
細いドリルでまず穴を開けてからビス止めするなど慎重にやっていたのに板が一枚割れて、そのままストップしました。
二日目。
残っていた板を切って、仕切り直ししました。


ミニビスは長いものしか手元になくて、一番下の段には長すぎて使えません。普通のビスの小さいのを使ったところ、気をつけていたのに、やっぱり板が割れました。板が薄いので、ビスが端にきて、難しいのです。
でも仕方がない、もう余っている材料の板がありません。
というわけで、完成したことにしました。


お雛さまを並べてみました。
こうやって見ると、雪洞が失われているのが目立ちます。橘と桜が最上段にあるのはおかしいのですが、下におろすとスペースが目立ちます。
粘土が余っているから、いつか気が向いたら雪洞をつくってみます。

カリンは色がきれい、素敵な板なのに、何度使ってみても、杉ばかりの我が家にはあまり似合いません。赤い布をさがして、緋毛氈をつくった方がよさそうです。


さて、残っているのはこの土人形のちびたちだけになりました。妹の連れ合いのやすおさんの母上の遺したものですが、緋毛氈に見立てたお菓子の箱の蓋が、ちょっと小さすぎます。
これは五段にして、赤い和紙を貼るつもり、今年のお雛さままでに間に合うでしょうか?

2013年2月22日金曜日

振り回して遊ぼう


糸の端を持って、頭の上でくるくるまわす鳥のおもちゃです。
勢い良く回すと、ちりちり、ぴちぴち音をたてます。


尻尾が前後に動くようにつくってあるので、糸を持って回すと遠心力で尻尾が後ろに下がり、ブリキの板を突起させたものや、針などの先に、丸いブリキの板が触れて音を立てる仕組みです。
 

鳥の身体は張り子のような紙細工でできていますが、ただ印刷した紙を、貼り合わせただけのものもあります。
羽は、本当の羽がついているのと、セロファンでできているのがあって、セロファンの羽は、完全に広げると、より水平に柔らかく飛ばすことができます。


つくり方のミソは、音の出る仕掛けのところでしょうか。
これは、ボール紙をブリキで挟んで止めて、端は張り子のお腹に(たぶんあとから穴を開けて)突っ込んであります。


これは竹串を通す穴をブリキでつくり、針も挟んだものをお腹に突っ込んでいます。
ブリキの上で靄っとしているのは、補強と見栄えのために貼ってあった和紙が傷んでいるものです。


お皿に(竹串ではなく)針金がはんだづけしてあって、針も一体になっていますから、この平面の小鳥がもっとも大量生産品らしいでしょうか。
でも残念、身体が立体ではないからか、張り子の鳥に比べて音が出にくく、出る音もかりかりと、あまり鳥の声らしくありません。

尻尾はある程度の重さが必要なのか、みんな薄い木(経木)でできています。

東南アジアでも、同じようなおもちゃを見たような気がしますが、手元にはありません。
こういうおもちゃはお店では売っていませんし、そこに暮していても難しいのに、ましてや短い滞在では運よく行商人に出会うこともめったにありません。
言葉ができない国で、子どもが持っているおもちゃを見つけて、売っている場所を聞きたい、せめて写真だけでもと、必死で追いかけて、怖がられて、逃げられた経験が何度かあります。


やはり振り回して音を出すおもちゃです。
素焼きの筒に紙を張り、それに糸を通して、内側には短い竹ひごを結び、外側には長い竹ひごを結んであるおもちゃで、いろいろなところで見かけました。
筒の大きさや厚さによって、ぐわんぐわんという音は高かったり低かったりしますが、糸でなく馬の毛など自然の紐を使う方がよい音が出るそうです。

写真はタイのものですが、他の国にもあったような、私もいくつか持っていたことがあったような気がしますが、いま手元にはありません。


2013年2月21日木曜日

砥部焼

下の妹が、職人として七年も修行していたせいだと思いますが、我が家には愛媛県砥部焼の食器がいくつかあります。妹が帰省するときに、母へのお土産にしたのを私が見て注文したりしたので、両方の家に同じものがけっこうあります。


大きめのボウルです。
使いやすい形ですが、煮物などを入れるのに適しているでしょうか。スープなど汁ものなら、日本人にはやっぱり漆が一番です。磁器に熱いスープを入れると、熱くて持てません。


七寸鉢は、サラダよし、煮物よし、出番の多い 鉢です。
砥部の典型的な模様だけれど、妹が絵つけしたものだと思います。


どんぶりは、もう長い間使っていませんでした。
二人暮らしで、丼物や熱い麺類を食べる機会も少なく、しかも一回り小さなどんぶりを二つ持っています。

ところが先日息子が来て、昼食に、
「鴨南蛮つくろうか」
と言います。息子はめったに調理しませんが、つくるとおいしいのです。
で、久しぶりにどんぶりの出番がありました。鴨ではなくて鶏南蛮でしたが、とても美味でした。


平らなお皿は、水を切ったうどんを入れた笊の下に敷いたり、かつおのたたきを並べたり、何かと便利、直径26センチあります。
同じ大きさで、砥部模様のお皿も持っていたのですが、そちらは息子にやってしまいました。これは、妹が独立してからつくった、妹模様のお皿です。


妹が独立してからの湯のみとお茶わん。
どちらも六客ずつあったのに、なんてこと、こんなに少なくなってしまいました。


これを砥部焼と言ったら、砥部の人に怒られそうなお皿は、妹が母の誕生日に送ったお皿です。


この絵にある猫ハイジは、ある夕べにふっと出かけたまま、戻りませんでした。
当時は、三味線の皮にするのに、野良猫では皮が傷んでいると、飼い猫が盛んにさらわれていた時代でした。
この猫ハイジも、三味線の皮にされたのではないかと、みんなで疑ったのですが、妹の、母への毎年のプレゼントのお皿にはそのハイジが繰り返し出てきて、その姿をいつまでもとどめています。


2013年2月20日水曜日

セルロイドの駄おもちゃ


昔のおもちゃはなんでも好きですが、お金持ちの子どもしか買ってもらえなかったような立派なおもちゃより、誰でも買えた、安価なおもちゃの方により惹かれます。

セルロイドの笛はいろいろありますが、もともとはどこで売られたものでしょう?鉄道の駅の売店だったのか、駄菓子屋さんだったのか、あるいはお祭りの出店で売られていたのでしょうか?
子どもたちは目を輝かせて、どれにしようか選んだことでしょう。

セルロイドのおもちゃは、単価は安くてもかさばるし、つぶれやすいし、昔の流通事情の悪さや、段ボール箱やぷちぷちなどの梱包材がまったくなかったことを考えると、運ぶにはとても厄介なものだったのではないかと思われます。


この笛は、音は出ますが、短いセルロイドのパイプが遠すぎるのか、羽の上のキューピーはよくまわりません。羽のセルロイドがきれいです。


たかが、こどものおもちゃですが、なんて優雅な姿でしょう。うっとりしてしまいます。
しかも、どんな仕掛けか、どの笛もいまでもぴーぴー鳴きます。


ぴーぴー鳴くから、装飾として小鳥をつけると考えるのが普通ですが、


赤ちゃんもぴーぴー泣くからか、赤ちゃんの顔がついた笛もあります。


セルロイドのブローチもかわいいものです。
穴の開いた玉に鈴が入ったものは、ゴムのついた髪止めもありました。


色とりどりのはっかパイプは、お祭りやら縁日やらに並ぶ出店の定番でした。
といいつつ、過保護な子どもだったので、「不衛生」と言われて、子ども時代には一度も買ってもらったことがありませんでした。
やっと初めて手にしたのは十年ほど前、草葉の陰で、祖母も苦笑していることでしょう。
  

このはっかパイプは、猫たちと一緒に飾っていて、小さいものなのでしばらく行方知れずになっていました。
「地震のときなくなったってことないしなぁ」
と何度も探して、 やっと招き猫の後ろに倒れていたのを見つけ出しました。



2013年2月19日火曜日

くくり猿

転んで大腿骨を骨折して入院中の、母の手術は大成功で、もうすっかり傷の痛みもなくなりました。
あとはリハビリだけですが、すでに入院すること一ヶ月、なんだかんだで脚の筋肉など身体のいろいろな部分が衰えていて、寝た状態から自分で起き上がることもままなりません。
それどころか、リハビリの一環である、長時間車椅子に座っていることを嫌がり、本人はそうは思っていないのですが、病院からはあまりリハビリに積極的ではない患者とみなされています。

普段はパズル好きで、クロスワードパズル、九マスに一から九までの数字を入れる九クイズ、四文字熟語などなど何でもござれですが、 病院ではなにもやる気が起きません。
新聞もあまり読みたがりません。

では四コマ漫画はと、妹が取り揃えましたが、
「看護婦さんに、のんきそうにしていると思われるのが癪だから、座っている時は漫画は読まない」
のだそうです。看護師さんも、
「これだけお願いしているんだから、ベッドに寝かして」
などと、顔を見るたびに懇願されるより、静かに漫画を読んでくれたら、どんなにか楽なことでしょう。


妹が、鉤針編みとか、なにか熱中できる手仕事はできないかと言っていたのを思い出し、くくり猿はどうかと試作してみました。
母は、縫うことは、昔は厭わなかったのですが、どうでしょう。


しかし、昔ながらの方法では、綿をしっかり詰めるのが大変なので諦めました。


ネットで見ると、最初から綿を入れてつくる、簡単なくくり猿の作り方が紹介されていたので、つくってみました。
これなら、十分ほどで一つできます。


母の思い出のある布ばかり切りそろえ、


頭布や紐も用意し、


綿も用意して、病院に持って行きました。


針山は、くくり猿と同じ方法でつくった唐子のついたものを用意しました。

「あらっ、病院にまで仕事を持ってきたの?」
「くくり猿よ」
「くくり猿。知ってるわよ、そんなの。そういえば、昔からいっつも仕事を持ってきて、子どもは私任せで、なんかやっていたわね」
「.....」
そうだったでしょうか?風向きが悪くなりました。

「私がつくるんじゃないの。お母さんがつくらないかなと思って」
「ご冗談でしょう。座っているのが精いっぱいなのに、そんなことできるわけないじゃないの」
「だって、たいくつするでしょう?」
「しょうがないねぇ。転んだのが運のつき。自分でつくれば?」

口ではそんなことを言っていますが、ちょっとつくっているところを見れば興味も湧くかしらと、見本をつくりはじめたら、
「つくっているのを見るだけで肩がこる」
と嫌みを言われ、とうとうやめて持ち帰りました。

なかなか、一筋縄ではいきません。
でも、明後日、リハビリ専門病院に移れることになりました。リハビリ病院は、日常生活ができて家に帰れることを目指している病院です。
なんとか前向きに取り組んで、早く家に帰って欲しいものです。