2021年8月31日火曜日

江戸の歌舞伎

息子が敬愛する、漫画家のみなもと太郎さんが先日お亡くなりになりました。
そのみなもとさんが絶賛していた絵本だと言って、『夢の江戸歌舞伎』(服部幸雄文、一ノ関圭絵、岩波書店、2001年)をプレゼントしてくれました。


歌舞伎研究家の服部さんが江戸時代の歌舞伎を絵で表すことを思い立ち、漫画家の一ノ関さんと8年の時間を費やして仕上げた力作です。
当時の文献などで、江戸の歌舞伎を知ることはできますが、視覚的に知ることができるのは、この本が初めてのようです。
一ノ関さんは服部さんから、「一枚の絵に観客、役者、裏方たちを千人描いてください」と言われ、歌舞伎を見て、小屋の構造を調べて、いろいろな史跡を訪ねて、イメージを膨らませてきました。


と言っても私は、最初、パラパラッと見て、
「私はこの絵はあんまり好きじゃない」
と言ってしまいました。
「よく描けていると思うけれど、くせがなさすぎる」


しかし、見ているうちに前言を撤回しました。
例えばこの画面、歌舞伎開催の前の小屋の様子、大道具小道具の仕上げ、床山さん、衣装合わせなどなど、細部の細部まで、描き込まれています。


興業を前にして、役者さんたちが最後の稽古をさらっています。


興業の日、小屋の前にはたくさんの人が着飾って押し寄せました。


出を待つ役者たち。


幕が開くとき。


当時の歌舞伎では、観客の頭上に橋をかけるとか、水を張る、宙づりになるなど、あっと驚く楽しみも用意されていたようですが、観客の上にどうやって橋を架けたのか、一ノ関さんは何度も描き直したそうです。


場面を動かすのもすべて手作業、花道からは役者がせりあがっています。


奈落での裏方さんの働き。
大きな建物ですから、舞台の上も、ましてや奈落は暗かった。そんな中で、人力で回さなくてはなりませんでした。


幕間の楽屋。


川をつくり出すという趣向。実際に水を張ったりもしたそうですが、想像がつきません。


客の頭上で、宙乗りのまま立ち回りが行われたりもしました。


役者と観客が一体となった興業は大当たりで、楽屋では祝宴が開かれています。


そして、観客たちは余韻に浸りながら、夜の町へと消えていきました。


ところで、どの絵にも狂言作者見習の千松という子どもが描かれているそうです。
これは、大人のために描かれた絵本だとばかり思っていましたが、千松を探し出せるのは子どもでしょう。大人の私には到底無理です。






2021年8月30日月曜日

ニャンコ先生の招き猫


『夏目友人帳』のニャンコ先生、フィギュアの中でも気に入ったものしか持っていないし、数あるぬいぐるみも持っていませんが、フィギュアだけでもにぎやかです。


そのニャンコ先生の、招き猫だけ集めてみました。
一番古い、そして小さいフィギュアだけ右手挙げ、あとは左手挙げです。


この2つは、「夏目友人帳」と書かれた小判を持っています。


祠に入った招き猫ニャンコ先生は、「夏目友人帳」ではなくて、千万両の小判を持っています。


どんな経緯だったのか、大きめのソフビの招き猫は、同じものが3匹もいます。


私は、どちらかと言えば、おでこの模様がちいさ目で、頭が大きすぎないニャンコ先生の方が好きです。




 

2021年8月29日日曜日

汽車のおもちゃ

長男は(次男も)、よくあることですが、ものごころつくと乗りものに関心を示しました。
そこで、買ってくるおもちゃといえばミニカーや汽車など乗りもののおもちゃでしたが、ミニカーは1台も残っていません。当時はアメリカに住んでいたので、マッチボックスという会社のミニカーを揃えていて、普通車のほかに、消防車、救急車、トラック、そして2段に4台も積むことができるカーキャリアなどもありました。
ミニカーは息子たちが遊び倒したとも言えますが、私も愛着がなかったので、壊れたものから処分して、今では1台も残っていないというわけです。


それに比べると、汽車たちはよく残っています。
大きな汽車と、白木の列車は、北欧の食器など美しいものを売っていたデザインショップのセールで買ったものです。普段は手が出ないものも、セールで半値くらいになりました。
大きな汽車には、貨物車両だけでなく客車もあり、ずっとあったのですが、気がついたらなくなっていました。こんな大きなものがなくなるだろうかと不思議ですが、ブリキのアタッシュケースなど、何故か大きいのに姿が見えなくなってしまったものが、ほかにもあります。


貨物車両は、両側の扉を開けることができます。


車輪だけはプラスティックですがあとは木、連結部分は、高くなっている前部に穴が開いていて、低くなっている後部に木の突起がさしてあり、簡単につないだり外したりできます。


車輪のない白木の列車は、立てると人にも見えます。人形やミニカーなどいろいろなものも乗せられるのできっと喜ぶはずと思いましたが、これは目算違い、息子たち2人とも、ほとんど遊びませんでした。


それに比べると、毎日のように遊んでいたのは、ゼンマイで走る機関車でした。
1960年代の終わりから70年にかけて、アメリカのおもちゃ事情は、美しいけれど値段の張る北欧製の木のおもちゃ、デパートで、ピンからキリまで多様な展開をしているアメリカ製のおもちゃ、ホームセンターなどでビニール袋に入ってぶら下げられている、香港製の安物のおもちゃという感じでした。
戦後、一時は幅を利かせていたであろう日本製のおもちゃを見かけることはほとんどありませんでしたが、このシリーズ、ゼンマイで動く機関車と消防車は人気だったのか、いろいろな店で見かけました。
息子が特に好きだったのは、汽車のゼンマイを巻いて走らせることではなく、ゴムでできているえんとつを引っ張って抜くことでした。何度も差し直しておくのですがすぐ取ってしまって、煙突のない機関車は面白みがないので新しいものと買い替えるとまた抜く、そのうち煙突が失せるといった具合で、これは三代目か四代目ではないかと思います。


それから何十年も経って、確か骨董市で消防自動車に出逢ったときは、旧友に会ったような懐かしい気がしました。


MADE IN JAPANのプリントがある、同じ会社でつくられたものです。
どちらも、ゼンマイを巻くと、今でもよく走ります。

さて、お父さんが遊んだおもちゃをたけちゃんに見せてみました。


ゼンマイの汽車はレールの上を走らせたいとやってみましたが、レールの上では走れません。


息子たちがほとんど遊ばなかった白木の列車を見せると、たけちゃんは積み木として遊びましたが、


連結して見せたら、


すぐに全部つなぎました。


しかし、つなぐことができると知ったときは楽しいけれど、何度もつないだり離したりする面白さはないようでした。

追記:


すっかり、ごちそう列車です。








 

2021年8月27日金曜日

アフガニスタンのクルタ

アフガニスタンには、パシュトゥン人のほか、タジク人、ハザラ人、ウズベク人などが住んでいます。


これは、アフガニスタンに住むウズベク人のクルタです。クルタとは南アジアの多くの地域で着用されている襟なしの、丈が長めのシャツのことです。


絹の絣織り(アトラス、経絣(たてがすり))で、日本の着物地とほぼ同じ細幅の布を織り、つないで仕立てます。
何世紀も、同じ模様で同じ形でつくられ続けてきました。


脇の下の、着物のみやつくちにあたるところには、バイヤスに切った絹のプリント布を当ててあり、腕を動かしやすく、かつクルタに無理な力がかからないようにしてあります。


細幅の布をつなぎ合わせるところなど、手で細かく丁寧に縫ってあります。


それなのに、襟ぐりと裾という目立つところは、アトラスのチャパン同様、ミシンで縫ってあります。
まだ、ミシンという新しい機械で縫っていることを誇ることができた時代、20世紀の初めごろのものだと思われます。


ロシア製の木綿プリント布を裏に当てた襟ぐりは、ミシンの糸調節ができてなくて、下糸がつれているので醜く縮んでいます。しかし、クルタを仕立てる女性としては面倒な手刺繍から解放され、しかも最新流行を取り入れていることを誇示することもできるのだから、何の文句もなかったことでしょう。

ちなみに、ウズベキスタンではアトラスのクルタは着られていないし、アフガニスタンに住むウズベク人の間でももう着られていません。






レール遊び

「積木ある?」
と息子。
「積木はないねぇ。あっ、汽車のレールならあるけれど」
「それでいいよ。たけは好きだと思うから」
というわけで、レールを引っ張り出してきました。


組み立てたのは息子です。


喜んだのはレールでしょう。


何年かぶりに、遊んでもらっています。


1960年代のレールは、つなぐところにはまん丸い突起がついていました。とってもかわいいのだけれど、遊んでいるうちに抜けやすく、接着剤でつけなおしてもまた取れたり、折れたり、失くしてしまったりしました。
それが、1970年代になるとつなぎはプラスティックになり、両方に差し込んでいるので抜けなくなりました。


丸い突起がなくなったものは、小さいヒートンで代用しています。


しかし、木のレールの出番はここまででした。


午後にたけちゃんのお父さんが100円ショップでレールと電車を買ってきたのです。


いくつかに分かれていたから、全部で1200円だったとか、3両連結の中央線は、単三1本で驚くほどよく走り、ポイントを切り替えると停まり、また動きます。
プラスティックの電車は走り続け、木のレールは、またお蔵入りとなりました。