2013年4月30日火曜日

仙台の猫


仙台の「おひなっこや」の土人形の猫たちです。


先の地震で大きい黒い招き猫と小さい白い猫の二つは欠けてしまいましたが、かけらを集めて、なんとか修復してあります。


左は土人形ですが、右は仙台張子の招き猫です。
耳の形が違いますが、お互いによく似ています。知らない人に見せれば、どちらが土人形でどちらが紙か、持ってみないとわからないくらいです。


右側面から見たところが、一番感じが違うでしょうか。


背中の模様は瓜二つです。


金色の菊唐草もそっくり。
なんちゃって、そっくりなはずです。
実は仙台張子もおひなっこやさんでつくられているのです。

おひなっこやさんはもともとは日常陶器をつくる家で、土人形はつくっていませんでしたが、昭和の初めに堤人形(おひなっこ)を制作していた宇津井家などから型を引き継いで、土人形の製作をはじめました。

  
ちなみに、おひなっこやさんの張り子の招き猫の型は、大正時代につくられたものだそうです。


2013年4月29日月曜日

鯉のぼり♪


益子に行く道から見える家では、昨年見事な鯉のぼりを揚げていました。そして、今年も昨年に劣らず、何匹もの鯉を泳がせています。

八郷では、竿から綱を垂直に下げる、普通の飾り方が一般的で、鯉の数もせいぜい五、六匹です。でもこの家では、竿から左右に長い長い綱を遠くまで張って、その綱の両方に二十匹ほどの鯉をつないでいます。

近くまで行ってみると、武者幟(のぼり)もみごとでした。


色とりどりの鯉が泳いでいますが、とても全体は写せません。


いったい、どんな赤ちゃんが飾ってもらっているのでしょうか?この家に百年ぶりに生まれた男の子だったりして。

赤ちゃんに会ってみたいような、見事な鯉でした。

2013年4月28日日曜日


犬の餌の量を計るために毎日使っている3キロ秤は、最小1グラムまで計れます。
ただ、電池を入れているところの接触がちょっと悪く、電池の位置をなおしても、スイッチの操作がなかなかできない時があります。
でも、修理に出せない。
十日分くらいなら、犬を刺激しないように二階の一室にこもったりして、餌を計って小分けしておくこともできます。でも、修理にもしそれ以上かかるようだと、お手上げになってしまいます。

というわけで、この秤は絶対離せない必需品です。


例の計るだけで痩せるという体重計です。
しっかりグラフをつくって、人だけでなく、犬猫の体重管理をしていたのは、かれこれ二年間くらいでしょうか。やめてから、早、四年以上。
まっ、なりたい体重にはいつでもなれる(実際はそうでもありませんが)ことがわかってから、すっかり計らなくなりました。
いまでは、お風呂に入るとき、障害物のようにまたがないとお風呂に入れない場所に置いているにもかかわらず、慣れとは恐ろしいもの、体重計は目にも入らず、お風呂にまっしぐらです。
体重計に乗ってみるのは、一月に一度あるかないかになってしまっています。


お米を計ったりする計りです。
これは12キロ秤、用途によって同じ形で5キロ秤とか20キロ秤など、いろいろあります。
いろいろあるんだけれど、色はなぜか緑しかありません。
 
 
緑は家に合わないよと、カバーをつくったのはもう十年以上前です。
あの頃は、暇だった?それとも若かった?


あっ、忘れていました。
100グラムまでしか計れない秤もあります。


漢方薬を煎じて飲んでいた時に使っていたものです。10グラムまでは0.1グラムまで計れるすぐれものです。
そう言えば、漢方薬を計りはじめていたころは、確か薬用の上皿天秤秤を使っていたように記憶しています。でも、いつまでもバランスが取れなくて、とうとうデジタルのものに買い換えたような記憶が。
もうずいぶん前のことで、上皿天秤秤がどうなったか、全然覚えていません。


2013年4月27日土曜日

春の陶器市


春の益子陶器市(4月27日-5月6日)がはじまりました。


初日に行った理由は、秋の陶器市では田崎太郎さんの新作がほとんど売れていたので、初日に行ったら、今回の新作が見られるんじゃないかと思ったからでした。
ところがどうでしょう!
朝一番の時間でもないのに、店内は人であふれかえっています。入って見るどころの騒ぎじゃありません。


そして、テントの外に、長蛇の列が伸びています。二十人は並んでいたでしょうか。
並んでいる人に聞いてみました。
「どうして、何も持たずに並んでいるんですか?」
「順番を待ってるの」
「えっ、順番が来てから作品を見るの?」
「そう、順番がきてから見るの」
ひぇぇ。すごい人気、超人気です。

「どうしてあんなに人気が出たのかしら?」
と、出店のお蕎麦を食べながら夫に聞いてみます。
「いいからだろう」
確かに手の込んだ、すばらしい作品ではあります。それにしても、ちらっとのぞいたら、一つ七万円なんてのもありました。そんなのが、年寄りだけでなく、若い人にもばんばん売れるのです。
「そうかなぁ。いいからって人気が出るかなぁ。彼の作品買った人が宝くじにあたったとか、本に載ったんじゃないの」
「まさか」
田坂フィーバーはもう何年も続いています。固定客も多いようです。


さて、田崎太郎さんは「かまぐれの丘」でお店を出していますが、陶芸のしがみさこさん、おぬきなつさん、加藤弓さんなども、やはりかまぐれの丘に出店しています。


そして、我が家の隣に住んでいる、木工と漆の「八郷910」の二人は、「路地裏テント」で、木工とカレーの店を出しています。


八郷910で売っているクッキー。


G+00(常設のお店)では、久しぶりに母に手紙を書いてみようかと、手紙セットを買ってきました。


2013年4月26日金曜日

原発事故

昨日、福島県双葉町から、つくば市に避難されている方たち八名がいらっしゃいました。
昨年、夫が知人に頼まれて、双葉町からの人たちに話をしたのですが、「みんな、あなたたちに同情するばかりだろうけれど、それに甘えていてはいけない。聞けば、パチンコとお酒とテレビに溺れているそうではないか。はやく自立の道を見つけなければ、アメリカ先住民のようになる」と、辛口の話をしました。すると、「よく言ってくれた」と賛同してくれた人たちがいて、今回の訪問へとつながりました。

花の話などもしましたが、やはり気がつくと原発や津波の話になっています。


福島第一原発の北側で、その地域だけ放射線量が低いところがあるそうです。
「どうしてあそこだけ低いんだ?」
「津波で洗われたからよ」
そんな話に、私は思わず口を挟んでしまいました。
「えっ、1号機が爆発したのは3月12日でしたよね。3号機は3月14日だし、津波より後でしょう。津波で放射能が洗われたってどういうこと?」
「それがね。地震が起こった時、1号機は爆発したの。ちょうど、地震の被害がひどかったところで炊き出しのおにぎりつくっていたんだけど、「逃げろ」って言われて、おにぎりもそのままで、みんなで逃げたのよ」
「取材されたら、誰もが3月11日に1号機が爆発したと、取材している人に話すんだけど、どこも書いてくれなかったのよ」
「青い光が出ていて、息子が雷かなぁって言ったんだけど、雷みたいに稲妻になってないの。それはメルトダウンの光だったらしいよ」
「その日は西風が吹いていたのよ。道がガタガタに壊れていたから四輪駆動の軽トラックで逃げたんだけど、後で計ったら車の片側、風があたった面だけすごく線量が高かったんだよ」
「東電は3月12日に爆発したことにして発表して、みんなで違うでしょうって詰め寄っても、黙り込むばかりで」
知りませんでした。
地震で爆発したのに、次の日に爆発したとして発表したなんて。

思い出せば、あれは2011年3月20日ごろでしょうか。事故の顛末がどうなるかわからず、一時避難先で毎日食い入るようにテレビを見ていた日々、NHKのアナウンサーがメルトダウンという言葉を使ったら、「専門家」と称する人が、
「軽々しくメルトダウンという言葉を使わないでください。水素爆発とメルトダウンは別物ですから、厳密に分けてください」
と言いました。実はメルトダウンだったとされたのは、もっと後のことでした。
知っていたのか、知らなかったのか、原発で食べていたその専門家の名前を覚えておくべきでした。


「4号機は危ないんでしょう?」
「危ないよ。知り合いで働いている人がいるんだけど、コンクリートを流しても流しても、水が抜けていて、水抜けは止まらないと言ってた。見たら燃料棒のカバーがゆらゆらしていたんだって。いつ爆発してもおかしくないって」
燃料棒は、水で冷やしていないと高温になり、たちまち爆発してしまいます。事故現場で働く人は、被曝が危ないので、一週間に二日しか働けないそうです。
「爆発したら日本全体が住めなくなるって話ですね」
「そうよ。だから、私もパスポート取ったのよ」
「えっ、パスポート取ったの。取ったって、今日本を出なきゃ、爆発したら出られないでしょう?」
「そうよね。大混乱よね」
「自衛隊の基地、このあたりだったら百里基地に逃げるといいらしいよ。シェルターも食料もあるらしい」
「だって、爆発しても「してません」と言うくらいだから、基地に行ったって、「なんでもありません」と言って追い返されちゃうでしょう?」
「そうかもね」
背筋が寒くなります。
経済立て直しなんて言っている暇がどこにあるのでしょう。


地震の前、住民アンケートの「原発反対」に丸をつけると、東電から頻繁に人が訪れ、そのつどアンケートをやらされたそうです。
「どうしたら、うるさく来なくなるの?」
と他の人に聞くと、
「賛成に丸をすればすぐ来なくなる」
と言われ、うっとうしいから丸をつけたという人がいました。最後まで丸をつけなかった人もいました。

「前に進もう、と思いながら、やっぱり引きずっている」
と言う、彼ら、彼女ら。
少なくても30年は帰れないと思いながら、絶対帰れないと割りきってしまうのは、まだ難しいようでした。

「ぼくたち『東京新聞』を取っているけれど、今朝、蝶の奇形が出てるとか、猿の白血球が減っているって記事が載っていたよ」
と夫が言うと、みんな口々に『東京新聞』だけが、原発事故のことを報道し続けている、と言います。
原発事故のことを包み隠さず書くと決めたらしい『東京新聞』、ずいぶん圧力もかかっていると思いますが、最近では発行部数も伸びているとのことでした。
一社でもそんな新聞社があって、ほっとします。

私たちが安心して暮らせる日は、いつかくるのでしょうか。



2013年4月25日木曜日

ジャワ更紗


朝の連続テレビ小説「あまちゃん」で、「夏ばっぱ」が、ジャワ更紗のブラウスを着ています。
白も効いている明るい色遣いの斜め模様の布で、おしゃれです。

その昔、長い髪をきりっとまとめたインドネシアの女性が、茶色っぽいバティクでつくったぴったりした上下を着て、さっそうと歩いていた姿を、たぶんバンコクの空港で、見かけたことがありました。
普通、インドネシア女性はブラウスは無地一色のもの、しかも今は化繊ぽいものをよく身につけていますが、その女性はジャワ更紗で仕立てた袖なしブラウスとサロン(腰巻布)姿で、ワンピースのようなかっこよさでした。
すっかり憧れて、ジャワ更紗のブラウスを仕立ててみたことがありました。ところが残念、ジャワ更紗の、とくに黄褐色は私には顔映りが悪く、きりっとするどころか、薄汚く見えました。
浅黒い肌の彫りの深い顔にはあんなに爽やかに映っていたのに。

ジャワ更紗の基本色は、茶色と藍色です。茶色系の赤から黄土色のバリエーションと、藍の濃淡や、染料の重ね具合で、複雑な色が出ます。
茶色系の染料は、伝統的にはアカネ科のヤエヤマアカネの樹皮や根皮を煮出したもの、藍はマメ科のキアイやナンバンコマツナギの葉を水に漬けて発酵させ、石灰乳を加えて沈殿させた泥藍を使っています。
茶と藍を重ねると黒に近い色になります。

ジャワ更紗はショール、飾り布などもありますが、基本はサロン用につくられるので、だいたい90×180センチほどの布です。
 

雲のような模様の布は、人生の節目のようなフォーマルな時に身につけるものだそうです。模様には一つ一つ名前があり、意味があります。
また、模様で埋め尽くしているのは、悪霊などが入ってこないようにとの考えからです。


これは、生命の木のモチーフでしょうか。サロン布を横にして、三本の木や鳥が描かれています。
この二枚は、三十年以上前に、夫が仕事でジャワに行った時お土産に買って来てくれたものです。何度も服に仕立てようと広げて眺めたりしましたが、とうとう鋏が入れられなかったのですが、服にしなくてよかった。切って仕立てたものは元には戻りませんが、布のままでおけば、少なくてもサロンとしては着用できるし、いつまでも目を楽しませてくれます。


これは古い布の一部ですが、動物づくしの模様が楽しい一枚です。
金魚でしょうか?


魚かな?


鼻の長い象です。
他にもおもしろい動物満載です。


これも古い布。
動物づくしも、藍の単色の布も、どちらも細い細い糸で織ってある、絹のような手触りの木綿布です。


擦り切れて穴が開いたところは、丁寧に補修してあります。


ジャワ更紗には、このように布の一部に三角のぎざぎざ模様が描かれたものがよくあります。
サロンとして巻く時は、この模様を一番目立たせます。
幕末の、新撰組や赤穂義士討ち入りの時の羽織の袖の三角模様は、ジャワ更紗を真似たものと言われています。


拡大したところ。


さらに拡大したところ。
地に小さなドット模様があるのはどこの地方だったか、ある地方独特のものです。
S先生に教えていただいたのですが、忘れてしまいました。


これは化学染料だと思われますが、大好きな色で、大好きな一枚です。


これ、蝋を置いたところが染まりませんから、白いところの方が描き込んであるところなんですね。
細かい模様のものは、完成まで半年もかかるとか、今なお盛んにつくられているバティクです。もっとも、普段用のサロンには、工場製のプリントの方が圧倒的に多くなっていますが。



2013年4月24日水曜日

チャンティ


昨日、モン人が道具を使って糊染めをすることを書いたくだりで、インドネシアのジャワ島のチャンティを以前UPしたことがあったので、参照しようとして、さがし出すのにひと苦労しました。
やっと見つかりましたが、 「ライチーの種」の添えものとしての扱いだったので、改めて紹介します。
バティクを描くために、温めた蝋を入れて筒描きする道具、チャンティです。


温めた蝋を入れる部分は薄い銅を叩いてつくったあります。持ち手は、竹ではなく、葦の一種ではないかと思われます。
銅の壺は糸で縛って固定してありますが、取り外すことができます。

小さいチャンティは、以前バティクを教えていただいたS先生に、インドネシアのお土産としていただいたおもちゃ(ミニチュア)です。


S先生はチャンティを何本も持っていらっしゃいました。先の蝋の出口が超細い細描き用のものから、太い塗りつぶすためのものまで、いろいろなサイズのものがありました。

用途によって、口の太さの違うチャンティを選び、壺に蝋をたっぷり入れて描きます。
冷えて固くなると描けなくなるので、そんな時はしばらくチャンティを、蝋を温めているお鍋に入れておくと、口の中で固まった蝋が溶けて描けるようになります。

そう言えば、S先生はどうしていらっしゃるのでしょうか?
最初、ジャワ島のソロに一年の染め物留学の予定でいらっしゃいました。滞在は延び延びになりましたが、一時帰国された時はお会いしたのですが、その後、もう一年の予定で行ったまま、昨年の秋あたりから、音信不通になっています。
楽しくて、全然帰りたくないようです。
S先生やーい!


2013年4月23日火曜日

モン人の更紗


ゴールデントライアングルと呼ばれる、タイ、ラオス、ビルマの国境辺りに住むモン(Hmong)人の藍染めです。


細かい幾何学模様ですが、型を使うのではありません。


手書きで、蜜蝋を置いていきます(写真は『FROM THE HANDS OF THE HILLS』1978年、Media Transasia、香港より)。


へらであらかじめ布にグリッドを引いておき、そのグリッドに沿って、母親から習った模様や、自分が工夫した模様を、描いていきます。
蜜蝋は、インドネシアのバティク(更紗)と同じように、道具を使って置きます。
黒く見えているところが蜜蝋ですから、藍で染めてから煮て洗うと、蜜蝋が溶けて、白い模様になります。


細い線で囲まれた模様は、のちに別布をアップリケするときのガイドになったりします。


どうせ隠れてしまうので、最初から模様をつけないで空けてある時もあります。


これはプリーツスカートにする布で、昔は身体の幅の座機で織った、木綿や大麻の布を使っていましたが、機械織りの布が広く流通するようになってからは、広幅の木綿布を三等分して使います。
細くて長い長い布にしてから糊染めし、染めあがったら部分的にアップリケします。


染めあがった布は、裾布だけ接いで、糸を何段にも通して、細かいプリーツに畳んで、折り癖がつくまで、しばらく寝かせます。裾布は、細かい刺繍やアップリケを施した、華やかな布を使います。
じゅうぶん折り癖がついたところで、上に別布をつけます。



スカートは丈が短いので、寒い季節にはスパッツ(脚絆)を履きます。
その上に総刺繍の長い前垂をつけ、刺繍したブラウスを着て、銀の首飾りを何重にもつけたら、華やかなモンスタイルの出来上がりです。


蜜蝋染めとアップリケの組み合わせは、赤ちゃんのおんぶ紐にも使います。
模様で埋め尽くしているのは、どこからも悪いものが入ってこないよう、まじないの気持ちが込められています。


そんな古いスカートをばらばらにしてつくった、上着です。何度も水をくぐった藍染めは褪せて、いい色合いになっています。
これは手織りの大麻の布です。


これも、着古しのスカートを仕立て直したもの。昔スカートだったひだの跡が縞々に褪せて残っています。
 

近年(といっても30年前)、モンの染色技術や絵心に目をつけたNGOなどが奨励して描いたタペストリーです。
これは、90×180センチの大きな布に描かれているものの部分です。


刺繍も上手、染め物も上手なモン人たちは商売も上手で、「山の華僑」と呼ばれたりすることもあります。