2009年11月26日木曜日
ヨーグルトの壷
パレスチナの、ヨルダン川西岸とガザの村々に、私を案内してくれたのは、元同僚のSさんでした。彼は日本人にしては珍しいほど、語学のよくできる人で、アラビア語は、おそらく日本人の中では一二を争うぐらい堪能なのではないかと思います。
正調アラビア語(コーランに書かれているアラビア語)や、パレスチナ方言だけでなく、パレスチナ人から聞いたところによりますと、村の言葉(方言)さえ、彼は使い分けていたようでした。
そのときは西岸の中部の村を回り、いくつかの農家に泊めてもらったのですが、あるとき水の湧き出ている、ちょっとした観光地を通りました。乾燥した地域にあって、水があふれ出て、そこらじゅうに池ができている光景はとても珍しいものでした。
イスラエルは、とても水の少ないところです。
ユダヤ人があの地を目指したときは、宗教的、歴史的背景があったかもしれませんが、占領後、イスラエル国内に十分な土地がありながら、パレスチナ自治区内に入植地(団地)を増やしていったり、シリアを奇襲で負かして、ゴラン高原を占領した最大の理由は、水の問題だったと私は考えています。
ゴラン高原とレバノンとの国境には、4000メートル級の高い山々が連なっています。その雪解け水はゴラン高原を通ってガレリア湖にたまり、ちょっと小高くなっているヨルダン川西岸地域の地下を通って、死海へと注いでいるので、西岸地域では井戸を掘れば、潤沢に水が出ます。しかし、イスラエルの、ほとんどの町や村では地下水は出なくて、ガレリア湖から、パイプで水を引く以外ないのです。
私はその水の豊かな観光地で、焼物の大きな壷を買いました。旅の途中ですから、重くてかさばる壷はじゃま以外のなにものでもないのですが、ついつい買ってしまうのが私の悪い癖です。
その夜、泊めていただいたのは、200年は経っているという古い、大きな農家でした。石を積み重ねてつくった家の、室内はいくつものドームになっていて、小さな窓のところで見えている石壁の厚さは、1メートル近くもあったでしょうか。
大きな壷を後生大事に抱えている私を見て、そこの家のお兄さんが、「そんなものが、好きなの?」、と聞きました。私が「はいはい。好きなんです」、と答えたら、「ちょっと待って」、と言って、外へ出て行き、この壷を手に戻ってきました。
「やっぱり残っていたよ。昔は、この壷を100個くらい並べてヨーグルトをつくっていたんだ。もう使わないから、よかったら持って行って」
「えっ。いいんですか?嬉しい!!」
経済的に自立した生活をさせないというイスラエルの政策で、パレスチナ人は、家畜を飼うことはおろか、土地を没収されるなど、農業で生計を立てることは絶望的です。そんな悲しい背景があってヨーグルトもできないというのに、私はもう幸せの絶頂で、壷を二つも抱えてよたよたしながらこのお家を後にしました。
そのとき観光地で買った壷は、その後どうしたのでしょうか。もう残っていません。でもヨーグルトの壷は、今でも大切な宝物です。
バングラデシュの農村に泊まっていたときのことです。早朝、ヨーグルトを入れた素焼きの壷を7、8個入れた籠を振り分けにして、天秤棒でかついで売っているのを見かけました。
足早の後姿を見たものの、あいにくお金も持ってなかったのでなにもできませんでした。次の日から、お金を持って、何度か村の中を歩いてみました。しかし、とうとうヨーグルト売りに出会うことはありませんでした。
いよいよ去る日も近づいたとき、受け入れてくださっていたNGOのスタッフの人が、「なにかして欲しいことがありますか?」と、聞いてくれました。そこで、訪問の目的にはまったく関係ないのですが、「どこかでヨーグルトが買えますか?」、と聞いてみました。
しかし、ヨーグルトは、早朝売りに来るのを買うだけで、お店はないということ、「あの壷が欲しかったなあ」、と言うと、「空の壷はさがせばあるかもしれない」と、親切にもさがしてくれたのが、この壷です。
ヨーグルト屋さんは、新しいヨーグルトを持ってきたとき、空になっている壷を持って行くのだそうです。
これも、割れないよう、細心の注意を払って運んできました。
いただいたときは、まだヨーグルトの匂いがしていて、梅雨時には何年かかびましたが、やっとかびなくなりました。
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