ヤフーオークションで、これまでにこけしを手に入れたことは一度もありませんでしたが、ときおり入ってくるニュースレターに、こけしが紹介されていることがあります。
いつもは、ろくに見もしないのですが、あるとき土湯系の「たこ坊主」と呼ばれるこけしがセットで出品されていました。ユニークなたこ坊主にはちょっと関心がありました。出品されていたのは岩本芳蔵さんのこけしのセットと瀬谷重治さんのこけしのセット、出品者は同じ人で、終了日も同じでした。
岩本芳蔵さんのこけしは5本セット、瀬谷重治さんのこけしは13本セット、落札するなら、物理的にも金銭的にもどちらかに絞る必要がありました。どちらかと言えば、目の周りの赤い瀬谷さんのこけしの方が好みなのですが、瀬谷さんのセットは13本もあること、大きいものは37センチもあることが気になるのと、岩本芳蔵さんは人生が面白い(失礼!)ので岩本さんに的を絞り、めでたく手に入れることができました。
岩本芳蔵は明治45年(1912年)、栃木県鹿沼で、岩本善吉の次男として生まれました。
小学生のころから轆轤(ろくろ)を挽いていましたが、小学校卒業後、父の善吉に師事して生地の本格的な修行を開始し、盆や茶壷を挽きました。
16歳のとき、仕上げを善吉に見てもらうと、
「もう少し削れ」
と言われ、削っているうちに穴が開いてしまいました。
「音でわからんのか」
と善吉は激怒し、芳蔵の頭を鉋で殴りました。
ブチ切れた芳蔵は家を飛び出し、一晩中飲んで騒いで、翌日ふらふらと帰宅すると荷物が行李に詰められていて、日光の木地師宛の依頼状が添えてあり、家を追い出されてしまいます。まず東京に出た後、日光、塩原など転々とした後、芳蔵は箱根におちつきました。
箱根湯本の工場では、けん玉を1日に550個挽きました。通常、熟練の職人でも1日に400個挽くのが限界なのに、芳蔵は恐ろしく速いうえ、玉が真ん丸だったので評判になりました。
17歳になった芳蔵は中ノ沢に戻りました。しかし、父の善吉から、
「絵つけを学んでこなかった」
と追い返され、箱根に舞い戻りました。
結婚して長女も生まれ、21歳のとき再び中ノ沢に戻ってくると、
「日焼けもしていない白い手をした者には家の敷居をまたがせない」
とまた追い返され、やむなく土方をしたり営林署の仕事をしたりした後、家に帰りました。
善吉から、
「家の敷居をまたぐなと言ったのに、なぜそこにいる?」
と詰問され、
「足を揃えてぴょんと飛んで入ったので、敷居はまたいでいません」
と芳蔵が答えると、善吉は笑い、やっと帰宅を許されたそうです。
岩本善吉は、息子であり弟子である芳蔵に、
「絶対人のものをまねするな」
と、善吉型のこけしをつくることも禁じ、自分独自のこけしをつくるよう、厳しく言いつけます。
芳蔵が善吉のもとでこけしをつくるようになって1年後、昭和9年(1934年)に父の善吉は56歳で亡くなりました。そのとき芳蔵は23歳でした。
芳蔵は父の言いつけを守り、自分のこけしづくりを模索しながら、こけしだけでは食べられず、中ノ沢のほかの工人の木地下を挽くことで生計を立てました。
戦後、昭和30年代から、第二次こけしブームが訪れました。ブームのさなか、こけし蒐集家の小野洸の勧めもあり、芳蔵は、善吉型こけしの復元をしました。
これを機に「たこ坊主」は戦後こけし業界の一大ムーブメントとなり、芳蔵に弟子入りする工人も増えました。瀬谷重治、荒川洋一、三瓶春男、柿崎文雄、渡辺長一郎、斎藤徳寿、福地芳雄などたくさんの工人がたこ坊主をつくるようになり、「たこ坊主会」が結成されたほどでした。
時代の需要とはいえ、父善吉の教えを破って復元を決断したことにより、たこ坊主は世に生き続けることができましたが、芳蔵の気持ちはどうだったのでしょう?
昭和46年(1971年)、芳蔵は62歳で生涯を閉じています。芳蔵には姉が2人、兄が1人、妹が4人、弟が2人いましたが、男子で比較的長く生きたのは、芳蔵だけでした。
そんな岩本芳蔵さんのたこ坊主たちです。
さて、たこ坊主を創作した岩本芳蔵さんの父の善吉さんはどんな人だったのでしょう。
明治10年(1877年)、善吉は栃木県宇都宮の呉服商岩本芳蔵(孫と同じ名前)の次男として生まれましたが、幼少期に親戚の芸妓屋の養子となりました。長じるまで各種遊芸に熱中する生活でしたが、18歳のとき実兄の死で実家に呼び戻されました。呼び戻されたものの放蕩三昧、とうとう25歳の時家を飛び出してしまいました。
トンボ返りの曲芸を得意としていて、芝居の一座では一輪車に乗ったりもしていました。
家を飛び出したあと、善吉は東京に出て、浅草で木工の旋盤を習い、椅子や飯台の脚などを挽きました。その後、鹿沼に移り紡績管を挽いて大いに儲け、工場を新築して職人や弟子を多数抱えましたが、大正に入ってから不況で事業は不振になりました。
余談ですが、紡績管とはこのようなものだったのでしょうか?
各紡績会社で使われていたものですが、手で挽いたものだったとは知りませんでした。
その後、野地温泉で加藤屋の佐藤嘉吉と出会ったことで、善吉は土湯系のこけしづくり知りました。大正12年(1923年)には、中ノ沢に轆轤を据え、昭和初期の51歳のころからこけしをつくりはじめました。
中ノ沢に移っても善吉の奇行はやまず、芝居や踊りがうまく、善吉の逆さかっぽれは中ノ沢の名物でした。この足踊りのときに股にはさむ張り子に描いた顔が、善吉こけしの顔の原型といわれています。
善吉は、芸事も巧みでしたが、こけしづくりも巧みでした。
残っているこけしの中には、売れないからとどんどん焚火にくべているのを見て、収集家が譲り受けたのもあるとか、どれも人の真似を嫌って、独自の境地を開いたこけしです。
中ノ沢のたこ坊主も含めて土湯系のこけしを見ると、胴が細くて立てておくとちょっとした地震でも倒れてしまいそうです。
たぶん飾るためではなく子どもが持って遊ぶためにつくられたものでしょう。手に持つとバランスよく手に馴染みます。
「絵つけを学んでこなかった」
と追い返され、箱根に舞い戻りました。
結婚して長女も生まれ、21歳のとき再び中ノ沢に戻ってくると、
「日焼けもしていない白い手をした者には家の敷居をまたがせない」
とまた追い返され、やむなく土方をしたり営林署の仕事をしたりした後、家に帰りました。
善吉から、
「家の敷居をまたぐなと言ったのに、なぜそこにいる?」
と詰問され、
「足を揃えてぴょんと飛んで入ったので、敷居はまたいでいません」
と芳蔵が答えると、善吉は笑い、やっと帰宅を許されたそうです。
岩本善吉は、息子であり弟子である芳蔵に、
「絶対人のものをまねするな」
と、善吉型のこけしをつくることも禁じ、自分独自のこけしをつくるよう、厳しく言いつけます。
昭和11年ごろの芳蔵のこけし。旧小野洸コレクションより |
芳蔵が善吉のもとでこけしをつくるようになって1年後、昭和9年(1934年)に父の善吉は56歳で亡くなりました。そのとき芳蔵は23歳でした。
昭和16年の芳蔵さん |
芳蔵は父の言いつけを守り、自分のこけしづくりを模索しながら、こけしだけでは食べられず、中ノ沢のほかの工人の木地下を挽くことで生計を立てました。
戦後、昭和30年代から、第二次こけしブームが訪れました。ブームのさなか、こけし蒐集家の小野洸の勧めもあり、芳蔵は、善吉型こけしの復元をしました。
これを機に「たこ坊主」は戦後こけし業界の一大ムーブメントとなり、芳蔵に弟子入りする工人も増えました。瀬谷重治、荒川洋一、三瓶春男、柿崎文雄、渡辺長一郎、斎藤徳寿、福地芳雄などたくさんの工人がたこ坊主をつくるようになり、「たこ坊主会」が結成されたほどでした。
時代の需要とはいえ、父善吉の教えを破って復元を決断したことにより、たこ坊主は世に生き続けることができましたが、芳蔵の気持ちはどうだったのでしょう?
昭和46年(1971年)、芳蔵は62歳で生涯を閉じています。芳蔵には姉が2人、兄が1人、妹が4人、弟が2人いましたが、男子で比較的長く生きたのは、芳蔵だけでした。
そんな岩本芳蔵さんのたこ坊主たちです。
さて、たこ坊主を創作した岩本芳蔵さんの父の善吉さんはどんな人だったのでしょう。
明治10年(1877年)、善吉は栃木県宇都宮の呉服商岩本芳蔵(孫と同じ名前)の次男として生まれましたが、幼少期に親戚の芸妓屋の養子となりました。長じるまで各種遊芸に熱中する生活でしたが、18歳のとき実兄の死で実家に呼び戻されました。呼び戻されたものの放蕩三昧、とうとう25歳の時家を飛び出してしまいました。
トンボ返りの曲芸を得意としていて、芝居の一座では一輪車に乗ったりもしていました。
家を飛び出したあと、善吉は東京に出て、浅草で木工の旋盤を習い、椅子や飯台の脚などを挽きました。その後、鹿沼に移り紡績管を挽いて大いに儲け、工場を新築して職人や弟子を多数抱えましたが、大正に入ってから不況で事業は不振になりました。
余談ですが、紡績管とはこのようなものだったのでしょうか?
各紡績会社で使われていたものですが、手で挽いたものだったとは知りませんでした。
その後、野地温泉で加藤屋の佐藤嘉吉と出会ったことで、善吉は土湯系のこけしづくり知りました。大正12年(1923年)には、中ノ沢に轆轤を据え、昭和初期の51歳のころからこけしをつくりはじめました。
中ノ沢に移っても善吉の奇行はやまず、芝居や踊りがうまく、善吉の逆さかっぽれは中ノ沢の名物でした。この足踊りのときに股にはさむ張り子に描いた顔が、善吉こけしの顔の原型といわれています。
善吉は、芸事も巧みでしたが、こけしづくりも巧みでした。
残っているこけしの中には、売れないからとどんどん焚火にくべているのを見て、収集家が譲り受けたのもあるとか、どれも人の真似を嫌って、独自の境地を開いたこけしです。
中ノ沢のたこ坊主も含めて土湯系のこけしを見ると、胴が細くて立てておくとちょっとした地震でも倒れてしまいそうです。
たぶん飾るためではなく子どもが持って遊ぶためにつくられたものでしょう。手に持つとバランスよく手に馴染みます。
2 件のコメント:
昔は家を飛び出すのはよくあることだったんですね(笑)。善吉さん、ハチャメチャ過ぎる!
hiyocoさん
善吉さん、見ている分には楽しいけれど家族だったらうんざりですね(笑)。芳蔵が生まれた時も芝居でどこかに出かけていたようです。
でも、その独創性とか、つくったものをどんどん燃やしていたとか、面白すぎます。芳蔵がけん玉を550個も1日につくったというけれど、善吉さんならもっと作ったのかしら?お化けみたいな人に見えます。
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