2015年6月18日木曜日

久米の赤物


郷土玩具に特徴的な色と言えば、やはり「赤」でしょうか。
江戸時代の赤は、前右の犬の前垂の朱色や、奥の獅子舞の赤褐色などでした。自然の中にある材料からだけ色を得られる時代から、化学的にいろいろな色が得られる時代になって、緋色は一気に華やかになります。
さまざまな赤は、郷土玩具のつくられた時代を知る、一つの指標にもなっています。


おもちゃに赤を使うと華やぎますが、赤は特別な色でもありました。
江戸から明治にかけて、子どもが疱瘡に罹ると、その枕元を赤いもので埋め尽くして、治癒を願いました。
右側の三つは埼玉県鴻巣の練物、鼻の欠けた熊金(熊にまたがる金太郎)は鴻巣の古作、左手前のイノシシにまたがる金太郎は、産地を忘れましたが土人形です。

練物とは、木くずを膠で固めて、乾かしてつくるもののことです。
かつて下駄の産地であった中山道の鴻巣では、下駄の廃材の桐を利用して練物をつくり、大消費地の江戸に近いこともあって、練物、特に疱瘡よけの赤物の練物の一大産地としてにぎわいました。


これは、岡山県久米郡の土人形、岸川武士(1901-1986年、明治34-昭和61年)の赤物です。

久米の土人形は、文化年間(1804-18年)に、農業の副業として伏見人形をもとに創始されたとされています。
全盛期の明治時代(1868-1912年)には、9軒の人形師がいましたがやがて衰退し、昭和初期には、岸川武士の家、ただ一軒が残りました。
武士の死後、一緒につくっていた妻の留代が跡を継ぎましたが2000年に死去、200年続いた久米土人形は廃絶しました。

岸川武士の活躍した時代には、疱瘡の平癒を赤物に託すという時代は終わっていたはずですが、当時でも需要があったのでしょうか?
面白いのは、鴻巣の赤物との類似性です。


左が鴻巣の鯛金、右が久米の鯛金です。


後ろ右は鴻巣の古い熊金、後ろ左が久米の熊金、前は最近の鴻巣の熊金です。
久米の土人形は、鯛金も熊金も鴻巣の練物とそっくりです。

鴻巣の練物は、関東では高い評判を得ていましたし、郷土玩具の名品でもありました。
その評判が遠く岡山にも届いていて、久米でも伝統的に鴻巣の赤物に似たものをつくっていたかどうか、参照できる資料は全くありません。

以下は私の勝手な推測です。

岸川武士は、大正から昭和初期にかけて土人形をつくっていましたが、戦争の激化によってそれどころではなくなり、農閑期に少しつくるか、あるいはまったくつくらないという状態が、戦後15年くらいまで続いたのではないでしょうか。

私は子どもの頃、久米と同じ岡山県の倉敷に住んでいました。
中学生のとき倉敷を離れ、以後東京で暮らしましたが、学生時代に友人たち二人と北陸・関西を旅行したさい、倉敷にも行きたいという二人を同行して、祖母の家に寄りました。
そのとき一緒だった、私の郷土玩具収集のきっかけをつくったさっちゃんが、倉敷張り子の制作者の家を訪ねたいと言うので行ってみると、なんとその家は、以前訪れたこともある、同窓生の家だったのでした。

私が倉敷に住んでいたころは、町の掘割のあたりはいつも閑散としていて、大原美術館には誰も訪れる人もなく、美術館に遊びに行くと、ひがな一日名画に囲まれてのんびりしていることができるところでした。
ところが、わずか十年ほどで、様子は一変して、掘割のあたりには、『アンアン』や『ノンノ』などを手にした人たちが溢れていて、美術館の絵は他人の肩越しにしか見えないほど、混み合っていました。

その張り子制作者の家も、かつては普通の農家でしかなかったはずなのに、そのときはつくった張り子が並んでいました。
郷土玩具が求められる時代が到来したので、冬場だけ細々とつくっていたものを再開したようでした。
そのことから、久米の土人形も似た状況だったのではないかと思ったのです。

もう一つ、そう推察する理由があります。
郷土玩具がわりと網羅されている、西沢笛畝の『日本郷土玩具事典』(岩崎美術社、1972年)に、久米土人形の記載がまったくないのです。
そのことから、久米土人形は、『日本郷土玩具事典』が編纂される前には衰退していたものの、それ以後、民芸品などのお土産ものの需要が増したことによって、本格的に制作が再開されてのではないかと推察したのです。

この岸川武士の赤物は、最晩年の作と聞いています。
誰かの持ちこんだ鴻巣の練物をお手本にして、生活にゆとりが出てきてからちょっとつくってみたとなると、たたずまいがそっくりなのがうなずけます。

もっとも、久米を訪れたことはないし、あくまでも推測にすぎません。








2 件のコメント:

kuskus さんのコメント...

生き生きとした線や力みなぎった腕のみごとさをみると、どちらが
お手本になったかは明らかですね。
でもたどたどしい線や作為のない顔の熊金もかわいい。
獅子を冠った童も可愛らしいなぁ。
きっと安価でたくさん作られたと思うのに、それほど目にしないのは
子供が遊び壊してしまったからでしょうか?

さんのコメント...

kuskusさん
久米人形はあまりにへたくそな線に、これが土人形を生業としていた人かと思ってしまいますよね。もし若いころ出逢っていたら、「なんだこれ」と思って引いたかもしれませんが、年とると楽しめる余裕が出てきました(笑)。
土人形は、関東大震災とか、各地の空襲で、たくさん焼失したようですが、それでもわりと残っている方だと思います。子どもが壊すだけでなく、昔は火事も多かったので失われたのでしょう。
千葉の方に、江戸時代の土人形の一大収集家がいます。親の遺産を全部つぎ込んで集めたらしい素晴らしいコレクションを、一度拝見したことがありますが、萱葺きの家で火事を出して、すべて燃えてしまったそうです。茫然としたことでしょうね。八年くらい前かな。それでも、彼は元気を取り戻しているようで、しばらく前には本を出していました。
そうそう、練物は、たいていネズミに喰われてなくなっています。ネズミだけでなく、木喰い虫とかも棲みついて、始末に負えない代物です。ネズミもいろいろな人形を失うのにずいぶんと力を貸してきたのではないかしら(笑)、昔の家は防ぎようがなかったしね。