2019年2月28日木曜日

100円ショップの箸置き

しばらく前のことですが、二人で東京に行き、別々の場所で用事を済ませて、夕方上野で待ち合わせたことがありました。
そのまま帰ってくるつもりでしたが、夫が息子の家に連絡していて、寄って行くことになり、夕食をごちそうになりました。
突然訪ねたので、もう息子たちは食べ終えていました。私たちだけが食卓に着き、食べながら話しながらも話が弾んで、しばらくして、箸置きが猫だと気づきました。
箸置きほどの大きさでも、眼鏡なしだと真剣には見てはいないのです。
「あらっ、猫だ」


「これ、100円ショップの箸置きなの。お母さんのも買っておいたんだけど」
と息子の連れ合いのあっちょ。
「きっと趣味じゃないだろうって、話してたんだけど」
と息子。
いえいえ、趣味です。喜んでいただきます。


この猫たちには、そこはかとなく、朝隈俊男的な雰囲気がただよっています。
朝隈さんは、
「冗談じゃないよ」
と怒りそうですが、日本人、中国人、どちらが朝隈俊男もどきをつくったのでしょう。
しかも100円で。


背中を平らにつくってあるので、箸置きとしてはなかなか使いやすいものです。










2019年2月25日月曜日

好奇心旺盛


散歩がてら、お蕎麦屋さんまで歩いたときのことです。
途中、牛が放牧されているところを通ります。
「立ち止まったりしちゃだめよ。なんだろうとこっちへ来るから」
と、牛を見ようとしている夫に注意します。好奇心旺盛な牛たちは、ちょっとでも立ち止まるとすぐ、こちらへ来てしまいます。
牛も、もしかしたらできるだけ歩いて運動した方がいいのかもしれません。でもこちらから見ると、期待してきてみたのに愛想がない、無駄足を踏ませた感じになってしまいます。

往きは、遠くからこちらを注目している牛もいましたが、なんなくここを通り過ぎました。


さて帰り道、今度も立ち止まらなかったのに、
「あいつら、さっき通ったやつらじゃないか?」
とばかり、一匹の牛がこちらを目指します。すると、それを合図に、座っていた牛も次々と立ち上がってこちらへ向かいます。


早くも何かやるものはないかと枯れ草を物色している夫に、電気柵が張ってあることを注意します。昼間は切っているかもしれませんが、牛も人も、触ると電気が走ります。
「ごめんよ。電柵があるからね」
夫は牛に謝りながら、足を進めます。


かわいいなぁ。
今では、病気感染や拡散を恐れてか、敷地の入り口に「立ち入り禁止」の札を立て、牛の姿がまったく見えない牛飼いさんが多い中、ここの牛たちはいつもおおらかです。
とうとう、全員が来てしまいました。
「行っちゃうの?」
牛たちは、あきらめきれない様子で、私たちを見送ります。


この裏の牛舎には、ぎっしり牛がいました。
こうやって野原で遊ばせてもらっている牛たちは、交代制なのでしょうか。それとも選ばれた牛たちでしょうか。
いつ見ても、のどかで幸せな牛たちでした。






2019年2月24日日曜日

箪笥の中

母が、妹と同居するために家の整理をしたとき、箪笥を、着物入りのまま譲り受けました。
幸い、箪笥は我が家の小さなウオークインクローゼットの奥にぴったり収まったので、中も見ずそのままにしていましたが、周りがあまりにも散らかってきたので、衣装箱に入れてある私の着物や夫の母の着物も、この箪笥の引き出しに移せないかと、ちょっとだけ整理してみました。

引き出しの中にの着物は、おもに母のものでしたが、父の着物も、普段着ではなさそうなのが入っていました。
父は私が高校生のころまで、勤めから帰ってくると着物に着替えていました。だから普段着は見慣れていましたが、父が改まったときに着物を着たのを見たのは、祖父の葬儀のときだけでした。
そのときは黒ではなく、確か裃のついた生成りの麻の着物でした。


わりと薄手の絹の袴と、縮緬の袷の着物です。
いったいどんなときに着るのか、また父が着たことがあったかどうかも知りません。


一緒にあったのはなんとも派手な長襦袢。
地味な服装をしていながら、中にこんな派手な長襦袢を着ていると思うと、おかしくなります。


一緒にしてあったけれど、女物かもしれません。


いまでも、男物の長襦袢というものは、派手だった伝統を受け継いでいるのでしょうか?


これは、二本足のカラスの模様です。
ということは、三本足の八咫烏ではなくて、明烏なのでしょうか?


女物の長襦袢も、派手さにおいては負けてはいません。


たとう紙を開いてみると、見たことがない藍染の着物(右)が出てきました。
左は、母から勧められて、ゆうちゃんに織ってもらった私の着物です。
ゆうちゃんは、倉敷の祖母の家の近くに住んでいましたが、お父さんが長期に入院するなど、あまり幸せではない子ども時代を送っていました。そして、中学を卒業すると家を離れて、鳥取の弓浜絣の織り元に織り子として住み込み、弓浜絣を習得していきました。
そんなゆうちゃんを応援しようと、母は私の着物を注文したのですが、母も弓浜絣の着物を持っていたとは知りませんでした。
私は何度も着ましたが、母は着たかどうか、たぶん一度も着なかったのではないかと思われます。


おや、ゆうちゃん、糸目が飛んでいるよ!
母はこれを注文したわけじゃなくて、もしかしたら練習で織ったのを譲ってもらったのかもしれません。


羽織と言えば、小学校の入学式で、お母さんが着物の上に黒紋つきの羽織を着るのが流行っていた時代がありました。祖母の年代の方たちは羽織を着ていましたが、母や私の年代では、入学式以外に、ほとんど羽織姿を見ることはなかった気がします。
仕事をしていた夫の母は、普段は洋装でも仕事着はすべて着物でした。しかし、そんな母が羽織を着ていたのを見たことがあったかどうか、ほとんど覚えがありません。
しかし、私の母が結婚のために着物をそろえてもらったころは、羽織を着るのは当たり前だったのか、黒紋付をはじめとして、羽織はいくつかありました。
当時の流行か、この羽織は下前が少し下がっています。襟を抜いて着ると、裾がまっすぐに見えたのでしょうか。

着物も大柄、その上に着る羽織も大柄、戦時中というのに、なんともド派手でした。







2019年2月23日土曜日

1981年の上海

先日、古いビルマのスライドが見つかりましたが、ネパールや中国の写真もありました。その中の上海の写真も少し、載せてみたいと思います。

1981年の夏に、夫の仕事について上海と北京に行きました。まだ人民服が目立つ時代で、どちらにも新しい建物はありませんでした。今はどうか、当時は移動が禁じられていましたが、それでも上海には人があふれていました。
娯楽も冷房もないなかで、川沿いの細長い公園は人々の憩いの場、夕方からは夕涼みにそぞろ歩く人で、埋め尽くされていました。


古いことで記憶も薄れかけていますが、この写真は、上海郊外の農家です。
上海の街の中心にも、平屋の家が立ち並ぶ路地などありましたが、いつもお目つけ役が目を光らせていて、ちょっとでも近づこうとすると両手を挙げて阻止されたので、たいした写真が残っていません。


お鍋の蓋を取ろうとしているのは、この家の主人ではなく、案内してくれた上海市のお役人だと思われます。
かまどをはじめとする調度品や、台所道具の数々は、もうもう、うっとりするものでした。
このあとで、この家でごちそうになったお料理の数々も、いつものように皿数が多すぎましたが、素晴らしいものでした。


道端の共同水場で洗いものをする男性。
この写真を見て初めて気がつきましたが。左後ろの女の子はおしゃれなサンダルを履いています。
当時はまだあまり色のない時代で、白か紺か黒。みんな、この男性が履いているようなズックを履いているのかと思っていましたが、おしゃれは足元に忍び寄っています。

『中国のかわいいおもちゃ』より

中国のかわいいおもちゃ』(平凡社、1997年)を書かれた島尾伸三、潮田登久子夫妻は、1981年から15年も中国に通われて、おもちゃを集められました。そんなご夫妻から見て、中国では上海が一番おしゃれなところでした。
もののなかった1982年にも、こんなおしゃれな靴を履いていたと、書かれています。


牛の餌になる草を刈って帰る姿です。
籠は、自分の家でつくっていたのでしょうか?
というのも、籠は同じようで網目を見ると全然違います。右の籠が最も丈夫につくられていて、次は真ん中、左の籠はどうなっているのかちょっと不安になるくらいの編み方に見えます。





2019年2月22日金曜日

迷語録 パート2

先日、Rさんと、穏やかなSくんが遊びに来て、のんびり飲みました。
そのおり、この前書いたばかりなのに、またまた夫が「迷語」を連発、陰で笑ってしまいました。
「おぬし、やるねぇ」


「おれは、にべもなく協力しちゃったよ」
それって、どう協力したのでしょう。
一も二もなく協力したとか、文句なく協力したという意味だったと思います。


「いちや報いたいと思った」
これは、ただの一矢報いたいの読み間違えです。というか、読み間違えるほど本を読んだりしていない、耳から入る方が多いと思われるのに、いったいどうしたことでしょう。


「あんすいできる」
これは、時間が経ってしまったので、どんな使われ方をしたか、忘れてしまいました。
たぶん安眠できるじゃなかったかしら?「睡眠」からきたのでしょうか。

書いてみると、聞いているときほど面白くないことに気づきましたが、写真をお楽しみください。





2019年2月21日木曜日

メイデンの娘


ソヴィエト時代の、メイデン地方のマトリョーシカです。
ヤフーオークションで見つけて、開始価格だけ入札して放っておいたら、運よく我が家にやってきました。
メイデンのマトリョーシカの特徴は、くるくると巻いた髪とプラトーク(スカーフ)頭のてっぺんあたりに描かれた大きな花びらです。


このマトリョーシカで、何よりも関心を引いたのは花が大胆に描かれた後ろ姿でしたが、届いてみたら横姿もアートでした。
暗緑色の袖の服を着た手が、まっすぐ伸びています。


入れ子の、小さい娘たちの後ろ姿は、渦巻き模様がプラトーク(スカーフ)にスタンプされていす。

さて、『マトリョーシカノート3』(道上克、2013年)を見ると、メイデンのマトリョーシカのうち、一番外の娘が高さ20センチ以上のものは結び目のあるプラトークをかぶり、一番外の娘には両手が描かれ、髪の毛を一本に編んでその先にリボンを結んでいます。また、20センチ以下の小型のものは、結び目のあるプラトークも両手もなくて、リボンを結んだ髪も描かれていないそうです。
とすると、このマトリョーシカは、なかなか微妙です。
高さ19.5センチで、20センチには若干足りません。そして、結び目のあるプラトークと両手はありますが、リボンを結んだ髪はありません。

『マトリョーシカノート3』より

ちなみに、リボンを結んだおさげ髪はこんな感じです。

また『マトリョーシカノート3』によると、1960年代にはメイデンにマトリョーシカの工場があり、工場でつくられたものには20センチを超えたものが多かったそうですが、工場が閉鎖(閉鎖年は不明)されると村の各家庭の工房でつくられるようになり、20センチを超えるものはつくられなくなったそうです。

ところで、それは20世紀の話のようで、『マトリョーシカ大辞典』(沼田元気著、二見書房、2010年)を見ると、ロシアとなった現代では、個人の工房で20センチ越えの大きいものもつくられているようです。

『マトリョーシカ大辞典』より

この写真では、マトリョーシカが20センチを越えているかどうかはわかりませんが、文を読むとこの写真の男性はかなりの熟練者で、一日30個は悠に挽き、30個の入れ子をつくるそうです。

同上

30個となるなら、隙なく上手につくっても、一番大きいものはかなり大きくなることでしょう。

メイデン。『マトリョーシカ大辞典』より

沼田元気さんは、『マトリョーシカ大辞典』を出版された数年前に、メイデンを訪ねていらっしゃいます。2007、8年ごろでしょうか。
それまでメイデンは、沼田さんがモスクワでいろいろな人に訊いても、誰も知らない謎の土地だったそうです。というのも、当時はメイデンの近くに水爆の工場があったので、地図にも正確な位置を載せていませんでした。
そして、沼田さんがやっと場所を突き止めて訪れたとき、メイデン行くには鉄道の駅もなく、車で舗装されていない道を10時間も揺られて行くような、辺鄙なところでした。

同上

村には、電気は来ていますが、街灯もありません。
軒先に木を乾してあったり木が無造作にころがっているのが、マトリョーシカをつくっている家の目印になっていて、そんな家では納屋には轆轤を据えてありました。


さて、『マトリョーシカ大辞典』に載っている現代のメイデンのマトリョーシカの絵つけを見ると、人によってそれぞれですが、いろいろな地方のスタイルを取り入れて、自由に描いているようです。
くるくると巻いた髪は減り、結んだプラトーク(セミョーノフの影響)や編んだ髪が復活していて、手も描かれ、一番大きい娘だけでなく入れ子になっている中の娘たちにまで手が描かれています。


我が家にあるメイデンのマトリョーシカの二つは、底にラベルが残っています。


上の上の写真の後列右のもの(この写真では真ん中)には、メイデンの特徴であるきのこのスタンプの押された紙のラベルが貼ってあり、1981年と書かれています。
また、小さいものには、新し目の「MADE IN USSR」のラベルが貼ってあります。
そして左端、大きいマトリョーシカの底には、もとからラベルを貼ってあったかどうか、その痕跡さえ見えません。


ラベルがないので、工場でつくられたか、個人の工房でつくられたか、いつごろつくられたかもわかりません。

メイデンのマトリョーシカ。『マトリョーシカノート3』より

それにしても、メイデンのマトリョーシカたち、似ているようで似ていない、様々な表情を見せています。






2019年2月19日火曜日

ブルーは輝やく


台所に立っていたら、ふと目の端に、鮮やかな青が映りました。
顔を上げてみると、食堂で青いガラスビンが光っていました。


私は、こってり濃い色のコバルトブルーのガラスビンが好きです。
その意味では。この色はちょっともの足りのですが、光を通すと、なかなか素敵です。


お隣のコバルトブルーのビンは、いつもはもし地震があっても落ちて割れたりしないように障子の陰に置いていましたが、それでは目に入り方が少ないので、取り出して並べてみました。


どちらも、フランスのビンです。


いつでも見ていたいけれど、やっぱり半分隠しました。
地震で割れたら後悔してしまいます。


高いところの使わないビンは大丈夫、3.11からこっち、底を「ひっつきむし」でくっつけています。









2019年2月18日月曜日

なおりました!


「修理ができました」
とかばん屋さんから電話があったのは、今月のはじめでした。控えを見ると、昨年の3月末に修理に出しているので、11か月ちょっとでできました。
じつは、まさか一年弱でなおしてもらえるとは、思っていませんでした。

というのも、持ち手が切れたバッグを修理に持って行って以後、なしのつぶてだったお店に、半年近く経ってから電話してみると、まだつくった人と連絡が取れていないということでした。
つくった人、ゲンタさんは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?
ご存命らしいということは、彼の友人のHさんの話から感じていましたが、Hさんもゲンタさんにはもう長く会っていないようでした。
秋になって、やっと朗報が届きました。連絡がついたのでバッグを手渡す、修理費などは追って連絡するというものでした。
「なにせ、待っている方がたくさんいらっしゃるので、いつできるかわかりません。お待ちいただいている方たちの順番ですから」
口ぶりからして、お店に同じバッグがいくつかたまっていたのかもしれません。
そんなにたくさん(数名か?)、このバッグに愛着を持っている人がいるとも取れますが、壊れやすいとも取れます。もっとも、20年以上使えば、バッグだって不具合が出てきても仕方がないかもしれません。


東京に出たついでに、受け取りに、お店を訪ねました。
「お待たせしましたね。でも2年以上待たれた方もあったのですよ」
私には場違いな、銀座四丁目の目抜き通りにあるお店で、品のいい店員さんが対応してくれました。わざわざクリームを出して磨いてくれながら、
「ほら見て。手づくりのバッグよ」
と、ほかの店員さんにも声を掛けます。
「えぇぇ、そうですか。わぁ、いいものを見せていただきました」
その会話からすると、このお店ではとっくの昔にゲンターラのバックは取り扱っていないようでした。
そして、ミシンで縫うとしてもバッグは多かれ少なかれ手づくりだと思っていたのですが、そうでもないのかと思いました。
  

家に帰ってからつらつら見ると、肩紐は切れてしまった短い方だけでなく、全部新しくつくり替えてくれていました。


ファスナーを開けるときのつまみの真鍮が擦り切れて取れてしまったのは、なおらないならそのままでもいいと伝えてあったのですが、新しいのと交換してありました。
素人考えでは、ファスナー全部をほどいて取り替えないとなおらないと思ったのですが、ファスナーの布の部分はそのまま、つまみだけが新しくなっていました。そして、縫ってある糸も元の糸のままようでした。
どうやって取り換えることができたのでしょう?糸をほどいて、そのまままた縫い直したのかもしれません。


このバッグのためにデザインしたという金具は、金属と金属がこすれるところが相変わらず華奢でした。あまり強く引っ張らないようにしなくてはなりません。

さて、バッグを動かすとからからと音がするので中を見ると、


取れてしまったつまみの代用にしていたストラップが入っていました。


つまみが擦り切れないように、ストラップをまたつけてそれを引っ張ってみようかとも思いましたが、二つつけると、開けるのにけっこう手間取ります。

まぁ、つまみをもって開けても、20年はもつことでしょう。