hiyocoさんから、「傘のろくろとはいったい何かしら?」と調べていて、岐阜のエゴノキプロジェクトを知ったというコメントをいただきました。ごく最近、エゴノキをみんなで伐ってきたばかりだと書いてあったので、中心的に活動しているKさんのFacebookを覗いてみました。
すると、エゴノキプロジェクトの記事がたくさんありましたが、Kさんも昨日(fbを書いた時点)知ったという報告書、神戸芸術工科大学の安森弘昌さんが2007年にまとめられた、新子(あたらし)薫さんの杓子づくりの報告書を紹介していました。
公開されているものではあるし、とても興味深いので、私も転載させていただきたいと思います。
それは、『生成りの造形、生地師の聞き取り調査から』 という9ページの報告書で、2006年に、奈良県吉野郡大塔村(現在の五条市)に住んでいた、新子薫さんに密着して、栗の木の杓子づくりの一部始終を記したものです。 報告書をまとめた安森さんは「おわりに」で、新子さんは弟子を取らない、なぜなら杓子をつくる技術を覚えても、道具をつくる鍛冶師がいないからだとおっしゃったと書いてあり、転載したKさんも、「現在大塔村では誰も杓子をつくっていないようだ」と書いているのですが、お孫さんの光さんは、どうしていらっしゃるのでしょう?薫さんは2012年3月に亡くなられましたが、お孫さんの光さんがあとを継いだはずです。 さて、些細な話ですが、「はじめに」で安森さんは、新子さんを山中で生活した「最後の木地師」と書かれています。それでいて2ページで、木地師の定義に「大辞林、第二版」を引用していて、大辞林では木地師は轆轤を使う人と限定されています。 【木地師】:轆轤(ろくろ)を使って椀や盆など、木地のままの器物を作る職人。かつては良材を求めて山から山へと渡り歩いていた。明治以降、急減。木地屋。木地挽(び)き。轆轤師。「大辞林、第二版」(三省堂)
報告書の中での木地師の使い方が矛盾していますが、安森さんが新子さんを「木地師」と呼ぶ気持ちもよくわかります。
ここからは、まったくのあてずっぽうですが、私見を述べてみたいと思います。
轆轤は、早くに手動から電動に取って代わりました。それにつれてノミなどの道具もそれなりに改良されたり、近代的な工法で機械でつくられるようにもなりました。
その轆轤細工に比べると、刃物は多少甘くても、農家の副業などでもつくれた杓子づくりは、特殊な道具を使う仕事ゆえ、鍛冶屋の減少とともに道具が手に入りにくくなる、加えてアルマイトなどの安い杓子が出回って需要が少なくなるなどの相乗効果で、消えていった。そのため伝統的な木地師としての生活が、轆轤を使った木地師より長く残ったのが杓子をつくる工人たち(この場合は新子薫さんだけ)だったのかもしれません。
どうか、光さんに杓子づくりを続けて欲しいものと思いますが、ネットで検索してみると、新子光さんの古い記事は見つかりますが、最近の記事は見つかりません。私の検索が未熟なだけだといいのですが。
さて我が家では、カレーなどを取り分ける杓子として、大きすぎない、小さすぎない、深すぎない、浅すぎない、柄が長すぎない、柄が短すぎない、新子薫さんの杓子は最高で、ついつい手が伸びてしまいます。
2 件のコメント:
報告書、とてもとても面白かったです!確かに木地師の定義として「轆轤を使って」とあるのに、杓子作りに轆轤が使われないのはハテナですが(笑)、木地師学会が「椀、盆、しゃもじ」と言っているのでOKなんでしょうかね(笑)。新子さんの生活は木地師そのものですし。
木から割り出して型紙もないのに同じ形に仕上げるのがスゴイ!それも一日100個作って一人前とか、どれだけ作っていたんでしょう。それだけ杓子の需要もあったということですよね。
栗の杓子は使っているうちにタンニンと鍋の鉄分が融合して柿渋のようになるというのも興味深いです。
Kさんの名前は初めてじゃないなぁと思っていたら、椅子や木の匙の時に既に紹介されていたんですね~。
hiyocoさん
何回も新子薫さんで検索したことがあったのに、この報告書は一度もヒットしませんでした。興味深いですね。
最初、薫さんが身体を壊されたときに、習いたいと言った若いお孫さんに教えても、同じ形につくれないから売り物にしないと言っていたそうですが、性質が違う木もあるだろうに、同じ形をいつも彫り出すなんて人間はどれだけの可能性を秘めているのかと、改めて今では消えてしまった人間の能力に驚かされます。
新子さんの杓子は、この世にどのくらい残っているのでしょう?
日に100本、年間200日つくって60年。半分が失われたとして、まだ600,000本残っているはず、いろいろな家庭で大切に使われているでしょうか?
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