2013年2月1日金曜日



母のお雛祭りの写真です。
ベビーブーマーたちが生まれたころ、大きな御殿飾りが流行りましたが、母が小さいころ、大正の末期にも御殿飾りがあったのですね。
母も、ときどきお雛さまのことを気にしていましたが行方知れずで、もちろん私は、このお雛さまや市松人形を見たことがありません。
当時のお雛祭りは旧暦ですから、1924年4月、母は一歳半くらいでしょうか。

一月半ばに、私からの電話を取ろうとして、足がもつれて転んで大腿骨を骨折していた母が、水曜日に手術しました。
血糖値が高くて、すぐには手術できなかったのですが、手術しなければ寝たきりになるのは間違いなく、もうすぐ90歳という高齢ながら手術できる日を待っていました。


実は、母の身内には、年老いても元気で、自分の元気を過信し過ぎたために亡くなった方が多くいます。例えば母の祖父、どこも悪くなかったのですが、床を毎日磨きすぎて、滑って転んだのがもとで亡くなりました。母の叔母は、80歳過ぎても、雨の日には高下駄をはいて走るように歩いていたのを覚えていますが、やはり転んだのがもとで亡くなりました。
足を痛めたのではありませんが、この写真に写っている母の父は、80歳近くになって、原付で急いでいて、曲がり角を曲がり切れず、信号で停止していたトラックの脇腹に激突して亡くなりました。
写真の中央に立っているのが母です。

そんなこんなを考えると、母も落ち込んでいるのではないかと心配していましたが、
「こんなに長く入院するのは初めてだわ」
と、一向にめげたふうではありませんでした。

私は、風邪を引いたりして手術前後は見舞うこともできませんでしたが、手術の翌日、どんな具合かと、つき添っていた妹の携帯に電話をしてみると、 思いがけず母が電話口に出て、手術の模様を話してくれました。

「まず、皮膚を開くのよ。お肉はそうね、トレイみたいなものにどんどん入れて、骨を裸にするの。骨には添え金を止めたりして、折れたところが動かないようにするでしょう。そうしたらお肉を戻したのよ。 どんどん戻して、穴が開いたようなところがあったら、そこにもお肉をつめて、それで皮膚をかぶせたの。皮膚って伸びるのね」

げっ、まさかお医者さまがそんなことをしたとは思えませんが、局部麻酔だったので、耳に入ったこと、少しの事実、抑えがたい好奇心、恐怖や想像などをないまぜにしたら、いつのまにかこんな情景ができあがったようでした。
たぶん、妹にも、弟にも同じことを話し、今度お見舞いに行ったら私たちにまた同じことを話し、これが事実として母の頭に定着して行くのでしょう。

人は誰でも、多かれ少なかれ、起こったことを自分の都合のいいように解釈したりするわけですから、年を取って、それがだんだん極端になっていったからといって、驚くには値しませんが、
「痛いからそっと動かしてと言ってるのに、看護婦さんにわざと乱暴にされた」
などと、病院のベッドの上で大声で不信感を口にしているのは、わが母ながら、困ってしまいます。
昔は、人の立場を考える、慎み深い人だったのですが。


写真は、ずっと前に母が身辺整理をしたときに、焼いてくれと頼まれた荷物にはいっていたのを、取っておいたものです。何冊もアルバムは焼いてしまいましたが、少しだけ、私も小さい頃親しんだ写真や、初めてみるけれど珍しい写真(ラヂオ体操の写真とか)は取っておきました。

ついでに父の写真もないかとさがしたら、出てきたのはこれだけでした。父が年頃になってからの写真はまだ母の手元にあるのでしょう。左が父で、右は戦死した父の従弟です。

さて、母の術後の回復はリハビリに左右されます。
心は直す気満々でも、文句ばかり言って身体を動かさないと、ただでさえ不自由だった足がもっとだめになります。
しっかり治してくれることを祈るばかりです。

9 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

その時代その時代を精一杯生きた記録ですね、
戦災で全部焼失しましたが父母の結婚写真が埼玉の親戚にあり頂きました。
(大正12年)
 写真館の写真はシクラメンですか。
男の子はランドセル・女の子はオカッパ
懐かしいです。

さんのコメント...

昭ちゃん
シクラメンはずいぶん昔からあったのですね。びっくりしました。というのも、小さい頃、見たことがありませんでしたから。
家族写真の母のセーターにローマ字が見えるのもおもしろいと思いました。
ランドセルが懐かしいですか?私が小さい頃はランドセルがなくて、あり合わせのカバンを使っていました(笑)。
ご両親の結婚写真は宝物ですね。母のお雛さまもたぶん空襲でなくなったのだと思います。

hatto さんのコメント...

お母様、リハビリ上手くいくとよいですね。春さんのお母様らしくどっしりしてて気丈なお方ですね。昭和10年生まれの父が2年前に大病し、一命をとりとめたもののやはりリハビリが大切だといわれ術後、それだけで一カ月の期間を要しました。ベッド生活がこれほどにも脚力を失うものかと涙がでました。医者曰く、退院してからが大事なのだそうです。毎日歩けと言われています。しかし、これが夫婦喧嘩のもと。父が寒い日に歩いたり、帰りが遅かったりすると(心配性な母はGPSでいつも父の居場所を確認)母が何かと父に文句をいい、それだけで収まらず私に愚痴攻撃です(笑)←大型バッキュウムカーが必要。お母様、どうぞお大事になさってください。

この時代にテニスで(しかもちゃんとしたテニススタイルで)遊ぶ子供の写真はなかなか見かけません。都会的で育ちの良い、裕福な暮らしが窺われます。
2枚目の写真にみられる、セーラーのデザインは、水兵さんだけでなくこの時代にすでにニット服で、女の子のものにも使われていたのですね。日本髪を結われた頭にどんな簪が付けられていたのか後ろに回って見てみた気がします。着ておられる着物は絹でしょうか。光沢が綺麗に映っていますね。

私の両親の生家にある写真をみると、床の間で結婚式の記念写真を撮ったものなどは目がくっきりと加筆がしてあり、本人とは違った顔になっています。うっすら色を挿したものなどは、どうやって入れるのでしょうか?
印画紙に、後から筆で描くと水分で膨れ上がったりしないのか。色々気になります。

昔の写真は、とても楽しいです。春さん、また載せてくださいね!

さんのコメント...

hattoさん
身寄りのない叔母(祖母の妹)を看病したとき、母が「病院に入ったとたん我儘になった」と言っていましたが、母もその口です(笑)。
それまで、とてもしっかりして、我慢強かったのですが、入院後怪しくなって、最近は時折、しかし繰り返し「お寺の病室に監禁されている」という妄想に囚われて(笑)、夜騒いだりするようです。
ただ、手術前は痛いからと頑として乗らなかった車椅子に、今日は長時間乗れたようで、二週間後には退院できそうです。
まあ、自宅に帰れば、また落ち着いてくれることを祈っています。
家族写真は、今頃気がつきましたが、母の兄以外は子どもたちは皆毛糸のセーターを着ているよう、祖母の手編みでしょうか。
祖母の簪は知りませんが、髷に着ける小さな縮緬の布はたくさん残っています。

hatto さんのコメント...

簪の着ける縮緬(手絡でしょうか)も大切に残っているとは!昔は、この縮緬の色で年齢などがわかったと聞きます。簪は、地位によってさす位置が違ったとか、もっと昔、簪は魔よけの意味があったそうです。

妄想で暴れたりは父もありました。高齢者にはよくあることと聞きましたが、治療の妨げになるということで器具でベッドに結び付けれた姿が見ていて非常に辛かったです。帰宅してからは日をかけ徐々に精神状態も安定しましたよ。

さんのコメント...

hattoさん
そうそう、何と言ったかなぁと思っていましたが、手絡と言いましたね。母が何かにしようとしたのが、つないだまま残っています。薄桃色とか藤色などです。
昔、祖母を訪ねたとき、焼け残ったお蔵から手絡を出してもらって、ネギ坊主に着せたりして遊びました。
懐かしいです。

昭ちゃん さんのコメント...

 よこレスごめんなさい。
写真館の写真はフイルムではなくガラス板に
薬が塗布されていますので写真師が電気の下で修正します。
明治時代の絵葉書でも色をつけて印刷ですね。
フイルムより大きいので眉毛や手の甲も美しく加工します。
だから写真師です。

さんのコメント...

昭ちゃん
ありがとうございます。「あれっ、今日はきれいに撮れているなぁ」くらいならいいけれど、別人になっているのは、やりすぎでしたよね。
私も、親戚の結婚式のなんていうのか、三々九度のお酒を注いだりする役をやった時の子ども時代の写真で、どこから見てもよその子のようなのがあります(笑)。

hatto さんのコメント...

昭ちゃんさん、色つけしたり、目をくっきり線をひいたり、、、そういう作業をガラス板にするのですね? そして、それを印画紙に写すとカラー写真っぽくなる、、って事ですか?