2018年3月10日土曜日

魚と生きる人々

 
ニジェール川は、西アフリカを流れる大河です。 
全長4,180キロ(メコン川よりちょっと短い)、源流のギニアの山地からマリ共和国へと流れ込み、ニジェールを流れ、ニジェールとベニンの国境をなし、やがてナイジェリアに至ってギニア湾に注いでいます。

マリのモプティにある村、「ニャンたル猫じゃ」より

ニジェール川には支流もたくさんあり、河口に大デルタ地帯を形成しているだけでなく、マリのセグーからトンブクトゥにかけて、内陸デルタも形成しています。
この大河は、乾燥したサヘル地域に、貴重な水や魚資源をもたらしてきただけでなく、ギニア湾沿岸と北アフリカを結ぶ、交通・交易の要にもなってきました。

1960年代に、ガーナのクマシで暮らしていた時、夫の同僚のノルウェー人のクリスチャンとトーヴァ夫妻が、自国に一時帰国した復り道、ニジェール川を通ってガーナまでやってきたことがありました。
彼らはまずセネガルに入り、陸路でマリのバマコに行きました。そこから船に乗ってニジェール川を下り、ニジェールのニアメまで行って船を降りて、ブルギナファソ(当時のオートボルタ)を経由して、ガーナに戻ってきました。
もう昔のことで、詳細は覚えていませんが、当時の西アフリカの状況を考えると、宿もなければ、乗り合いバスなどもなかったので、陸路の移動が最も大変だったと思われます。たぶん、ヨーロッパで車を手に入れ、フェリー船でセネガルに入り、ニジェール川もフェリーに乗って下ったものだったのでしょう。
何人か集まって、出来立てほやほやのスライドを見せてもらいながら、その旅の話を聞きました。
筏のように平らな船上には隠れるところも見当たらなかったので、思わず、
「目があると思うけれど、お手洗いはどうしたのですか?」
と質問して、
「そりゃぁ知らんぷりして、船べりでなんとかするのよ」
とみんなに笑われたものでした。
見たことのない、サヘルは、それはそれは魅力的でした。以後、ニジェール川の川下りを含むサヘルの旅は私のあこがれになり、いつか行きたいと思っていましたが、その後妊娠したり、ガーナを離れたりしたこともあって、夢はかないませんでした。

それから四半世紀後、農業専門家の中田正一先生は、マリのバマコからトンブクトゥまで、70歳を過ぎてから、船で行かれました。72時間で着くと言われて船に乗ったのですが、実際は二週間かかったと、先生は楽しそうに話されました。炎天下、船には陽を遮る場所もなかったそうです。

魚を獲るボゾ人、「Mr.Tの優雅なカントリーライフ」より

そのニジェール川で漁労を生業としているのは、ボゾ(Bozo)人です。
彼らは、小舟に生活道具を積み込み、家族で一年に1,000キロも移動し、各地でテントを張って暮らしながら漁をします。

この写真で、親子は優雅に自分の仕事をこなしていますが、もし私がこの親子のどちらであっても、次の瞬間にはバランスを崩して舟ごとひっくり返り、せっかく獲った魚も何もかも、川に投げ出してしまったことでしょう。
 
「モプティ旅行記」より

ボゾは、獲った魚を薫製にしたり、草を集めて蒸し焼きにしたりして商い、流域の農耕牧畜民の食を支えてきました。

鍛冶屋の店先、「looming people」より

舟はもちろん木造で、その舟に打つ釘も、一本一本ボゾの鍛冶屋さんがつくります。
つまりボゾは、漁労だけでなく、木工や金工など、手仕事にも優れた人たちなのです。


そんなボゾの人たちは、ニジェール川の恵みに感謝するお祭りのために、紐で操る木彫りの人形をつくっています。
いろいろな動物や人魚などもつくりますが、中でも、彼らの生業を支えている魚の木彫りは特別な存在です。

 

ネットで見つけた、ボゾの魚たちです。
 

なかなかの迫力です。


魚はつくる人によって、色も形もさまざまですが、ひれを動くようにつくるのが約束事です。


紐を引っ張ると、ひれはかたかたと音を立てます。


ボゾは多才で、漁労、木工のほかにも、素焼きの甕や鉢などの生活用具もつくって、売ったりしています。

「井関和代氏の写真」より

また、藍染めもしています。
ボゾの女性が、灰汁を入れた壷に玉藍をほぐして入れ、発酵させるという、藍を建てる作業をしているところです。

「looming people」より

その、藍染めの服をまとったボゾの女性の写真を見つけました。
細く織った布をはぎ合わせて広い布にしてから、絞り染めの方法で模様部分をくくり、藍で染め上げたもの、サヘルの茶色い土に映える、素敵な衣装です。
ブログ、「looming people」には、この女性が揚げ魚をセメント袋で包んでいるとの説明がありましたが、水が豊富で何でもよく洗うボゾの人たちのこと、きっとセメント袋もよく洗ってから使っているに違いありません。


余談ですが、このブログには、マリのセゴウで泊まったホテル(今は、ホテルもあるんですね)の部屋にかかっていたというタペストリーの写真が紹介されていました。

「looming people」より

これを見ると、絵ですから正確ではない部分もあるかもしれませんが、2枚の綜絖(そうこう、経糸(たていと)を上げ下げする部品)は紐で吊るしていますが、筬(おさ)は吊るしていません。
バウレの筬に通じるでしょうか?

「ランキング・ダイナマイト」より

ニジェール川は、河口のナイジェリアで、7万平方キロメートルもの大きなデルタを形成しています。
このあたりは、1950年から油田開発が始まって産油地帯となりました。そして、1970年頃から2000年までに、およそ3万リットルの原油が流出してしまいました。
  
「AFPニュース」より

川に依存して生活している人々は、汚染された土地に農作物を育てることもできず、汚染された魚を売買することを余儀なくされています。
そして、この地域を浄化するには、25年以上かかると言われています。
近代の産業行為と自然との折り合いは、ニジェールデルタほど象徴的ではないにしても、とても難しいものです。





 

8 件のコメント:

karat さんのコメント...

全く知らない地域の、全く知らなかった話を、何度も上の地図と比べつつ読みました。とても興味深かったです。
へー、ブルキナファソってここにあるの…。トンブクトゥって聞いたことはあった地名だけどここにあるの…!から始まったのですが。ありがとうございます。
ボゾで検索して、写真の赤い魚が出てきてクリックしたら、現在取り扱いありません…て、春さんのところに行ったのですね(^^)。

karat さんのコメント...

追伸:自分が生きている世界とスケールが違うというか、時間的にも空間的にも地球は広い………としみじみ。よく地球儀の上を飛行機でひとっ飛びみたいなビジュアル解説がありますが、飛行機で海の上とか森林の上とか長時間飛んでいると、広い地球の薄皮の上を地味ーに進んでいる感じがあります。それが船だったり陸路だったりしたら、どれだけかかるのか…想像がつきません。

さんのコメント...

karatさん
楽しめていただけて嬉しいです(^^♪
赤い魚は、自分へのお年玉だったか、何か重労働をした時のご褒美だったかでした(笑)。たまにボゾの魚をネットでも見かけますが、欲しいと思うのはあまりなくて、でも欲しいと思ったのは逃したり、何度も何度も見ていて、やっと決心して申し込んだら、「すみません。あれは手違いでとっくに売れてました」と言われたり(笑)。というわけで、赤い魚とはご縁がありました。

ニジェール川添いには、たくさんの王国もできたという大動脈です。あの川を通って織りもの、宗教、鍛冶など、いろいろなものが広がっていったと思います。木彫りも、刃物あってですものね。ニジェール川は今も憧れです。

さんのコメント...

karatさん
地球はかつて広かったけれど、だんだん狭くなって、この先どうなるか、ちょっと不安です。
岡倉天心がアメリカに行き来したとか、夏目漱石がイギリスへ行ったとか、私たち何とも思わず口にしますが、全部船旅だったのだからすごいです。そして、ジョン万次郎の時代は船旅でももっと時間がかかりました。地球は本当に広かったですね。
私たちがアフリカにいたころは、サバンナの人たちは歩くのが当たり前だったし、誰もがよく歩いて、定期市の立つ場所目指して何キロも歩いていましたが、今はどうなっているのでしょう?行ってみたいです(笑)。

kuskus さんのコメント...

わー、なつかしいです。
セグーから川船に乗ってニジェール川を旅したことがあります。
かつて黄金の都と呼ばれたトゥンブクトゥまで
行ってみたかったけど途中のモプティーで降りて内陸路をブルキナファソからガーナ国境近くまで行きました。
ボゾの川舟のような木船にゴザで簡単な屋根のついたピロッグと呼ばれる小舟で船頭を雇って川を下るという方法もあって、知り合ったフランス人のカップルとシェアしようとしたら、わたしの同行者が「そんな危険なこと!」と、強く反対するので泣く泣く諦めましたっけ。
乗った川船の船室は足も踏み入れられない混雑ぶりで、甲板にシュラフで寝ましたが、夜の冷え込みで鉄の甲板が氷のように冷たく、日が昇ると日陰がなくて焼け死にそうでした。
女の人たちはプラスチックのボウルにスカートや腰布を広げて用を足し、川にすててました。
小さなコンロで干し魚のスープを煮たり、洗濯したり、普通の長屋の路地裏みたいな甲板の日々でした。
途中水位の低いとこは、堰を閉めて水位を上げたりしながら進んでいたとこもありました。
結果、ピロッグでの旅よりアフリカの人たちとのニジェール川の旅ほうが楽しかったです。

hiyoco さんのコメント...

アフリカを旅したような気分です!私も何度も一番上の地図に立ち返りながら読みました。ニジェール川は海岸近くから出発して内陸経由海岸という、地図で見る限り不思議な川ですね。あまり高低差がない地形なのでしょうか?サヘルは初めて知りました(サヘル・ローズさんというイラン人のタレントは知っていましたが)。アフリカは水不足のイメージですが、水に不自由しない人たちもいるのですね。
「スライドを見た」というので、私も中学の時、塾の先生が夫婦で世界一周の旅をした時のスライドを見せてくれたことを思い出しました。スライドは印象に残りやすいですね。
最後になって「えーっと、結局春さんはニジェール川に行ってないんだっけ?」と笑ってしまいました。とっても臨場感あって楽しかったですー。


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kuskusさん
わぁ、ニジェール川の船旅したんだ、いいな、いいな。うらやましいぃ…。よい思い出ですね。
私たちは陸路でブルギナファソまで、ワガドゥグからボボビオラッソを経由してガーナに戻ったことがありました。それでも、サバンナを2週間くらい旅すると、ほとんど車両で寝て、持参した食料で炊事してで、クマシの我が家に戻ったらほっとしたものでした。当時、まだクマシは熱帯林の中でした。今は木は伐採されてないみたいです。
ボゾの人の舟の扱いは素晴らしい!小舟で旅できなかったのは残念でしたね。絶対ひっくり返ったりしなかったと思います。
ガーナには、ダムをせき止めたヴォルタ湖というのができていて、遠くから漁民がやってきて住み着いていて、そこで初めて農民ではなく漁民の人たちと出会いました。若かったせいもあり、10日もいたのに、観察力はいまいちでしたね。今行ったら、漁網とか網針とか、もう夢中で見入って、質問攻めにしてしまいそうです(笑)。

お手洗いは今だとあまり問題ありませんが、当時は若かったので苦労しました(笑)。木立があって、隠れ場所ができるアジアでは、どこでも用が足せるので問題ないのですが、アフリカは乾季には、ほんと遠くまで見渡せて、隠れ場所がありません。あの頃はサロンも使いませんでしたが、タイで暮らしてからサロンの有用性に目覚めました。サロンはほんとに便利です。
あるとき、ガーナ北部を車で走っていたら、水の音が聞こえました。雨は降ってないしと近づくと、定期市から帰る女性たちが立ったまま、30人くらい(もっと?)並んで一緒に用を足していた音でした。頭に重くて高い荷物を乗せたままで、前を通るとき、こっちの方が恥ずかしくなりました(笑)。
人前で用を足すといえば、学生時代に友人と京都大原の見かけた農家を訪ねて、わら細工など見せてもらっていたら、おばあちゃんが話しを続けながら立ち上がったと思ったら、やおら玄関わきの肥壷に用を足しはじめ、目のやり場に困ったことがありました。昔はどこでも、排せつは恥ずかしくなかったのです!笑。
トンブクトゥは、ガーナに行って初めて知りましたが、あのころクマシにいたガイジンたちみんなの憧れでしたねぇ。懐かしいです(^^♪

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hiyocoさん
そう簡単にはいけないんですよ。ニジェール川には!笑)。
地図で見る限り、確かに不思議な流れ方をしていますね。でも行ってみたわけじゃないから、わからないんです(爆)
サヘルはサハラの周辺という意味です。私はサヘル・ローズさん(好きです)が出て来たとき、「サハラのバラ」という芸名をつけたのかと思いましたが。
1960年代、フジフィルムはなかったと思う。スライドはコダックとアグファ(ドイツ)でした。アグファは現像込みの値段で売っていて、どこで撮ってもドイツに送ると現像して送り返してくれる時代でした。コダックの場合はイギリスの送っていたのかな、ということで、スライド映写会はスライドができてから、しばらく経ってからでした。夫の同僚はみんな建築家や画家だったので、みんなが旅を紹介したりするスライド上映会は、とっても勉強になりました。
それにしてもあれから半世紀、ニジェール川も近くなったかなぁ?機会があれば行ってみたいけど、kuskusさんの言う、夜は冷え込み、昼は身の置き所がないほど暑い状況に、いまだに耐えられるかどうか(笑)、ちょっと疑問が残ります。