柳田國男の『木綿以前のこと』(初版発行1939年)は、それまであまり語られることのなかった無名の人々の日常生活を書いた、名著です。
そして、『新・木綿以前のこと』(永原慶二著、中公新書、1990年)もまた、苧麻や木綿という生活に欠かせない衣類の材料に焦点を当て、古文書を駆使して苧麻や木綿にまつわる社会や経済を語っている、『木綿以前のこと』に勝るとも劣らない名著です。
そして、『新・木綿以前のこと』(永原慶二著、中公新書、1990年)もまた、苧麻や木綿という生活に欠かせない衣類の材料に焦点を当て、古文書を駆使して苧麻や木綿にまつわる社会や経済を語っている、『木綿以前のこと』に勝るとも劣らない名著です。
永原さんはあとがきで、表題は『苧麻から木綿へ』とするつもりだったのに、編集者に押し切られて『新・木綿以前のこと』になったと語っていらっしゃいますが、木綿以前、木綿以後もとてもよくわかる本になっています。
永原さんには、『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年)というご著書もあります。
この2冊で苧麻、絹、木綿にまつわる歴史を知ることは、人間の歴史そのものを知ることに思えました。苧麻、絹、木綿がいかに人々に寄り添い、そして社会を変えてきたことか、歴史の教科書からは見えなかったことが見えてきます。
苧麻、絹、木綿は、衣類の3大材料ですが、社会的な位置は、同じではありません。
大きく分けると、
1.自家用
2.貢納用(古代の調庸、中世の年貢・公事用、近世の年貢)
3.商品
の3つに分けられます。
縄文時代から自生していた苧麻は自家用と貢納用、帰化人の渡来とともにもたらされた絹はおもに貢納用、そして15世紀に栽培のはじまった木綿は、商品として取り扱われてきました。
苧麻、中でもからむしは縄文時代(もっと前)から日本のあちこちに自生していました(大麻がどう日本に紹介されたか、自生していたのかという記載はない)。女性はその繊維を採集して、つないで撚りをかけて糸にして、織ったり編んだりして、家族の衣服をつくりましたが、律令時代、為政者もまた布を必要としていました。
自家用では仕上がり具合は問われませんが、調庸して収める場合は、自家用よりも糸の細い上質の布が求められました。苧麻の糸づくりは時間と技を要するため、苧麻は「青苧」と呼ばれる繊維のままで納められ、荘園などのお抱えの職人が糸にして織りあげました。つまり、専門の職人や、専門の加工地をつくり出しました。
苧麻を糸にして布にするまでには、長い労働を必要としました。
この絵は『信貴山縁起絵巻』の一こま、信濃の尼と従者が京都奈良間の街道の民家に立ち寄り、弟の消息を訪ねている図ですが、尼に対応する民家の女性は、かたときも苧績み(おうみ)の手を休めることがありません。苧麻の場合はそれほど働いて、やっと家族の衣類を賄うことができたのです。
帰化人とともに渡来した絹は、繭から糸にするのは苧麻ほど手間はかかりませんでしたが、桑を植えるなど養蚕には投資も労働も必要で、時期が農繁期と重なる(昔は5月蚕だけだった)蚕の飼育は大変でした。しかも蚕は病気になりやすい、簡単に始められるものではありませんでした。
また、五畿内(朝廷の近く、山城、大和、河内、和泉、摂津)では、食糧生産が優先されたため養蚕は許されないなど、生産地は限られ、律令国家が織部司を下属させ、直営工場で生産されました。ということは、高度な技術を待った専門の職人がいたということ、必然的に限られた人たちのかかわる、限られた人たちの衣類となりました。
養蚕をする農民がいたとしても、防寒用の真綿として使うくらいでした。
木綿は、朝鮮からの輸入にはじまっています。
朝鮮半島に木綿の種子が中国から伝来したのは、14世紀後半の高麗末期でした。1392年に李朝が成立したころ、朝鮮の木綿栽培は本格的に展開期に入りました。
李朝が成立すると、日本の中国・九州地方の守護大名や有力な国人領主たちは、次々と貿易を求めて出かけましたが、そのおもな目的は木綿布の輸入でした。朝鮮からの木綿輸入が、朝鮮の内需分を脅かすようになってブレーキがかかるようになってからは、木綿の輸入先は中国になりました。しかし、民(中国)政府は、朝貢貿易以外を許さない海禁政策をとっていたので、ほとんどは密貿易でした。
そして、15世紀後半から、日本での栽培がはじまり、以後100年ほどの間に、寒冷地を除く全国的に広がりました。
日本で、短期間に木綿栽培が広まったのは、暖かい衣類としてだけではなく、軍事品としての需要が高かったことがありました。
戦国時代になって合戦の規模が大きくなり、行動範囲も広がり、長引くようになると、兵衣は自前だけでなく、大名や武将たちは武器や兵糧とともに、兵衣も兵士にあてがうようになりました。
また、木綿は色鮮やかに染めることができるので、戦場での幟旗や陣幕、陣羽織などに使い、はっきり敵味方がわかるようにするのに便利でした。兵士の手蓋(てかい)、膝楯(ひざたて)、具足(簡略な鎧)などの防具や、背中に差す小旗にも木綿が使われました。そして馬具や鉄砲の火縄にも、木綿は欠かせないものでした。
また、木綿は船の帆にも使われました。それまでの船は小さく、おもに櫓で進みました。帆もありましたが、藁や草で編んだむしろの帆で、網目から風が抜けるので、速く走ることはできませんでした。
ところが木綿の帆をかけることによって、スピードは上がり、日中だけでなく夜も走れるようになり、船は大型化して、水軍が一気に発展します。
現代でも、軍事用に開発されたもの、例えばコンピュータなどが、戦後に一般利用されることによって生活が変わっていくように、木綿もまた、人々の生活を一変させました。
戦国時代には、あちこちが戦場になったはずです。しかも農民は農業に専念できず、戦があるたびに、民兵として駆り出されました。それなのに、その戦国時代に一気に木綿栽培が全国に広がったというのはどういうことだったのか、それだけ木綿が必要とされていたということなのでしょう。
このように、木綿は大名や武将たちにとって必要不可欠なものとなり、戦に備えて、城内にたくさんの木綿を備蓄しました。
元和2年(1616年)は、徳川家康が駿府城で亡くなった年ですが、その年の「駿府御分物御道具帳」に、戦を想定して城内の蔵に家康が備蓄させた、木綿の記載があります。
1.唐木綿 1端柿色、3端四ひろ物、4端はばせま 604端
1.白唐木綿 3端四ひろ物 161端
1.上白唐木綿 43端
1.かなきん 内5端御手拭 木綿1端縞 15端
1.くろ唐木綿 内10濃いあさき 123端
1.こんの唐木綿 32端
1.ろう引唐木綿 内こん13端、阿さき37端、もへき9端 69端
1.おらんた縞木綿 11端
1.唐木綿合 1058端
1.こくら木綿 19端
1.いなか木綿 内52端上々 806端
17世紀には、すでに国内で木綿が盛んに栽培されていたはずですが、家康は日本産の木綿より唐木綿の方を上質なものとして珍重していたことがうかがえます。
1端とは、現在の1反と同じなのでしょうか?
木綿以前、水田で稲以外の作物を育てることは禁じられていました。大事な食料が減るからです。しかし、木綿が導入されると、田んぼに畝を立てて高いところには木綿を、低いところには稲を植える「半田」というものが、あちこちに出現しました。
私の住む八郷にも半田という地名がありますが、かつて八郷でも田んぼに綿が植えられていたのでしょうか?
木綿は、農民が商品として売ることができる、初めての商品作物となりました。そのため、瞬く間に生産人口が広がり、それにつれて特別な木綿取引市場もできました。
木綿栽培は、肥料をたくさん入れると高収量がのぞめるため、肥料を購入してでも使う農民が出てきて、干鰯(ほしか)や油粕の生産と流通が盛んになりました。
木綿産業は江戸時代になるとさらに発展し、藍産業の発展にもつながります。また、肥料である干鰯の大型商品化も促します。
農閑期には男はわら仕事、女は木綿仕事が当たり前になり、夜なべが行われるようになり、菜種油の消費も飛躍的に伸びました。
副業農家が増え、分業が進み、世の中の商品経済が進むのに、木綿が大きな役割を果たしたことがわかります。
『新・木綿以前のこと』と読み返すと同時に『苧麻・絹・木綿の社会史』を読み、さらに同時期に歴史が大好きな森本梢子さんの描いた、戦国を舞台にした漫画『アシガール』を読んだことで、私の戦国時代への親しみは、驚くほど増しました。
14 件のコメント:
すっごく面白いです!木綿って突然現れ、瞬く間に浸透したのですね。国内の木綿にそんな過去の栄光があったとは知りませんでした。干鰯も影響しているとは。
これまで夏は風通しのいい麻(リネン)の服を着ていたのですが、去年ぐらいからなんか着心地に違和感を感じ始めました。更年期で汗をどっとかくようになり、その汗を麻が吸わないからだと気が付きました。この夏は、あまり着ていなかった綿のTシャツを引っ張り出して過ごしました。
hiyocoさん
実は15世紀よりずっと前に日本に木綿布はもたらされていたし、インドあたりから種も輸入して、栽培が奨励されたこともあったのですが、うまくいかず消えています。熱帯の種だったこともありますが。
木綿に関しては、なんとなく、暖かくて丈夫な衣類が欲しかっただろうくらいに思ってしまいますが、軍事目的で導入され、商品作物となり、それにまつわる諸産業を発展させ、生活や経済構造を変えていったこと、目からうろこですよね。
夏に巷にあふれる軽い麻は、西洋の亜麻(リネン)ですが、これは西洋では糸のつくり方が日本の苧麻や東南アジアの大麻などとは違うので、手作業から機械での大量生産に移行することができて、今に至っています。
いつか、このことも書きたいと思っているのですが、資料は十分ではないし、まとめられるかどうか、まだ不明です(笑)。
春姐さん凄い内容に驚きです。
小学校時代まで我が家は祖父の代から続く「太物商」でした。
子供心に太物の意味が解りませんが半襟とか浴衣地やネルが並びショーウインドもあり盛大でした
西陽が射すときは日除けのカバーも。
東京の冬は寒かったなー商店はいつも戸を開けているので普通の家が羨ましかったです。
父に言わせると「商売をしたら勤め人は出来ない」っと問屋にもよく連れて行ってくれました
遊びも一流。 時代を先取り昭和15年廃業しました今度は玄関のある家です。
もう一つの思い出
外務省から戦争末期軍需工場に配転になりました「17職種就業禁止令」で
荏原にあるF工場検査部パラシュートを作る工場で絹との付き合いが、
戦争末期の夜間空襲にはB-29hは照明弾を落としますがこれは落下傘で落とすので
ゆっくり落下します。落ちた生地を触ると絹そっくりで驚きました。
勿論素材は解かりませんがこれがナイロンとの最初の出会いです。笑い
昭ちゃん
太物屋さん、綿織物や麻の織物を扱っていたのですね。昔は絹織物の呉服屋と分かれていました。
かしわ屋と肉屋が違うとか、魚屋とドジョウなどを扱う店が違うとか、1960年代くらいまできっちり分かれていましたね。
古文書が読める人は羨ましいです。探し当てたら、楽しめるじゃないですか(笑)。探すのが大変だけど。
そう言えば、ナイロンの発明も、一般的には絹の靴下の代用と言われていますが、もしかしたらパラシュートのロープ作りなど戦争がらみの理由があったのかもしれませんね。
北海道で麻縄の漁網を見ましたが、水を吸って重くなったはず、ナイロンは画期的でした。
私が育った倉敷には倉敷レーヨンがあって、市の合同体育祭などのときに歌う「倉敷小唄」の中に、♪君もビニロン薄衣♪という歌詞がありました(笑)。
小説などの表現で「キヤー」絹を裂くよな女の悲鳴が、、、
ハサミをチョット入れて両手で裂くとその通り聞こえます。
かしわ屋で鳥をしめるのを、
羽根の後ろに首を入れればもう終わりです。
昭ちゃん
かしわ屋さんは自分で絞めていたのですか?知りませんでした。
太物屋さんは冬でも木綿を売っていたのですね。私が若いころ、渋谷などにいっぱいあった洋服生地屋さんは、夏は木綿を売るけれど、冬になったらウールばかりでした。
かごに入った鳥が10羽以上きますので目の前で締めます。
大人も子供も当然のように見ている時代で面白いのは鰻やドジョウでチュッっと鳴きますよ、
犬の交尾などは「大人になれば解るよ」それで納得する時代です。
昭ちゃん
いろいろなものが、自分の目で見えた時代でしたね。
今は、特に都会は何でも隠されているので、食料のふるさとも、排泄物の行方も何も見えません。
姐さんにそう言われると嬉しいバイ
どうしても昔話になってしまうので。
田舎の香水も昭和30年頃まで.笑い
昭ちゃん
田舎の香水は宝物でしたね(笑)。
本題じゃないのですが・・・
昭ちゃん、昔話を聞いてください!
戸越銀座にも武蔵小山商店街にも、昔は、かしわ屋がありましたが、今はすっかりなくなってしまいました。豚や牛を扱う肉屋がほんの少し残っています。
で、今は、”焼き鳥屋”や”唐揚げ屋”というのが流行っています。店先にビール箱を椅子にした縁台が設けられて、土日などは、昼過ぎから唐揚げをつまみにビールを飲む人でにぎわっています。
特に戸越は昼から飲むなんてことはなかったのに(そういう余裕のある人はいなかった)、最近はすっかり変わりました。でも、人々が楽し気に集って、笑っているのはいいことなんですかね~。
コロナになって行ってないので、最近の事情はイマイチですが、来週、行くので観察してきます。
あけみみさん上京するとミミダイコンさんと似非親子でした。
アメ横でくし刺しの冷凍パイナップルを歩きながら、キムチ横丁の馬山で
マッコリとセンさし最高です。
戸越銀座や小山銀座行ってみたいなー 雑踏の雰囲気いいな。
食べ歩き禁止かな!
昭ちゃん、ミミダイコンってなんですか?
雑踏の雰囲気そうですよね。
武蔵小山の駅脇(戸越側の路地)に、あやしげな臓ものの繁盛している焼き鳥屋をはじめ、路地の両脇に小さな店がひしめき合っていましたが、高層ビルのせいで、無くなりました。
そうそう、戸越にもアパホテルが突然建ったんですよ。オリンピックを狙ったんだと思います。
そこも、小さな総菜やと中華やがあったんですけどね。
だんだん、自分の子どものころの風景・匂いと違ってきました。そうだ、昔は、大崎の国鉄の工場の機械油の匂いがきつくて、あのあたりを歩くと気持ち悪くなりました。
コメントを投稿