2017年10月5日木曜日

「うだつ」の町

徳島県西部、つるぎ町の村々を訪問した日は、山と平野の境である穴吹町に泊まりました。
 
 
翌朝、徳島市に向かう途中、江戸中期以降、商業と交通の要衝として栄えた脇町に寄りました。

 
脇町の石垣に沿って流れていた吉野川は、明治の初めごろには河川敷となり、舟の往来する細い川を残して、藍や桑が栽培されました。

吉野川はかつて、二年に一度は氾濫するという暴れ川で、藍農家は、その氾濫を利用して、水が運んでくる栄養分やミネラルで潤った氾濫平野で、通常は連作を嫌う藍を、毎年育てることができました。

 

その藍の集積地として脇町は栄えました。
江戸から明治にかけて、徳島県は日本の藍の90%を産出し、たくさんの人口を養いましたが、化学染料の普及で、経済は急速に衰退していきました。

昭和50年(1975年)に、吉野川の堤防が全流域で完成し、脇町に水は来なくなり、藍の集積場としての役目も終えました。


さて、脇町では、防火のために、家と家の間に「うだつ」をつくりました。

 
表通りに店を構え、うだつを上げることは富の象徴と見られ、このことから、「うだつが上がる」という言葉ができました。


家々は、今も美しいたたずまいを見せていましたが、出会った人にお話を聞くと、近くに「道の駅」ができたりして、観光開発をしようとしているものの、過疎化は進んでいるとのことでした。


昔のたばこ屋さん。


あちこちにある、つくりつけの縁台が素敵です。
その昔は、夏の夜など、大人は縁台に座ってうちわを使い、子どもたちはわいわいと花火に興じたのでしょうか?


家の間から、直接川に出られるよう、細い道をつくってあるところもありました。


その家の壁板は、舟板再利用のものでした。
 

つい細部に目が行ってしまいますが、軒下がきれいです。
割った竹で、杉の皮を抑えています。同じ手法は、このあと訪ねた、藍商の田中家でも見ました。


軒先にぶら下がっている板が、何に使うものかわからなかったので、家の人にたずねると、のれんを下げるためのものでした。


その板のところどころに穴が開いているのは、のれんを下げたら暗くなるので、明り取りの意味だとか。
  

吉野川は今でも大河でした。





10 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

「うだつ」いろいろな意味で面白いですね、
門司にも一軒ありますが車で通過しては気がつきませんょね。
船の側板を利用したり、煙の出口に水と書いたりが
残っていましたが三世帯目になればさっさと
改築し残っておりません。
何でも早いです。

さんのコメント...

昭ちゃん
何が正しいのか、正しくないのか、時代を経ずに理解することは難しいです。
うだつも、今では地元の人にとって「町おこし」の一装置にすぎませんが、もっと時代が進んだとき、その価値が真の意味で見直されるかもしれないし。
左官仕事は、今では少なくなっていますが、すごい技です。

ここ八郷も、「昔風の家を建てたい世代」が高齢化したのか、立て直しは文化住宅が多くなりました。八郷の八郷らしさが意味を持つ時代がそこまでやってきているのに、個性のない村になってしまいそうです。
いろいろ、残念なことはありますね。

hiyoco さんのコメント...

川の氾濫が藍の連作を可能にしたなんて面白いです!なんでもプラスとマイナスがあるってことですね。

Bluemoon さんのコメント...

ここの景色もいいですね。建築が綺麗です。折り畳み式の縁台、いいですね。大阪の町中ですが、子供の頃は夏の夕暮れ時になると近所のおばあさんたちは縁台や椅子に座ってうちわでパタパタしていました。薄い肌着だけで上半身丸見えのおばあさんも。必ず声を掛けてくれるし、思い出すとほのぼのとしたものあります。

さんのコメント...

hiyocoさん
エジプトもそうでしたね。ナイル川の氾濫で河口平野が潤って、農作物がよく採れて、一大文明を築きました。でも、雨季と乾季がはっきりしているあそこでは、ナイル上流のエチオピアでは肥沃土を完全に失って、今では溶けたように痩せた山が連なっています。

カンボジアも、メコン川の水位が雨季と乾季では8mも違い、そこいらじゅう水浸しになりますが、農民は乾季は農業、雨季は漁業で、自然を利用した生活をしています。やはり肥料なしで農業できます(^^♪

さんのコメント...

Bluemoonさん
エアコンのない時代は、みんな夕涼みしました。家に入っても暑くていられない、蚊帳を吊ったらなおさら暑くて、昼間のほてりが和らぐまで、みんな外でした。天の川が見えて、流れ星も見えました。
学生のころ、旅をして暗くなった道をバスで行っていると、夕涼みの人をライトが照らし出すことがありました。上半身裸のおばあちゃん、よくいました(笑)。

昭ちゃん さんのコメント...

大らかな時代でしたね、
家内の母などは手ぬぐいを肩から斜めにかけて、、、、(笑い)

さんのコメント...

昭ちゃん
そうそう、私が京都に行ったときなど、おばあちゃんが、話しながら目の前で、肥壷におしっこしていましたよ(笑)。
車社会になってからでしょうか、変わったのは?
人が景色から消えましたしね。

昭ちゃん さんのコメント...

春姐さんまだまだ思い出が一杯で
山から下りて駅まで1時間半を星灯りで歩きますが
両側は畑ばかりなので
風のない日は「田舎の香水」が立ち込めています。
昭和30年代でも、、、。

さんのコメント...

昭ちゃん
それって、畑にすでに蒔いたやつですか?
あぜ道や辻などあちこちに肥溜めがあって、酔っぱらって落っこちたとか、足を踏み外して落っこちたという話が、枚挙にいとまありませんでしたね。
農家では、玄関のわきなど、一等地に置いてありました(笑)。