八郷の日々
2023年12月8日金曜日
残ると気になる
詰め替え用のせっけんや洗剤を使っています。
詰め替えるとき、袋に残ったものが気になるので、なんとか最後の一滴まで移し替えようとします。食器洗いせっけんの場合など、移し替えて空になった袋を開いて、スポンジに吸わせて、最後の一滴も逃さないで使おうとしたりします。
歯磨き粉やかゆみ止めなどチューブに入ったものも、最後まで使いたい。えんぴつを転がしてチューブを伸ばして、下端からクルクルと折って使ったり、ぺったんこのまま使ったり。最近は、伸ばしたままの方が最後まで使いやすいと、丸めないで使っています。
味噌などは、夫も動員して菜箸で袋を両側からはさみ、端を引っ張って中身を出すという方法をとっていて、うまく袋がぺったんこになったら、すっきりします。
グリーンカレーのルーも、菜箸ではさむ方法でやっていましたが、数年前からもっといい方法を思いつきました。
ルーの入った袋の3方をはさみで切って、ページをめくるように開いて使うのです。これで全部使い切ることができ、ストレスはなくなりました。
というわけで、熱いままで袋から出さなくてはならないレトルト食品は嫌いで、いただくことはあっても、自分で買うことはありません。ストレスが多すぎます。
最後の一滴など、どっちでもいいのですが。
2023年12月7日木曜日
白内障
ある朝、夫が、
「幕がかかったようで、目が半分しか見えない」
と言いました。その数日前から、夫の瞼が垂れさがっているのが気になっていたのですが、こんなものだったかなぁ、と思ったりしていたのです。
「瞼を手であげてみたら?」
夫は手で瞼をあげ、
「あっ、見える!」
なんだ、やっぱり瞼のせいかと思ったのですが、念のため脳外科を受診しました。以前、
「景色が歪んで見える」
と言ったとき、病院に行ったら軽い脳血栓と言われ、集中治療室に1週間入院したことがあったからです。そのときは軽かったとはいえ、血が溜まっていたのは中枢に近いところでした。
今回、CTスキャンだったかMRIだったか撮ってもらったら、異常はないということ、一安心して、目医者さんに行きました。
すると、診てすぐに、「白内障なので、手術するように」と、手術のできる病院を紹介してくれました。
えっ、いきなり手術? 白内障は年取ると誰でもなってしまう老化現象ですが、
「年相応の白内障がありますが、このままにしておいて問題ないでしょう」
と言われながら経過を観察していて、そのうち手術の期が熟すものと思っていたのに、いきなり手術とはびっくりです。
「これまで、ぼやけて見にくいってことはなかったの?」
「ぜ~んぜん」
いったいどうなっているのか、鈍いのか、白内障でもなぜかよく見えているのか、日常生活には、全く支障がなかったようでした。
ところで、紹介された眼科病院に行くと、糖尿病でヘモグロビン値が高いのでこれでは手術できない、ヘモグロビンA1Cの値が8以下になってから手術しましょうと言われたそうでした。そのとき、ヘモグロビンA1Cは、8.4だったのです。
40代から血糖値の高かった夫は、しばらく前から、糖質コントロールと称して豆腐中心で、お米や麦は食べない生活をしています。といいながらも、アイスクリームやお菓子をばんばん食べていた生活をちょっと改めたら、8.4だったものが1か月後には8.2に、さらに2か月後には8.0まで落ちました。
「8以下にしろと言われてた!」
ここでさらに気を引き締めて手術に備えるのがよい方法ですが、夫は、ヘモグロビン値が落ちたので意気揚々、内科病院の帰りにお寿司を買ってきて食べたり、
「今晩は、マカロニグラタンにして」
と言ったりと、眼科病院に行く日までルンルンで過ごしていました。
ちなみに、私のヘモグロビンA1Cは、5.5以下、正常値です。
そして今朝、眼科病院に行き、私も同行しました。
お医者さんから、
「説明がよく聞こえないようだから、奥さんか誰かと一緒に来て」
と言われて、
「医者はもっと大きい声でしゃべってくれよ」
と、文句を言っていましたが、目が悪い上に、耳まで悪いからと心配してくれているなんて、いいお医者さんじゃないのとなだめ、同行しました。
「あれっ、まだ8だね」
「8以下と言われていたとかで、一生懸命落としたのですが」
との私の説明に、お医者さんは苦笑いしています。
「8以下と言っても、7台のことですよ。まぁ、もう少しがんばってください」
この結果に、夫は憤慨、
「病院を替えてやる!」
と息巻いていましたが、会計のとき、2か月後の予約をくださったので、
「まぁ、許してやる」
と矛を収め、さらに血糖値を下げることになりました。
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この冬は花芽がほとんどついてないコブシ |
頑張りましょう!
2023年12月5日火曜日
何もできないけれど
ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザへの無化別殺戮、また先日、日米など有志20ヵ国で原発の発電力を2050年までに今の3倍にする宣言をしたなどなど、世の中はめちゃくちゃですが、世の中ってもともとこんなものなのでしょうか?
イスラエルの犯罪は、1948年に現在の地に武力で建国して以来75年間黙認され、むしろアメリカやイギリス、フランスから後押しされてきました。
いきなり武力で侵略され、先住のパレスチナ人が、やっとの思いで逃げ込んだヨルダン川西岸とガザのパレスチナ自治区も、武力によってじわじわと侵食され、
イスラエルとパレスチナ自治区の境ではなく、パレスチナ自治区内に分離壁が建てられ、オリーブやアーモンドなど経済の自立につながる畑や果樹園は破壊するなど、イスラエルはやりたい放題の嫌がらせをしてきました。
そして、武器を持たないパレスチナ人が石を投げただけで逮捕、拷問、はては懲役20年の判決を下して強制労働させるという暴挙を、これまで誰も止められないできました。
私は、パレスチナの穏やかな田舎の道端で、談笑しているといきなり武器を構えたイスラエル兵を乗せた車が猛スピードでやってきたとき、子どもたちの顔色が変わって、近くの小石を集め始めたのを見たことがあります。イスラエル兵は突然やってきて、気まぐれに銃を撃ったりするので、子どもの心にも憎い敵として刻まれている存在なのでした。
2006年、1人のイスラエル兵がハマスに拉致されると、イスラエル社会は解放を求めてデモを繰り返すなど、大きく揺れたことがありました。5年後、その兵士と交換に、イスラエルは拘束していたパレスチナ人1,027人を解放しました。イスラエルはそんなにたくさんのパレスチナ人を、日常的に拘束しているのですが、そのことはほとんど報道もされません。
今回の衝突のきっかけはハマスが仕掛けたのですが、イスラエルの暴挙に誰も耳を傾けない中で、パレスチナ人にほかに何ができたでしょう? ヨルダン川西岸の道路を、ただ車で走っていただけで、すれ違いざまに銃で撃たれて亡くなった人も知っています。優しくて若い、洋装店を営むお父さんでした。
パレスチナ問題をよく知る人たちは一様に、「根本的な解決なくして、このようなことは起こるべくして起こる」ととらえています。ガザは、天井のない牢獄と例えられるほど、自由を制限されてきました。
ハマスはもともと、善行を行う喜捨組織でした。
ろうあ学校を経営したり、1948年以来の難民を支援したりと、長年、苦しい人々を支え続け、人望も厚い人たちでした。ところが、イスラエルのあまりの嫌がらせに、とうとうインティファーダの時代に一部が武装したという歴史があります。
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パレスチナ人の拘束者の開放 |
今回の衝突の一時停戦中に、ハマスによる人質とイスラエルによる拘束者の交換が行われましたが、数ではパレスチナ人の拘束者の方が2倍以上にのぼっています。その大半は石を投げた人、牢獄ではひどい拷問もあったと思われますが、ハマスの人質への対応は、攻撃され、物資も不足する中、礼を失しないものでした。
当初、北部を爆撃するからと、ガザの住民を北部から南部に移動させてガザ北部を占領したイスラエルは、一時停戦後、今度は南部の攻撃をはじめました。残りの人質も含めて、皆殺しをもくろんでいるのではないかとの見方もあります。
今日も北部からの避難者が逃げ込んでいる学校が空爆されて、たくさんの人が亡くなりました。イスラエルはパレスチナ人に、さらに避難しろと警告していますが、周りを包囲して、北部は占拠して、監獄化した狭い場所に閉じ込められている200万人もの人に、どこへ避難しろというのでしょうか。
もちろん、イスラエル人の中にも心を痛めている人がいることでしょう。
何もできず、ただ見ていることに、無力感に襲われるばかりです。
2023年12月4日月曜日
猫的生活
身体をねじるのが得意だったマルは、最近食欲が出てきて、身体が太くなってきたせいか、あまりねじりポーズを見せなくなりました。
カンボジアの猫がよくねじれていて、日本ではあまり見かけなかったのは、単に体格の問題だったのかもしれません。
タマは高いところに登るのが大好き、すぐ登ってしまいます。嬉しいからと登り、びっくりしたからと登ります。
天井に張った障子を壊したのはタマ、あれからも、夫が懲りずに閉め続けている障子を、懲りないタマがもっと壊しています。
そんな、すぐ登ってしまうタマを、マルは冷めた目で見上げています。
タマは以前から、お風呂の縁に足をかけて水風呂の水を飲むのが得意でしたが、いつのまにかマルも飲めるようになっていました。水面は低いので、うまくバランスを取らないと滑り落ちてしまいます。
もちろん、水飲み用ボウルにはいつも、新鮮な水を切らしていません。
お風呂の蓋が猫たちの重さでしなっていますが、そこから温められた空気が流れてきて心地よいのでしょうか?
猫用ヒーターは、昼夜つけっぱなしですが。
2023年12月3日日曜日
山桜の樹皮をふんだんに使った箕
晴れてはいるけれど寒い今朝、近所の骨董市に行きました。
ガラス骨董のわじまさんの店には、ガラスでもないものも並んでいます。
染料ビンはありませんでしたが、3つばかり重ねてある籠の、2番目が箕でした。丸い籠を持ち上げてみると、それはありきたりの竹の箕で、サイズも小さいので欲しくない、ところがその箕を持ち上げてみると、その下には、すず竹と桜の皮でできた美しい箕がありました。
きれいなままで、壊れたところもありません。
小さいので、実用の箕としてつくられたかどうかは疑わしいところですが、値段を訊くと、
「500円」
と、わじまさんから素敵な答えが返ってきました。
桜の皮は一部ではなく全体に使われていて、裏には補強材を差すという、丁寧なつくりです。
ただ、縁が縄で巻いてあって、その縄も密ではないのが、ほかの場所の丁寧さと比べて、不思議と言えば不思議ですが、もしかすると、使い手が自分で修理しやすいようにつくってあるのかもしれません。
縄の材料は何でしょう? シナノキでしょうか? 簡単に切れそうにはありません。
産地は北の方には違いありませんが、どこでつくられたものかわかりません。
今日は12月3日。「箕研究会」の方たちの定めた箕の日。勝手に協賛でした。
2023年12月2日土曜日
2023年12月1日金曜日
福助さん
『福助さん』(荒俣宏編著、筑摩書房、1993年)は、荒俣宏さんが日本の古い商標を研究していた荒俣さんが、古い福助さんを一挙に譲ってもらったこと、本を書くなら社のコレクションを参考にしてよいと、福助株式会社から申し出でがあったことなどから、実現した本です。
目次の下に勢ぞろいしているのが、荒俣さんの福助さんたちです。
その荒俣さんの福助さんを、あちこちに連れ出して写真を撮ったのは林丈二さん。
装本は南伸坊さんというトマソンの面々が、たぶん、とっても面白がりながらつくった本です。
福助さんの誕生は江戸時代で、諸説ありますが、伊吹山のふもとの柏原で伊吹もぐさを扱う亀屋由来もその一つ、亀屋には天明年間に生まれた番頭福助がいました。福助は家訓を守り、裃をつけて手には扇を持ち、街道を行く人を手招きしてもぐさを勧めました。
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絵葉書になった亀屋の二代目の福助。現存 |
この話が京都にまで伝わり。伏見の人形屋さんが福助の姿を人形にうつして縁起物として広めたとされています。
亀屋には150年前から巨大な福助さんが店頭に飾られ、今も座っています。
歌川広重の木曾街道六十九次にも、亀屋の福助さんが描かれています。
福助株式会社の前身「丸福辻本商店」は、大阪の堺で明治15年に創業しました。和歌山県に販路を伸ばした時、和歌山の「丸福足袋坂口茂兵衛」から商標法違反とのクレームがつき、訴訟まで起こしたものの敗訴、「丸福」は使えなくなりました。
落胆した辻本家を勇気づけたのは、1個の土人形でした。
福松の息子の豊三郎が、正月吉例の伊勢神宮に初詣したあと、山田の町で道端の土産屋を覗きながら歩いたところ、古道具屋で高さ30センチほどの福助の土人形を見つけました。
出逢った瞬間、これを新しい商標にしたいとこれを抱えて(おつきの人が運んだとしても徒歩だと大変!)急ぎ帰宅、父の福松に見せると目を輝かせ、さっそく得意の絵筆をとって自ら絵を描き、特許局に持って行きました。明治33年に登録認可書が下り、足袋の名称も、「福助印堺足袋」に変えました。
写真は、その土人形の福助さんです。
江戸時代の福助さんは、開いたり閉じたりした扇を持つものでしたが、福助足袋の浸透以後、お辞儀福助が主流となり、扇福助は駆逐されました。
さて、林丈二さんが撮った荒俣宏さん所蔵の福助さんの中のこの福助さん。我が家の福助さんと同じ人の手になるものと思われます。
着物や袴の色は違いますが、型も同じような気がします。
子どものころ、定期的に荷を担いでやってきた呉服屋さん、いつも福助のラベルのついた足袋を持っていて、えんじ色のビロードの足袋をときおり買ってもらったものでした。下駄には足袋でしたが、小学生になって運動靴を履くようになってからは、防寒用の足袋はあまり履かなくなりました。
そういえば、朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で、銭湯花の湯には、福助が男湯に、おかめが女湯に使われていました。
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