1970年代、私の祖母は倉敷で一人暮しをしていました。
母は足しげく訪ねていましたが、私が夫や息子たちと祖母を訪ねることができるのはお盆休みとお正月休みくらいでした。
あるとき、祖母の家に両親や妹たちも集まっていた時だと記憶していますが、廃校になった小学校の椅子を処分するので、欲しかったら持っていいという話を聞き、みんなで行ってもらってきたことがありました。
祖母の家は農村地帯にあり、小学校は丘の上にありました。小さい頃、祖父母と暮らしていた私は、その小学校を卒業し、弟も四年生くらいまで通いました。
さらに昔々、祖母はその小学校で教師をしていたことがあり、父も父の妹もその小学校を卒業しました。
児童数は、父の時代から私の時代まで、多少の増減はあったものの、そう大差はなかったことと思われます。私の時は一学年一クラスだけ、51人もいました。
ところが、少し離れた水島が工業地帯になって以後、じわじわとベッドタウンが拡大してきて、1970年代になると祖母の住んでいたあたりにも新しい家が増え、子ども数も増えてきました。
建物にも運動場にも段差があり、木造校舎を建て替えるための敷地もないほどの小さい小学校は見捨てられ、丘の下に体育館もプールもある、コンクリートの新校舎が建設されました。
それは日本国中が大きな変化を遂げていた時代でした。
新しい器には新しい備品をというわけで、古臭い木の椅子は見向きもされないものでした。
そのとき、私は息子が二人いたので椅子を二つ貰ってきました。そして、六、七年前にもう一客増えました。身辺整理をした母から、譲り受けたものです。というか、母にも愛着があったようでしたが、貰って来てしまったものです。
椅子たちは、土間入口をあがったところに並べてあります。来客があると、この椅子は黙っていても持ちもの置き台になります。
椅子のうしろは、一段高くなっているので、犬が段差を飛び降りて脚や背骨を痛めないよう、なにか柵をつけようと思いつつ、とりあえず置いておいた椅子が、今でも犬をガードする役割を果たしています。
わりと背が低いので、低学年用だったものと思われます。
脚の下には橇のような板がついていて、座面はひざの後ろでちょっと高くなってから低くおじぎして、身体に沿うようにつくってあります。
木は松でしょうか、頑丈な、見かけよりかなり重い椅子です。
小学生の頃、なにか学校全体の催しものがあるときは、全校生徒がそれぞれに椅子を持って、校舎より一段と高いところにあった講堂に、傾斜した渡り廊下を通って集まりました。低学年が運ぶには重すぎるので、上級生が手伝ったかもしれません。普段は人けのない講堂に集まる高揚感が、今でもかすかに思い出されます。
釘も、頭が丸くなった釘で、衣類がひっかかったりしないよう配慮されています。
もしかしたら大正時代から使われていた椅子かもしれません。
小学校の椅子を持っている方はたくさんいらっしゃると思います。でも、自分の出身校の椅子を持っている人となると、そう多くはないのではないでしょうか。
6 件のコメント:
私は昭和13年度卒業です。
なかなか細部の工夫がある椅子ですね、
帰る時間には机の上に反対に伏せますが、忘れると罰当番でした。
机も良かったですね、
硯を入れる引き出しと蓋を反すと粘土細工用になります。
昭ちゃん
椅子を机の上に伏せて置いたのですか?掃除しやすいようにってことでしょうね。それはしなかったと思います。
上履きもあるのに、どうして小学校の床って泥だらけだったんでしょうね。児童が掃除もやりましたから、床のぞうきんがけは大変でした。
机は、上面がちょうつがいで上に開くスタイルではなかったかしら?形はうろ覚えですが、机の高さが微妙に違い、隣とそろってなかったり、ガタガタするのもあって、悪い机にあたったらがっかりしました。あれっ、小学校は二つつながった机だったかしら?(笑)。黒板に向かって並べず、グループをつくって机を島にしたまま授業を受けたこともよくありました。
机には彫り込み(いたずら書き)もありましたね。読むのが好きだったりして(笑)。習字はたしか、水の出る理科室だったか、習字専用室だったかでやりました。
机の蓋は「はめ込み」なのですぐ裏に返せましたし
二人用でしたよ、
いまだにナイフで鉛筆を削るのと、木の匂いが好きです。
昭ちゃん
よく覚えていますね!
私もじゃあ、小学校は二人机だったのかな?小学校の机と中学の机、高校の机までごっちゃごちゃです。中学は転校もしたし...。
試験の前に剃刀のナイフで鉛筆を削ると、妙に心が落ち着きましたね。削りかすは要らない紙に包んで捨てた気もしますが、それも床には飛び散っていたでしょうね(笑)。
私も、二人机(木製)でした。椅子もこれとほぼ一緒ですが、太股のあたる部分が一か所下に傾斜ついてますね、これのほうが足が楽ですね。考えてあります。私の椅子はこうはなっておらず同じつら合わせでした。やはり掃除の時間は、机の上に椅子をひっくり返して乗せました。それが重たいこと、、、。机も椅子も重い!教室当番は大変でした。外掃除は楽だったので人気でしたね。書道も図工もこの木製机でした。絵の具も筆洗バケツも雑巾も置いて今思えばあんな狭い机でよく描けたものです。
hattoさん
私もだんだん二人机だったような気がしてきました(笑)。そう、教室も机も狭かったですよね。高学年になったら、後ろの壁につきそうだったのではなかったかしら。でも大勢のクラスはよかったです。一人ぐらい何していても目立たなかったりして(笑)。
図工だけの先生が赴任したのは確か5年生くらいでしたか。それまで習字だけは教頭先生、あとは担任の先生が何でも教えていたので、絵の時間はたいてい校庭で写生、思い思いに座って、木の写生などしていました。桜の木など、うまいって言われた人のをみんなでまねたりしていて(笑)。のんびりしていましたね。
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