弟から、きょうだい4人で見られるメールアドレスに、母が書いた子ども時代の思い出を、母の妹が弟に送ってきたので、順に回覧するとの知らせがあり、届きました。
B4の紙を二つ折りにした手づくりノオト2冊、約120ページ。1983年、母が60歳のときに書いて、母の妹に送ったものです。
母のきょうだい5人はそれぞれ長生きしましたが、母が昨年の2月に亡くなり、残っているのは母の妹の昭子93歳のみとなりました。
ノオトを受け取った弟の話では、叔母はこの母の書いたものを宝物にしていましたが、母の亡くなった今、私たちきょうだいが持っていた方がよいと考えて、送ってきたそうです。
ノオトを開くと巻頭に、叔母の、このノオトに関する山陽新聞への投書が貼りつけられていました。そして、ページをめくると、母の前書へと続きます。
以下、母の前書きです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
京子ちゃん(注:叔母の娘。母とは仲良かった)に、私の子どものころの話をちょっとしたところ、
「うちの母は小さいときのことは何も覚えていないそうです」
と言う。
「私は山ほど覚えているわ」
と言ったら、
「母に教えてあげてください」
と言われた。
教えてあげたところで、4歳年下では子どものころは全然世界が違う、という感じでほとんど覚えていない、思い出しもできない話だと思うけれど、昭子(母の妹)としみじみ昔話をすることがこれから先もあるとは思えないので、思い出すことを端から端から書き留めてみると、次から次へと限りなく、湧いて出てきて、まったく誇張なしに、山ほど出てくるのには、我ながら驚いた。
まだまだ思い出したことがらはいっぱいあり、書きつくせないが、思い返してみれば私たちは、当時としてはずいぶんと彩り多い生活をしていたような気がするので、書き連ねてみた。
もとより、何の資料も覚え書もなく、ただ思い出されたことだけなのだけれど、ほとんどすべてのことが、くっきりと鮮やかに脳裏に浮かんできた。
思い出は走馬灯の如くという表現があるけれど、そんな生易しいものではなく、別府温泉の坊主地獄か何かのように、あのこと、このことがフツフツと次から次へととめどなく吹き出すように出てくる。これを書き始めてみると、夜床に着いてからも、それほどとは自分では思わないのに、なんとなく気が高ぶって、なかなか眠りにつけず、とうとうしらじら夜が明けてきたことも再三あった。
独断と偏見と思い込みで書いたので、自分では全部間違いないと思っているが、本当かどうか尋ねてみたい父も母も、すでにいまさぬのは淋しい。
ただ、我ながら不思議に堪えぬのは、これだけ強烈に焼きついた膨大な想い出の土地「宇野」に永別したときの情景が、いくら考えてみても思い浮かばないのである。
その後の岡山での生活も、くどくどといくらでも思い出せるのに、昭和11年3月末日、宇野をあとにした時のことは、引っ越しの慌ただしさも、近所の人との別れも、一片の記憶も残っていない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
飛び跳ねるような文、母の意気込みが、端々から感じられます。
思い出は、母の妹(叔母)が生まれた日のことからはじまっていて、家族、友だち、近所に人などのことを、事細かに記されています。
ところどころには、自分たちが住んでいた家や学校の間取り図、町の地図、海ほおずきや、叔母が知らないと思われる道具の絵なども添えられています。
住んでいた町の地図。何という記憶力! |
母が子どものころ、母の父は岡山県の宇野、岡山と宇野を結ぶ宇野線の終点であり、四国の高松とを結ぶ宇高連絡船の船着き場のある港町で、雑貨屋をやっていました。
母が覚えているだけで、雑貨屋では米、雑穀(大豆、小豆など)、メリケン粉、白玉粉、食用油(空きビンを持ってきた人に、一斗缶から柄杓で升に汲んで計り、じょうごで入れてあげていた)、燃料(割った木、松葉)、水がめ、机、火鉢、コンロ、鍋、釜、茶碗、皿、やかん、箒、はたき、包丁、鋏、チリ紙、奉書、半紙、水引、熨斗、爪切り、へら、墨、筆、ランプのほや、箱枕(日本髪の人がいた)などなど、何でも売っていたそうです。
そんな雑貨屋を営んでいたにもかかわらず、リヤカーを引いた何でも屋さんが来ると、その品ぞろえに感心しながら、家族でわくわくとのぞき込んでいる感じ、おかしくて、ほのぼのします。
母は、兄、母、弟、妹、弟の5人兄弟で、すぐ下の弟とは特に仲良しだったようで、楽しい子ども生活を送っています。
遊び、漁港に上がる魚中心のいろいろな食べもの、叱られたこと、かどづけ(お遍路や虚無僧など)が店によく来ていたことなどの日常生活、お正月やお祭り、花火の話など、思いつくままに、話は次々と進みます。
港の倉庫のあたり、ネズミがかじったのか袋が破れて大豆が転がっていることがあり、それを見ると夢中で拾ってきたそうです。するとお父さんが丁寧にゴミを取り除いて洗ってくれ、ほうろくで炒り豆をつくってくれて美味しかった。でも、自分の店で売っている大豆では一度も炒り豆をつくってくれなかったというエピソードや、両親は買い食いが嫌いで、お祭りのときなどもお小遣いをくれなかったけれど、近くに住むおじいさんにねだればすぐお小遣いがもらえて、毒々しい色のエビの乗ったお好み焼きなどを買って食べたなど、思わず笑ってしまう話も満載でした。
母の母の実家。私が知っているのは空襲で焼け残った長屋に祖父母一家が住み、蔵もぽつんと残っていたこと |
夏休みには、岡山市津島にあった母(私の祖母)の実家に毎年、子どもたちだけで遊びに行っています。そして、母の祖父母や叔父(母の母の弟)を観察しています。
面白いのは、いかにも「私のご先祖様」らしい記述があったところです。
母のおじいさんは家作(貸家)を数軒持っていたのですが、その修理はすべて、おじいさんとおばあさんがやられていたようで、母も祖父母2人が飼い葉切りでわらを刻み、壁土を練ったりするのを、よく見たそうです。
これを読んで、私が大工仕事が好きなのは、このご先祖様の血を引いていたのかとにんまりしましたが、まったく違うのは、おばあさんはおじいさんに影のように寄り添って手伝っておられたが、口返事も口喧嘩をされたのも見たことがない、ということでした。
私と夫は、普段は別々に作業していますが、一緒にしなくてはできない作業もあります。そんなとき、口返事、口喧嘩は日常茶飯事、あっという間に怒号が飛び交う事態になってしまいます。少しは、反省した方がいいかと思いました。
また、祖母(母の母)の実家の鶏小屋は、見たことのないほど立派なつくりで、きれいに切りそろえた茅葺き屋根だったそうです。たぶん、日本でただ一つの茅葺き屋根の鶏小屋は、母の叔父さん(母の母の弟)がつくったものでした。
この叔父さんには私も小さいころ、何度も会ったことがあります。無類の趣味人で、何をつくらせても玄人裸足、母の祖父母が亡くなったあとは、二人の等身大の人形(そっくりだったそうです!)をつくって家に置いてあったそうです。
大叔父のお連れ合いは、結核で、幼い子どもたちを残して早くに亡くなったのですが、大叔父の家で、曽祖父母と大叔母のデスマスクを見たときは、小さかった私は度肝を抜かれたものでした。
塩田の塩を均す道具 |
この想い出ノオトでは、母たちのことだけでなく、昭和初期の町の人々の暮らし、世相などが楽しめました。
父方の祖母もこんなだったら、祖母の小さいころの話や、父の小さかったころの話までも知ることができましたが、祖母はいつも威厳があって、昔話は全然しませんでした。
11 件のコメント:
まずは春さんの文才は血筋だったと納得(笑)。受け継いだのは大工仕事好きだけじゃありませんね。
それにしても、お母様の記憶力に圧倒されます。そして文章が楽し気。2階から1階へ下りてみたら赤ちゃんが寝ていて、どこから来たのか聞いた話とか微笑ましいです。
津島のおうちにノウゼンカズラがあったんですね~。
興味深く読ませていただきました。お母様やおば様の残された記録史は貴重な資料ですね。文面やイラスト図面なども添えられた解説、緻密さに春さんを想像させるものがあり、ご家族兄妹の仲睦まじさにもほっこりさせられました。文中にある「デスマスク」等身大の人形...とても気になります。実存していたなら私もギョッとしてみたいなぁ。笑 宇高連絡船、懐かしいですね。今はもう消えてしまいましたが、私が高校3年生の頃、卒業旅行に友人の祖母宅・徳島へお邪魔する時に乗りました。鳴門の渦を見たのは後にも先にもその時だけです。38年も前の事です。
hiyocoさん
母は、つまらないことをいっぱい覚えていました。確か、親戚の叔父さんたちのことをまとめた文も読んだことがあったような(笑)。
津島の家にはノウゼンカズラがあったみたいですね。焼け残った建物を、母の両親が借りて住んでいたようで、のちに近くに家を建てましたが、私が見た時代は、玄関のところの建物と蔵があるだけで、後は全部畑になっていました。
hattoさん
等身大の人形は何でできていたのでしょうね?母は見たようですが、私は見なくてよかったです(笑)。子どもだった私は、大叔父の家でデスマスクを見たとき、デスマスクって一般的によくあるものかと思ったりしていましたが、ほかでは見たことがありませんでした(笑)。
宇高連絡船は何度か乗りましたが、1990年3月、たまたま仕事で愛媛に行くのに乗ったら、その日が最後の運航でした。
母が小さいころの連絡船は、海がちょっと荒れたりすると欠航していたようで、宇野には渡れなかった客目当ての旅館もあったそうです。今は橋ですから、隔世の感がありますね。
曖昧な記憶(お母さまと違い)で申し訳ないのですが、私がまだ隠れファンだった頃のこのブログで紹介されていた春さんの弟さん?の文章に惹かれた事を思い出しました。
郷里の銘菓を春さんに送った際の添え文だったかと思いますが、菓子の購入にまつわり、時代の変化を感じたとの内容だったかと。短い文章ながらも表現の豊かさを感じました。弟さんもやはりお母さまの文才を継いでいらっしゃるからと納得しました。
お母さまのノートは郷土の生活史研究にとっては貴重な資料ではないでしょうか。ご家族のものだけにしておくのはもったいないと思われます。
reiさん
過分なお褒めのお言葉ありがとうございます。
母の記憶力はすごいと思いますが、私や弟の文才と言われても、恥じ入ってしまう次第です(笑)。
母の想い出ノオトにも出てくるのですが、母のすぐ下の弟がつくった割り箸の兵隊さんたち、みんな彩色してあって、針金のサーベルなど持っていて、母と弟はそれでままごとをしていたようですが、私も一度だけ見たことがありました。腕が動く兵隊さんが何人もいてお見事、帽子や道具までありました。しかし失われてしまいました。後年、母も何度かそれを見つけ出したいと探していたようでしたが、見つかりませんでした。あれは残っていれば面白かったです。
また、その叔父は戦争に行った最後の世代、戦後シベリアに抑留されたのですが、数年後に復員してから話してくれたのは、全部シベリアの面白い生活でした。例えばトイレで用と足すと瞬時に凍るので、そのうち排泄物の氷の塊が塔のように高くなってお尻につんつん当たるので、つるはしで崩さなくてはならなかった話などです。叔父が来ると、お風呂に一緒に入ったりしながら、「話して、話して」とせがんだものでした。
だから、ごく近年になって。シベリアに抑留されていた人たちが、ひどかった生活を絵にして発表されたときは、とても違和感を覚えました。もちろん厳しい生活だったと思いますが、その叔父は絵も何枚も残していて(これも見つかりませんが)、どれも笑い飛ばせるような、愉快な愉快なシベリア生活の絵でした。
人物関係を理解するのに、時間がかかりました(笑)
何度も読んで、ようやく理解できました。
1.それにしても、間取りにしても、街の様子にしても、そこを離れて、長いのに覚えてらっしゃることが信じがたいですね。雑貨屋ということですが、テレビドラマの中に出てくるような街の人たちの暮らしの中心におられたのだろうと想像されました。ですから、街のどこに誰がどのような暮らしをされているのか、健康であるのか、困りごとをかかえていないか・・・きっと細部まで気配りがあったのだろうと勝手に想像しています。ところで。。。街の地図の中に、お母様のご実家である雑貨店が見つけられませんでした・・・
2.なぜ、”赤ちゃんは連れてきた”とお話されていたのでしょうか?当時は貰ったり預かったりすることも多かったと思うので、そういうことでしょうか?
3.昔話をしない威厳って何となくわかるようなわからないような・・・。最近、長男が家にいるのですが、経済的にも精神的にも独立した彼と向き合って話すとき、年に1度話すのと、日々を共にするようになってからでは大分、変わってきました。年一だと、体調や近況を聞いて終わりですが、そういうことが共有されるようになってくると、考えを話したりするのですが、そうなると意見が合わないことも多く、そうしたときに繰り出す技としては、昔話です。でも、大変嫌われます。先日も『昔話をされても何の参考にもならないし、おもしろくない。気を付けた方がいい』とバッサリ、やられました(笑)威厳を保ちたいわけでもないのですが、昔話は書き留めるがいいのかなと思いました。
akemifさん
人間関係はわかりやすく書いたつもりでしたが、無理がありましたかね。本当はまだまだ人名がいっぱい出てきて、目が回るほどでした(笑)。
1.雑貨屋は地図の真ん中あたりに名字で入っています。「角田」です。
2.赤ちゃんのことは、当時の大人独特のからかいでしょうね。橋の下で拾ったとか言いたがりました(笑)。
3.祖母は、父母から孫を預かって(無理やり手元に置いて?)緊張して育てていたのだと思います。
だから、祖母から聞いた昔話は、子どものころ小皿にしょうゆを注いで、それが多すぎたときは父親に叱られて残りを飲まされたとか(今でも私の生活に活きている!)、師範学校で消灯の後、お手洗いの電気の光で勉強したなど、教訓を含んだ話だけでした(笑)。
昔の大人は威厳がありましたね。祖母は祖父と大恋愛したものの親に反対され、他の人と結婚させられたのに逃げ帰ってめでたく祖父と結婚したとか、助産婦だった祖母の姉は未婚で子どもを産んだとか、外野からは切れ切れに聞いたこともありますが、祖母自身は昔の歴史の教科書を暗唱するような人で、過去はおくびにも出しませんでした(笑)。
「割りばしの兵隊さんたち」「愉快な愉快なシベリア生活の絵」拝見したかったです。
シベリア抑留と言うと、山崎豊子の「不毛地帯」に描かれた地獄のシベリアのイメージが強いです。シベリアから生還できなかった人達の数を見るとやはり過酷だったのでしょう。
叔父様は辛い事でも楽しい事に変えてしまう力をお持ちだったのではないでしょうか。戦争画家の描いた絵は色々ありますが、従軍兵の描いたものは貴重です。愉快なシベリア生活の絵は更に貴重です。
全くの別件、「招き猫製作所ほたる庵」の作品展が、雑司ヶ谷「旅猫雑貨店」で開催中との事。通販で土鈴・星を購入しました。我が家にもじわじわと猫たちが集まって来ます。
reiさん
私はこの目でどちらも見たのに、もう見ることができません。絵はわりと長くあったのにね。
母のすぐ下の弟は、結婚してから連れ合いさんと祖母の折り合いが悪く、結局一番下の弟と母が暮らすことになり、めちゃくちゃ関係が切れていました。
連れ合いさんのお気持ちはどうだったのか、叔父の気持ちはどうだったのか、叔父が亡くなったあと、連れ合いさんと一緒にお墓参りに行きましたが、お墓参りが生きがいみたいな生活をされていて、屈折したお気持ちが感じられました。やがて認知症になられて、その娘さんたち(叔父に似て明るい!)2人は何も知らないで、今日にいたっています。まぁ、いろいろありますね。
叔父の絵は何枚もあったのに、残念でなりません。
ほたる庵の招き猫かわいいですね。旅猫雑貨店のHPを見ていたら、いまどきさんの作品もいっぱいあって(しかもほとんど売り切れで)嬉しくなりました。猫はいいですよ(^^♪福を招くかどうかは疑問ですが、確実に猫を招きます(笑)。
春さん、ええええーーーー赤ちゃんのこと、当時の大人独特のからかい???
橋の下で拾ったとか言いたがったんですか!!!!!!
なんで、こんなに反応するかというと、子どものころ、私の父が、
姉については橋の下で拾ってきた、私のことは線路の下(近所に高架の線路がありました)で拾ってきたと言ってたんです。子ども心にとても傷ついていたことを今も忘れません。
仮にも教育者の父がなぜ、そんなことを言ったのか、ずっと理解できなままでした。母に言うと「そんなひどいこと言ったかしら???」というし、父は亡き人となってしまって直接、苦情を言うこともできないでいました。からかったのかぁ・・・そうなんですね~。父のからかいは、時々、度が過ぎていました。
ピアノの練習をしているそばで、同じ曲のプロの演奏をかけたりしてました。
こんど会ったら、いっぱい苦情を言うつもりです(笑)
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