2013年5月12日日曜日

母が退院します


一月半ばに転んで大腿骨を折って、入院、手術、リハビリと続いた母が、やっと今月末に退院の運びとなりました。
やれやれ一安心ですが、当分は車椅子を借りての生活なので、母はこれまで居室にしていた中二階の部屋から一階に移ります。

目の前に見ていないものの想像がなかなかできなくなっている母は、リハビリ病院の療法師さんに、リハビリを受けながら、
「畳の部屋の真ん中に水洗トイレをつくるんですよ」
「えっ、水洗て、水を引くんですか?ポータブルトイレでしょう?」
「いえいえ、水洗です。なんでも水が漏れないよう、下にシートを敷く防水工事をやるようですよ」
なんて、療法師さんがいくら考えても想像もつかないような説明をしたりしています。

 
さて、母を迎える妹の家では、今は妹夫婦が寝室として使っている畳の部屋を板張りにして、部屋の片隅にお手洗いと洗面所をつけ、母の部屋とします。その部屋の北が風呂場で、水周りが近かったことも幸いしました。工事はたった一週間でできるそうです。妹の連れ合いは建築家で、両親の家を設計・施工管理したのも彼ですから、改築に不安はありません。

それより問題は「もの」です。
まず納戸を整理して、母の居室から、足の踏み場もないほど置いてある茶箪笥や机を納戸に移します。そして、妹夫婦が中二階へと移ってから、ようやく一階の畳の部屋の工事に着手、今日、月曜日から工事です。
あれほど身辺整理をしたというのに、納戸や居室には母のものがまだいろいろ残っています。その上、五年前に同居した妹の荷物も、まだ一度も解いていないものが、廊下にあふれていたりします。

車椅子で室内を動き回るためには、室内にも、玄関への動線にも、ほとんどものは置けません。
「どうして、玄関から外に出る心配をするの?」
「週二日はリハビリに通うから」
そうなんです。外への段差も、解消しなくてはなりません。
そのため、邪魔になる母のミシンや、納戸を占拠している叔母の鏡台など、妹が捨てるのに困るような大物を引き取りに行ってきました。
「納戸のアルバムは捨てちゃっていいよね」
と、妹。
「いいと思うけど、写真まだ残っているの?燃やしてって、お母さんからずいぶん預かったわよ」
「それが、山のようにあるのよ」
「どんな写真?」
「お父さんが写した花とか山とかの写真」
「ひえぇぇ 」

母は、自分や父の幼かったころの写真はあっさり捨てたのに、父が撮った、変わり映えしない花や山のへたくそな写真は取っておいたのです。父の思い出ということだとは思いますが、母も認めていたように、おもしろくもなんともない写真ばかりです。
他人のものは善し悪しの区別もつきやすいし、簡単に捨てられますが、当事者となると、何を捨てるべきか、なかなか迷うものなのでしょう。


これは、以前、母に焼いてくれと渡された、母の小さい頃のアルバムです。


エジプト模様の更紗の表紙が、女の子らしいアルバムですが、同じようなアルバムが、親から子どもたちみんなに、一冊ずつ用意されたと聞いたことがあります。
小さい頃は家族写真がほとんどですが、大きくなるに従って、交換したのか、お友だちの写真が増えています。


母は、このころ十三、四歳でしょうか。
母の両親と、左端の上の弟は亡くなりましたが、母の兄、妹、そして下の弟は元気にしています。

6 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 春さん写真館で写したものですね、
日付けの裏書がありますか。
子供の頃の記憶って印象が強ければ覚えていますからね。
 弟と並んで写した写真があります。(コピー)
母がうしろから抑えていますので二歳未満です。
(年子なので)
抑えて貰っていることや写真師がおもちゃであやしたのをいまだに覚えています。
(私のもっと古い記憶は前世ですが)
私がいなくなれば処分するでしょー



さんのコメント...

昭ちゃん
あはは、前世のことまで覚えているのですか。大人たちが繰り返し話していることは、実際に見た気がするものですね。私も岡山が空襲で燃えているのを橋の上から見ている光景を覚えているのですが、どう見ても年齢的(年代的?)に無理があります(笑)。
写真はべっとり貼ってあるのをちょっとはがしてみましたが、裏には何も書いてないようです。でも他の写真でUNOとエンボスがあるのがあります。宇高連絡船の着く宇野に住んでいたんですね。母には写真館で写した写真がたくさんあります。私も息子たちを写してもらっておけばよかった。一枚もありません(笑)。

昭ちゃん さんのコメント...

私の場合は子供の頃からで今でもスケッyチができる程鮮明です。
 ベットに寝かされてゆらゆら運ばれているので
天井には蒸気の配管が何本もつづいています。
暖房用の配管なら大正時代の総合病院でしょうね、
廊下の左右から人がみています。
 今度は地下室から外に運ばれます。
坂を上がればれば病院の玄関一階です。
これだけですが不思議なショットです。

さんのコメント...

昭ちゃん
中勘助の『銀の匙』ではおんぶされた背中から見たことが克明に記されていますね。空襲の話に戻すと、それこそ私はおぶわれて東の空が赤く染まっているのを見ています。ありえないのに。
母と昔話をすることがあると、二人とも覚えているシーンはまれで、たいてい相手が覚えていることは、一方はきれいさっぱり忘れています。だから話は全然噛み合いません(笑)。
記憶って重ねてある紙のようなもので、めくってもめくっても届かないものもあれば、開けるといつもそこが出てくるものもありますね。

昭ちゃん さんのコメント...

 春さん否定される方はそれで結構ですが、
どうしても考えられない出来事もありますからね。
 私の授業中窓から乗り出して覗く男の子など、
一階の教室はどこでも梯子に登らないと教室は覗けない高さです。
 春さんの話もどこかで繋がっているのでしょね。
いつもコメント感謝です。

さんのコメント...

昭ちゃん
一人一人にはいろんなことが詰まっていて、誰でも歩く博物館ですよね。
母は病院でリハビリしながら楽しそうにしゃべり過ぎています。家に帰って、話し相手が少なくなって、静かに時を過ごすことにがっかりしないといいのですが(笑)。
こちらこそ、ありがとうございます。