2025年4月1日火曜日

ヨーグルト容器


長年楽しませてくれた自家製ヨーグルトは、家を長く空けたりしたときに菌が弱り、その都度何とか回復させたものの、数年前に回復不能になってしまい、つくれなくなりました。しばらくはヨーグルトなしの生活をしましたが、きちんとカルシウムを摂りたいと、今では市販のヨーグルトを買っています。
400グラム入りのプレーンヨーグルトの値段は上がったり下がったりするので、数銘柄を決めておいて、そのとき一番安いのを買っています。そして九州に住む息子が来たときにしていたようにきちっと3等分し、毎朝約130グラムのヨーグルトを食べています。
紙の容器はつぶして捨てますが、プラスティックの容器は、ごみ量を小さくするために分解します。


まず真ん中あたりにはさみを入れ、2つに分けます。


次に、縁のきわと底のきわにはさみを入れます。


そして、側面をぶつぶつと切り刻みます。


蓋に縁と底を入れ、切り刻んだ側面を入れます。


2パックを2人で3日かけて食べるので、1日おきに中蓋が出ます。中蓋があるときはそれも重ねて輪ゴムで留めて捨てます。

私の住んでいるところでは、以前はプラスチックは捨てるときには分別していましたが、焼却炉が新しくなってからプラスチックも燃えるゴミになってしまいました。






 

2025年3月31日月曜日

素人のつくった招き猫


友人・知人で、しかも素人のつくった招き猫たちです。


裏方志向さんの招き猫
裏方志向さんは陶芸をなさっていて、招き猫も何体か、しかも大作をつくられているので、素人さんと言っては叱られるかもしれません。


父の友だちがつくってくれた招き猫。
小さいのは香立て、一番大きいのは蚊取り線香が入れられるようになっています。


30年くらい前だったか、実家に行くと招き猫がいて、父が得意そうに言いました。
「友だちがつくってくれたんだ。欲しかったら頼んでやるよ」
「わぁ、欲しいよ」
それから半年ほど経った頃、できたからと連絡があって、いただいてきたものです。


妹のつくった招き猫。
妹は四国の砥部焼きの窯元で職人として7年働き、その後作家として10年ほど焼きものをつくっていたので、やはり素人とは言えないかもしれませんが、あくまで日常使いの食器にこだわって、鉢や皿以外のものはつくらなかったので、招き猫というか用途のないものはこれしかありません。
両親が、誕生祝いか何かでもらったものですが、欲しい欲しいと、さらってきたものです。


息子がまだ小さかったころ、紙粘土で一緒につくった招き猫。
私のつくった猫(左)はありきたりですが、息子の猫はなかなかよくできています。ただ、息子の猫はずいぶん傷んでしまいました。


当時一緒に暮らしていた、濃い色が黒ではなくチョコレート色(珍しい!)だったメャオがモデルなので、背中の模様は二人とも同じです。


topcatさんのつくった招き猫。
これをつくった当時、topcatさんは人形づくりは素人でしたが、この後京都で御所人形づくりの修行をされていて、この張り子の招き猫も、素人裸足の出来栄えです。
2023年の春に、「きつねだるまをつくりはじめて、細々と売っています」というお便りをいただき、それを購入したのがtopcatさんと連絡を取った最後となりました。きつねだるまをブログにUPしたら欲しいという方がいらっしゃって、連絡を取ろうとしたら、Facebookも、したがってMessengerも閉じてしまっていて、連絡を取ることができなくなってしまっていました。e-メールも残ってないし、はがきはとひっくり返してみましたが、修行時代の京都の住所しかありませんでした。


今日、神棚にtopcatさんの狐の絵を上げてあることを思い出しました。
遠目にはただの紙にも見えたのですが、丸椅子を持って来て上ってみると、はがきでした。


きつねの版画の真ん中に刷ってあるのはアマビエ、ということは新型コロナの終息を祈願して彫ったもの、コロナ時代はtopcatさんはすでに京都から飯田に戻っていたはずです。
と、期待しながら裏返してみたら、やはり長野県飯田の住所がありました。はがきには、早くコロナが開けて遊びに行きたいと書いてありましたが、いったいどうして行方不明になってしまったのでしょう?
元気にしていることを願って、これから連絡を取って見ようと思っています。







 

2025年3月30日日曜日

八郷の三大変化

八郷に住んで早24年目、私の人生でもっとも長く住んだ場所となりました。
この20数年、八郷にもいろいろ変化がありました。

目に見える変化は、茅葺き屋根の家がいくつもなくなったことです。

国指定重要文化財佐久良東雄旧宅

今でも茅葺き屋根で頑張っている家もありますが、数えるほどになりました。
かつて、茅の屋根はどのくらいの期間で葺き替えたのか、囲炉裏で火を焚いて常に煙でいぶしていた時代には、茅は乾燥し、虫もつかず20年、あるいは30年も持ったかもしれませんが、家の気密性が上がり、囲炉裏もない今では、葺き替えて2年もすると北側の屋根には苔や草が生え始め、10年もすればあちこち傷んで、放っておけば雨漏りしたりするようになります。
そして、葺き替えようとすると、茅を探すのも刈るのも運ぶのも大仕事、葺き替えのときには、かつてはあった近隣の人たちの助けもありません。
茅葺き屋根保存会が活躍してはいますが、葺き替えは高いものについてしまうので、瓦葺きの家に建て替える人が多く、茅葺き屋根の家はめっきり減ってしまいました。


文化財登録をすると、残すことはできるのですが、住む人は部分的な改築ができず、子や孫に不自由な思いはさせたくないと、壊す方を選ぶのが通常です。
瓦葺きの家も、伝統的なつくりの家は豪壮で見ごたえのあるものですが、それもこの辺りの人たちが文化住宅と呼ぶ、ハウスメーカーの建てる家に建て替えられることが増えてきました。古い世代の人にとっては、りっぱな家を建てることが悲願でしたが、若い人たちは住みやすさを選びます。
最近も築地塀横丁の長屋門のある家で母屋を建て替えて、片流れのモダンな家が建ったのを見て、
「素敵な家ができましたね」
と声をかけたら、
「なに、息子が建てているのだから」
と、長老が恥ずかしそうにつぶやいていました。

さて、すっかり消滅してしまったのは、自宅で執り行うお葬式です。20数年前は、どの家も自宅でお葬式をしていました。


八郷のお葬式の写真がないので、似た写真を、「キヌブログ!」からお借りしました。
家の周りに造花の花輪が10本も20本も立ち並び、同じ集落の人は、1軒から1人以上、必ず3日間は亡くなった人の家に出向いて手伝わなくてはなりません。面識がない人が亡くなったからと手伝いに行かないことは許されず、男性の仕事と女性の仕事両方があり、勤めている人は勤務を休んで手伝わなくてはなりませんでした。
私たちが引っ越ししてきたとき、集落とどうつき合うかお隣のひろいちさんに相談した時、互助組織である「組」に参加するなら、つき合いはすべて参加すること、決してお葬式の義務を怠ってはならないし、それができないくらいなら組に入らない方がいいとの助言を受け、結果「組」には入りませんでした。近所に「組」に入った先輩移住者のYさんが住んでいて、お葬式の手伝いに現れないことがあり、村の人たちはいらいらして、しかしYさんに直接文句を言うことはせず、いつもひろいちさんに伝言を頼み、それが度重なり、ひろいちさんはほとほと弱っていたのです。
お葬式は15年くらい前からか、町のセレモニーホールで行われるようになり、それにしたがって、集落の人々の3日間手伝いも消滅してしまいました。


このところ、路上で軽トラックとすれ違う時「おやっ」っと思うのは、女性(おばちゃん)ドライバーが急増していることです。以前は軽トラックを運転しているのはほとんど男性でした。それに冷房がないので、夏にはみんな窓を開けて走っていました。
おそらく、2021年にスズキキャリーがオートマ車を発売したことで、女性ドライバーが一気に増えたものと思われます。窓を開けて走っている軽トラックもあまり見なくなりました。かつて白一色だった軽トラック、今ではシルバーカラーも普及、そのうちカラフルになるかもしれません。





2025年3月29日土曜日

ビルマの地震


昨日はビルマのマンダレーあたりを震源地とする、マグニチュード7.7の大きな地震があり、バンコクでも建設中のビルが崩壊するなど、両国の死者を合わせると29日の午後に判明しただけで694人、被害が明らかになるにつれ、死者は増え、1000人を超えるだろうと言われています。
私はタイに3年住み、タイとはそのあとの15年ほど、行ったり来たりする深いつき合いをしましたが、地震にあったことは1度もないし、当時はタイで地震があるなんて考えたこともありませんでした。
建物が高層化している今はしっかり耐震対策をしていると思いますが、1990年代くらいまでは、バンコクでは信じられないほど細い鉄筋や鉄骨を使ってビルを建てるのが当たり前で、4階ほどの高いところの壁をつくるのに、鉄筋を入れないでブロックを積み上げているのを見たこともありました。
「あの壁は体当たりしたら壊れるじゃないの!」
と想像してぞっとしましたが、まさか地震があるとは思いもしませんでした。

タイの人々のあいだには、テレビが普及したころから、日本に地震が多いことが知れ渡っていました。田舎で出会った初対面の人から、
「あぁ日本人か。それで、地震てどんな感じ?」
と、いきなり訊かれたこともありました。地面が動くなんて想像もつかなかったのです。

ところが、2014年に、タイ北部でマグニチュード6.0の地震が起こったことがありました。そして今度の地震では、たくさんの死者まで出ました。地球は動いているというか、どこでも地震が起こりうる、地球はじっとはしていないことに驚かされます。
富士山が噴火するという話でさえ、あながち非現実的なことと切り捨てることができないのかもしれません。

まだ明らかになっていないマンダレーの被害が、最小限であることを祈るばかりです。

以下は、1981年にマンダレーに行ったとき、お寺で買い求めた張り子の人形や動物たちです。





張り子の動物たちをぶら下げてお寺を出たところで、地元の男の子から、それをくれないかと声をかけられました。
お寺には1種類ずつくらいしかなかったし、ケチな私はあげられないと断りました。私はもう一生この張り子に出逢うことはないだろうけれど、近くに住んでいる男の子には、また手に入れるチャンスが巡ってくるかもしれません。
あのとき、1つでもあげればよかったかどうか、張り子を見ると思い出したりしますが、年を取った今でもきっと断ってしまうだろうと思われます。
せめて、張り子の代わりにはならないだろうけれど、あげられる飴とかクッキーとかでも持っていればよかったのですが。







2025年3月28日金曜日

組織図を起こしてみた

織物教室は、先生亡き後わからないことだらけですが、堂々巡りしたり、停滞したり、気を引き締めもせずに、最後の弟子の3人で、のんきに続けています。
Kさんは、教室に来たのは私と同じころですが糸紡ぎ歴が長く、細くて均一な素敵な糸を紡ぎます。先日は、こげ茶色の羊毛を紡いで、あまりにも糸がきれいなので、1色で模様織りにしたらということになりました。
ところで、Kさんは先生存命中には平織りの布を1枚織っただけ、亡き後もう1枚織りましたが、それは先生である近藤さんが糸の計算しておいてくれたもので、自分ではどのくらいの量の糸を紡いだらつくりたい大きさのものに足りるか、どう整経(せいけい、織り機に経糸(たていと)をかけること)したらいいのか、Kさんも私も習っていないのです。
私は、ずいぶん前にノルウェーで織りものを習った先生に織物を習ったことがあるのですが、それは糸紡ぎより織りに重きを置いた教室で、基本はノルウェーの市販の糸で織ったので、自分で紡いだ糸の計算はちんぷんかんぷんです。20グラムで30メートルに紡いだ糸と、20グラムで40メートルに紡いだ糸、あるいはいろいろな太さが混じって紡いだ糸(私はいつもこれ)を、どの太さの糸を経糸にしてどの太さの糸を緯糸(よこいと)にするか、それによって、全体の使用量や経糸の密度を計算をしなくてはなりません。

それは糸さえ大目に紡いでおけば適当にごまかせるとして、どれも平織で織るのではなく、いろいろな織り方で織りたいとしても、Kさんには経験がないのでどこから手をつけていいのかわかりません。ところが、私がかつて習った織物教室では、織物がどうやってできるか、まず組織図を描くことから習ったので、少しはKさんに伝えることができます。

灰色に見えるけれど実物は漆黒

というわけで、1色で織るならと、その昔、タイのスリンの織物屋さんで手に入れた、平織りと綾織りの混じった絹織物を出してみました。スリンの村のクメール系の女性たちが、蚕を飼って生糸を紡ぎ、その糸を木の実で黒く染めて、手織り機で織ったものです。


レンズで覗いて見ると、織り目の細かさに改めて感動、目を拾うのが精一杯です。


Kさん自身が織り方を組織図に起こさなければ、いつまで経ってもわからないのですが、Kさんに伝える前にと、試しに私が組織図に起こしてみると一模様が思ったより、大きいものでした。
これでは経糸を上げ下げするために綜絖と結んだ踏み木の踏み方が複雑になるので、もっと単純な織り方を選ぶ必要がありますが、乗り掛かった舟なので、この組織図を完成させることにしました。


経糸(たていと)が見えるところを黒でまずマークして、それから定規で線を引き、塗りつぶすのですが、目がチカチカして、ちょっと油断すると間違えてしまいます。
「あっ、線が曲がった。何だ、物差しが切れている!」
これでは、まっすぐな線が引けません。プラスティックの物差しでカーターを使った人は誰なのか、想像がつきます。


右下あたりの一部だけ、塗りつぶしてみました。全部塗ったら、右下に描いたタイアップから、筬への経糸の通し方(左下)と、踏み木を踏む順番(右上)を描き込まなくてはなりません。
タイアップとは、4枚の綜絖と6本の踏み木をつないだ図で、教室のKさんが使おうとしている織り機はこのタイアップになっています。踏み木を踏んだら、黒く塗りつぶした綜絖が上がるので、織った布の経糸が見えるという仕組みになっていて、真ん中の2本(3と4の踏み木)だけを交互に踏むと平織りができ、いろいろ順番を変えて6本を踏み変えるこ変えることで、無限の模様ができます。


おそらく、こんな単純な織り方に落ち着くのではないかと思われます。
これだと枠で囲って赤く塗ったところが一模様でその繰り返しなので、綜絖通し(左下)は1、2、3、4と単純な繰り返しで、踏み木(右上)も6段の踏み方を繰り返すだけなので、いちいち組織図を確認しないで、そらで織ることができます。

ちなみに、スリンではどうしていたのでしょう?
平織りの綜絖は2枚だけですが、そのほかに模様綜絖を用意して、綾織りを入れるときだけ模様綜絖を使って織っています。


さて、教室では暮れから綴れ織りを続けています。持ち運べる織り機をみんなでつくったので、どこででも織れて、細切れの時間も利用することができる、はずでしたが、家ではほとんど手をつけることがなく、なかなか進みません。


みんなで1枚ずつ織って、こんこんギャラリーで売ってもらって、近藤さんが残した猫のくりちゃんの餌代の一助にしてもらうつもりでしたが、今年に入ってくりちゃんが旅立ってしまい、はっきりした目標がなくなったので、なかなか織り進まないのかもしれません。





 

2025年3月26日水曜日

今起こっていること

以下、映画.comのニュース記事です。

アカデミー賞受賞作「ノー・アザー・ランド」パレスチナ人監督が襲撃される


アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞の栄誉に輝いた「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」で共同監督を務めたパレスチナ人のハムダン・バラル氏が、西岸地区の自宅でイスラエル人入植者から暴行を受け、イスラエル軍に連行される事態が発生した。CNNの報道によれば、映画で描かれた紛争の現実が、受賞からわずか数週間後に監督自身の身に降りかかる形となった。
同作品の共同監督であるバセル・アドラ氏は、バラル氏から西岸地区スーサ村の自宅から緊急の電話を受け、現場に駆けつけたという。到着した際、バラル氏が少なくとも1人の住民とともにイスラエル軍に連行される場面に遭遇したという。
イスラエル人の共同監督ユバル・アブラハム氏は、バラル氏が頭部と腹部に怪我を負ったと述べ、その後連絡が取れなくなったと話している。アブラハム氏自身は事件現場に居合わせていなかった。
現場に居合わせた「ユダヤ非暴力センター(CJNV)」に所属するアメリカ人活動家5人も、イスラエル人入植者から暴行を受けたと話している。彼らの証言によれば、十数人の入植者が棍棒やナイフ、少なくとも1丁の突撃銃を携えて村を襲撃したという。この衝突は、パレスチナ人の家の近くで羊を放牧していたイスラエル人入植者をめぐる争いが発端となったとされる。
「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」は、バラル氏、アドラ氏、アブラハム氏、そしてイスラエル人のレイチェル・ゾア氏の4人が監督を務めた作品で、西岸地区ヘブロン山地のマサフェル・ヤッタと呼ばれるパレスチナ人集落群に対するイスラエル当局の活動を記録している。
映画は子どもたちの遊び場が取り壊される様子や、アドラ氏の兄弟がイスラエル兵によって命を奪われる悲劇、コミュニティが生存のために奮闘する中でのユダヤ人入植者による攻撃などの厳しい現実を映し出している。

同時に、パレスチナ人のアドラ氏とイスラエル人のアブラハム氏の間に育まれた人間的な絆も描かれ、全く異なる環境で生きるふたりが哲学的・政治的に連帯する姿も捉えている点で大きな意義を持つ作品となっている。
今年3月、バラル氏、アドラ氏、アブラハム氏は共に壇上に立ち、長編ドキュメンタリー部門のアカデミー賞を受賞した。パレスチナ人とイスラエル人の共同制作チームによるこの映画は、国際的な注目を集めた。
平和団体「ピース・ナウ」と「ケレム・ナヴォット」の合同報告書によれば、イスラエル人入植者が設立した牧畜拠点の数は紛争勃発以降、約50%も増加しているという。映画が描く問題が、今なお深刻化している現状が浮き彫りとなっている。

本作は第74回ベルリン国際映画祭でドキュメンタリー賞と観客賞をダブル受賞するなど、国際的な映画祭で高く評価されてきた。日本では2月21日にトランスフォーマー配給で劇場公開されている。 CNNはイスラエル軍と警察にコメントを求めたが、現時点で返答は得られていないという。今後の展開から目が離せない。

2025年3月25日火曜日

カンボジアの網漁


『TOOLS AND PRACTICES』(道具と実践、2001年)は、プノンペンの画廊REYUMで、2001年3月に開催された民具の展示会のカタログです。


小さな画廊に籠、木工など生活用具や農具が展示され、そのとき販売されたカタログは、展示されたものの使用法がイラストで描かれ、クメール語と英語の解説が添えられた素敵なものでした。
解説に加えて、巻頭には3つのカンボジアに特徴的な生業(なりわい)やものについての特集がされていました。


それは、ヤシ砂糖づくり、


バナナやヤシの葉で工夫され、バラエティーに富んだラッピング


そして、漁網漁に使われる浮きの3つでした。

当時、農村にかかわっていた私にとってヤシ砂糖づくりは身近なもの、ラッピングも興味深く眺めていましたが、網漁についてはパラパラとページをめくった程度でした。筌(うけ)や魚籠(びく)には関心がありましたが、浮きにも錘にもほとんど関心がなく、特別に気を引かれることもありませんでした。
住んでいたプノンペンはメコン川とサップ川の交わるところですが、都心でもあり、あまり漁業もおこなわれていませんでした。
ところが、今ごろになって『TOOLS AND PRACTICES』を開いてみると面白いのです。
伝統的な浮きは竹でした。


軽くするために、竹の皮は剥いで、木の樹脂を塗って防水しています。木の樹脂とは漆のようなものだと思われますが、激しい使われ方で、あまり防水が効いているようには見えません。
腰にたくさんつけてパルメラヤシに登るので、砂糖をつくるために集める樹液入れも、竹の皮を剥いでできるだけ軽くします。


カンボジアでは雨季と乾季では川の面積が変わり、農業と漁業を兼業している人も多いのですが、こんな立派な漁船を持っているのは、トンレサップ湖周辺の、漁業の方を主な生業にしている人たちだと思われます。
展示会が開かれたのは2001年ですが、プラスティックの浸透で、すでに伝統的な生活は変化しつつありました。


竹の浮きに交じって、プラスティックボトルも浮きとして使われるようになっています。


これは空になったスプレー缶を再利用した浮きです。


浮きと錘をつけた網を使った漁は、流れの浅瀬に仕掛けておくもの、


浮きと網の間を開けて、深いところの魚を狙うもの、


浜で引くもの、


船で引くものなどがあります。


浮きは軽い木でもつくられていましたが、手先の器用なカンボジア人のこと、中には表面を魚のレリーフで飾った浮きもあったそうです(見たかった!)。


ところが、近年はプラスティック製のものに取って代わられているようです。中国製、ヴェトナム製の浮きなどでしょうか? 今ではさらに進んでいることでしょう。