2021年5月21日金曜日

災害


クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3.11 大川小学校事故の研究』(西條剛央、山川出版社、2021年2月)を、やっと読み終わりました。
この本は、大川小学校事故はなぜ起きたのか、二度と起きないためにはどうすればいいのかを考察した本です。

2011年3月11日、マグニチュード9.0という超巨大地震が発生し、それによって発生した巨大津波が東北から関東地方の広域を襲いました。


北上川の河口から4キロの地点にある宮城県石巻市立大川小学校(全校生徒108名)では、地震発生当時、児童が76名と教師が11名が学校にいて、校長は不在でした。
教師の判断で、全員が校庭で待機すること約50分、津波が10メートルの高さになったという情報をきっかけに、校庭より高い場所へと移動を開始した直後に、津波に呑まれてしまいました。


児童69名が遺体で見つかり、3名が行方不明になりました。また、津波に呑まれながらも奇跡的に生き延びた児童が3名、津波が来る直前に山へと走って助かった児童1名いました。生き残った教員は、避難をはじめたとき最後部にいた1名だけ、迫る津波を見て背後の山に駆け上がって助かりました。また、教師たちに避難を促しながらも学校側の判断を待っていたスクールバスの運転手も、一緒に津波に呑まれました。

十分な時間と、情報もありながら、なぜ彼らは命を落としてしまったのか、事故後の調査の結果、筆者たちは事故の構造を描き出します。
人は、嫌なことから目を反らしがちです。例えば原発、事故が起こらないだろう、まさか日本では起こらないだろう。自分がまきこまれることはないだろうと、悪い方ではなくよい方を信じようとします。
大川小学校の校庭は、防災マップには避難場所にもなっていたので、本震後、余震の続く中で、地域の人々も集まっていました。これまで、この地域は津波に襲われたことはなかったので、津波と真剣に対峙した避難マニュアルをつくるのを怠っていて、避難訓練もほとんどしてきませんでした。教師の間には、「津波はここまでは来ないだろう。大丈夫だ」という「正常性バイヤス(偏見)」が働いていました。
その2日前にも地震があり、児童と教師は校庭で過ごしましたが、津波警報が出たにもかかわらず津波は来ませんでした。そのため、「正常性バイヤス」に加えて、「一昨日も来なかったから、今日も津波は来ないだろう」という「経験の逆作用」も働きました。
児童や一部の災害研修を受けたことのある教師の、「山へ逃げよう!」という意見は、「断続的な揺れがあるので、山へ避難して児童に怪我でもさせたら責任が問われる」という「他の脅威への危機感」で、「逆淘汰」されてしまいます。
教師が、避難していた地域の人に意見を求めると、「山へ行く必要がない」と言う場面もあり、そこにいる人たちは「同調性バイヤス」に支配されてしまい、「超正常性バイヤス」というべき集団心理が形成され、気がついたら事故が起こっていました。


事故後、石巻教育委員会は、事故原因の報告書を作成します。しかし、その調査報告書は、真相を究明しようとするものではなく、組織を防衛するものでした。「避難できなかったのは仕方がなかったことにしたい」、「亡くなった教員や市教育委員会が責任を負わないで済むようにしたい」。そのため、児童の証言を記したメモやメールをすべて破棄したり、ただ1人生き残った教師にうその証言を言わせたうえ、隔離して病気で面会謝絶として誰にも会わせないようにしたりで、「不都合なことはなかったことにした」報告がされます。

遺族に寄り添うどころか、逆なでするような報告に、遺族も世間も納得しませんでした。
その騒ぎを収束させようと、2013年に文部科学省主導のもと、「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。人選に際して、遺族は地元の教員など市や県と深い関係のない人選を希望しましたが、取り上げられず、結果的には地元の大学教員などが委員に採用されました。
早々に幕引きするという目的で立ち上げられた事故検証委員会は、はじめから「問題はなかった」という前提で、調査の恣意的な解釈を行い、嘘にうそを塗り重ねようとします。
ついに、事故後の対応があまりにも悪いので、納得できない児童23人の遺族は訴訟を起こしました。そして、最高裁で、震災前の危機管理マニュアルの不備がなければ事故は防ぐことができたとして、市教委と学校の「組織的過失」を認めさせることができました。

というわけで、大川小学校は、津波という事故に襲われただけでなく、その遺族たちは市教育委員会や市の対応により、二重三重に苦しめられてしまいました。
そして、この本では津波に直面したとき、個人としてどう対応すべきかを説くというより、その背景である災害をおこさない、よい組織人を組織のリーダーとして選ぶことが、災害を回避することだと説いています。
よい組織のリーダーとは、命を真ん中においたクライシスマネジメントができる人。組織を優先させず、一個人としてのまっとうな感覚を保持したまま、個々が幸せに生きるために組織は存在するということを忘れずにいる人だと言っています。
わかるけれど、右を見ても左を見ても組織を優先する人だらけ、どうすればいいのでしょう?

防潮堤が充分とされて許可された女川原発

例えば石巻市長、敗訴の後、市長は初めて遺族に謝り、危機管理に不備があったことを反省すると言ったのですが、1年もしないうちに被災地では初めての、女川原発再稼働を許しています。理由は、国からお金が落ちて地域が活性化することだとしていますが、事故が起こったらどうするのか、そのことには目をつぶっています。つまり、津波の危機管理マニュアルをつくっていなかったのと同様に、「どうせ事故は起こらないだろう」と「正常性バイヤス」が働いて、避難計画もないままに、最悪を想定することを避けているのです。

では、リーダーを選ぶことではなく、個人としてはどうすれば災害を回避できるのか?
それについては、「確信が持てないときは、悪い方の想定を採用する」と説いています。「来るかもしれない、来ないかもしれないと迷ったときは、迷わず来るかもしれないを選ぶ」のです。
大川小学校でも、空振りになるかもしれないけれど、来る方を採用していれば、全員助かったというのです。


実際に災害が来たとき、どう対応したらいいかについては、『人が死なない防災』(片田敏孝著、集英社新書、2012年)が役に立ちます。
著者の片田さんは防災研究をしている方で、釜石市の小中学校で震災前から防災教育をしていました。
釜石の港に津波が来たとき、片田さんの言葉を守って、学校にいた子どもたちは全員命を守ることができました。また、大丈夫だという祖父を泣いて説得したり、幼い子の手を引いて逃げた子どもたちもたくさんいました。

片田さんは、津波は必ず来る、その時自分の命を守るのは自分しかないと説き、防災の3原則を、子どもたちに徹底的に理解させました。

3原則その1「想定にとらわれるな」

まず、ハザードマップを配りながら、ハザードマップを信じてはいけないことを説きます。ハザードマップを見て、自分の家が避難区域に入っていない子どもはすぐ喜んでしまいがちですが、「これはあくまで明治時代に来た津波のこと。いつ防潮堤や防波堤を越える津波が来るかもしれない」と話を進めます。
ハザードマップを配りながら否定するという流れで、子どもたちは固定観念を持っている自分に気づくことができます。
3原則その2「最善を尽くせ」
次に来る津波がどんなものかわからない。もしかしたら死ぬかもしれない、でも最善を尽くせと説きます。
普通、がんばれば好転すると説くものなのに、「がんばれ、でも死ぬかもしれない」と話すのはいかがなものかと問題になったこともあったようでしたが、子どもたちにはより真剣に受け止められる効果があったようです。
3原則その3「率先避難者たれ」
その1とその2は、自然災害に対する「姿勢」ですが、姿勢が行動に結びつくとは限りません。そこで、子どもたちに、「最初に逃げろ。何を置いても真っ先に自分の命を守れ」と伝えると、子どもたちはけげんな顔をして、「自分だけ逃げていいの?」と訊き返すそうです。そこで、「学校の非常ベルが鳴ったとき逃げたか?」と訊くと「逃げなかったよ」という答えが返ってきます。
非常ベルが鳴っても、また訓練かとか誤作動かと思い、自分が危険な状況に置かれているとは思いたくないので、「正常化の偏見=正常性のバイヤス」が働いて、最初に届いたリスク情報を無視します。
そして、火事だとか、津波が来るという、二次情報、三次情報がやってきて、やっと避難を開始します。片田さんは、
「人間は元来逃げられないんだ。みんなが「大丈夫だよな」と言いながらその場にとどまっていると全員が死んでしまう。だから最初に逃げるのはすごく大事なこと。だけど、これが難しい。考えてみよう。非常ベルが鳴って最初に飛び出すのって、かっこ悪いだろ。だいたいが誤報だからね。戻ってきたらみんなに冷やかされる。そんなこと考えると逃げたくなくなるよね。でも本当に災害が起こったとき、みんながそう考えていたら全員死んでしまう。だから君は率先避難者にならなくてはならない。人間には「集団同調」という心理もあって、君が本気で逃げれば、まわりも同調して逃げはじめる。つまり君が逃げるということは、みんなが助かるということにつながるんだ」
と、話します。

そして、片田さんが釜石に通い始めて8年目に巨大地震が起こります。
釜石の大槌湾の近くに、釜石唯一の中学校の釜石東中学校があります。その隣には鵜住居小学校があります。
釜石東中学校はその日、校長先生が不在でした。教頭先生がすごい揺れの中、床を這うようにして放送卓まで行ったのですが、停電のため放送はできませんでした。しかしそのとき、すでに、生徒たちの廊下を駆け抜けていく足音が聞こえました。
教頭先生がやっとつかんだハンドマイクで校庭にいる生徒たちに避難指示を出そうと立ち上がったときは、生徒たちはすでに全力で走っていました。ある先生が「逃げろ!」と叫んだのを聞いて、最初に逃げたのはサッカー部員たちでした。グランドに地割れが入ったのを見た彼らは、校舎に向かって、「津波が来るぞ!逃げるぞ!」と大声を張り上げ、そのまま走り始めて鵜住居小学校の校庭を横切ります。そして、小学校の校舎に向かって、「津波が来るぞ!逃げるぞ!」と声を掛けながら、避難場所に決められた「ございしょの里」に向かって、全力で走っていきました。
サッカー部員たちは、「率先避難者」となったのです。

鵜住居小学校の3階には自動車が突き刺さっており、津波は屋上を越えていた

鵜住居小学校は、耐震補強が終わったばかりの鉄筋コンクリート3階建てで、ハザードマップでは津波の来ないエリアにありました。当日は雪が降っていたこともあって先生方は児童たちを3階に誘導していました。ところがこの2つの学校は、普段から合同で「ございしょの里」まで逃げるという避難訓練をやっていました。
小学生たちは、日ごろ一緒に訓練している中学生たちが全力で駆けていくのを窓から見て、3階から降りてきてその列に加わりました。結局約600人の小中学生が「ございしょの里」」に向かいました。


この地方では、津波に一番詳しいのは中学生ということになっていました。学校の近所に住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんたちも、その中学生たちが血相を変えて逃げていく光景を見て、一緒に逃げ始めました。
同じ地域にある鵜住居保育園でも、保育士さんたちがゼロ歳児をおんぶして、ほかの小さな子どもたちを5、6人乗りのベビーカーに乗せて坂道を上がりました。中学生はベビーカーに乗れない子どもたちを抱き上げたり、押すのを手伝いながら、みんなで「ございしょの里」に入りました。

津波の後の「ございしょの里」。左側の山は崩れている

ところが、「ございしょの里」の裏の崖が地震で崩れかけていたのに気づいた中学生が、「先生、ここ、崖が崩れかけているから危ない。それに揺れが大きかったから、ここも津波が来るかもしれない。もっと高いところに行こう」といいました。


さらに高台に、「やまざき機能訓練デイサービスホーム」という介護施設があります。子どもたちが、「先生、やまざきに行こう、やまざき」と言いはじめますが、そのころには津波は町に到達していて、防波堤に津波が当たって水しぶきが上がる光景が見えました。家々が壊れ、土煙も上がる光景も見える。それを見た小学生が、「あぁ、ぼくんちが!」と泣きじゃくるような情景でした。みんなは懸命に「やまざき」をめざしました。
どうにかこうにかみんなが「やまざき」に逃げ込んだ直後、津波は「やまざき」の手前までやってきて、そこでがれきが渦を巻いていました。

海は写真の右にあり、この方向には見えない。子どもたちが見ているのは家を倒しながら渦を巻く津波

それを見た瞬間、子どもたちは移動を開始、懸命に逃げ、さらに高台にある石材店まで行きました。
やまざきも津波に吞まれ、本当にギリギリのところで全員が生き延びることができました。もし、ハザードマップを信じていたら、2つの学校の生徒や児童は逃げることもせず、1人も生き残ることができなかったことでしょう。


しかし、片田さんはまだまだだったと反省しています。子どもたちに防災教育をしているけれど、子どもを通して大人たちにも防災教育をするのが目的なので、釜石で1000人もの死者が出たことを残念がっています。
とくに、津波のハザードマップで津波が来ないとされた地域で大勢の死者が出てしまいました。また身体の悪い高齢者や介護施設の釈院なども逃げられなかった、それらの人たちを救えなかったのです。
子どもたちの家族とは、日ごろから、災害のときは子どもや親の安否を気にしない、各自で全力で逃げると取り決めていたので、ほとんどの親たちも無事でした。
しかし、当時中学生で今は「いのちをつなぐ未来館」で防災のために働いている菊池のどかさんは、もっと親たちと徹底して話し合うべきだったと反省しています。というのも、子どもたちが避難している写真の後で、海の方を向いている車は、子どもたちを迎えに来た保護者たちだったというのです。

どちらの本でもいえることは、主体性を持つということでしょうか。
自分の生存を、防潮堤があるからとか、政府が安全だと言っているからなど安易に信じないで、何ごとも自分で主体性を持って考えてみる。そうすれば、原発の稼働をどう考えたらいいのか、自然災害はあるけれど、その自然が豊かな実りをもたらしてくれている日本でどう生きたらいいのか、コロナにはどう対応したらいいのか、オリンピック・パラリンピックはどう考えたらいいのか、自然に答えが出てくるような気がします。

ちなみに、何度も山へ逃げようと提案しながらも聞き入れられず、最後部にいたため反射的に山へと逃げて生き残った大川小学校の教師は、児童たちを死なせ、市教育委員会に強要されたとはいえ嘘の証言をし、自分だけ生き残ったことを責めて、今でも立ち直れていないそうです。








 

6 件のコメント:

かねぽん さんのコメント...

おはようございます。
大川小学校の件に関しては、時々テレビでも報道されていて、その度に色々考えさせられました。
既に起こってしまった出来事について分析するのは比較的簡単だと思います。でもこれからどんな事が起こるかなんて誰にも分かりません。いろんな可能性がある中で、たまたま誰かが唱えたひとつの説が的中したからと言って、それは結果論に過ぎないと思います。最悪の事態を想定しろと言われても、対策にかかる費用や時間・労力を考えると、始めから諦めた方が良いような気もします。災害がいつか起こったとしても、それまでの間平和に暮らしていければ幸せなのではないかと。僕には大川小学校の教師達を責める気にはなれません。
僕自身は人間不信のかたまりで、自分しか信じていないので、いざとなったら真っ先に逃げると思います。でもそれは自分の命が惜しいからと言うより、他人に自分の行動を支配されるのが嫌だからに過ぎません。世の中の大部分を占める、素直で従順で協調性を持った人たちに、いきなり自分で判断して行動する事を期待するのは難しいのではないでしょうか。

さんのコメント...

かねぽんさん
この本も、教師たちを責めているのではないと思います。
ただ、確かに、分析して何かを導き出しても、その通りに世の中は動きません。かねぽんさんのように、自分で考えられる、自分のことは自分で決定する人が一人でも多く増えたら、もっと楽しい世の中になると思われるのに、状況に応じて、集団であるいは匿名でいじめやヘイトクライムに走る人が後を絶ちません。
素直で従順で協調性を持つ人たちも、同調した結果何が起こるかということを考えるべきだと思います。
前にも書いたような気もしますが、今頃第二次世界大戦の大空襲の償いをしろと国を相手どって訴訟を起こしている人たちは、そのこと一つとっても、自分の命を自分で管理せず、国にゆだねてしまっているような気がしてなりません。そんな人たちが戦争の真の推進者だったような気もしてしまいます。
ひねくれた意見ですが。

hiyoco さんのコメント...

息子の高校は内陸の高台にあるので、大きな地震があったら学校に留まって家に戻ってきてはだめだよと言ってあります。

さんのコメント...

hiyocoさん
そうそう、息子くんが高校で安心していられるよう、hiyocoさんも一生懸命逃げましょう(笑)。
それにしても、気象が狂ってきているとは言え、あれは1000年に一度の津波だったと、つい安心してしまいそうになりますが、実際には海でも山でも、日本に住んでいる限り、何が起こるかわからない。何が起こっても最善を尽くす以外ないですね。

rei さんのコメント...

要点を捉えてとてもわかり易く書いて頂きありがとうございました。

素直で従順な子供達が従わなければならないのは大人達です。幼い子供達にとっては大人の判断が絶対なのです。大人は決して判断を誤ってはいけない。

釜石東中学校のサッカー部員達が、日頃の訓練を活かして、周囲に避難を呼び掛けながら走り続けた様子を想像して鳥肌が立ちました。
正しい判断をして率先避難をした例は、他の地域でも見られた様です。

様々な災害の場で、先ずは自分の身を守る事と同時に守ってあげなければならない存在もあります。自分が生き延びても、大切な存在を守れなかったら、生き延びた事を悔いるでしょう。大川小学校で唯一助かった先生の様に。

さんのコメント...

reiさん
校庭にいた先生たちの心理、「正常性バイヤス」+「経験の逆作用」+「他の脅威への危機感」+「逆淘汰」→「超正常性バイヤス」への一連の流れは誰にの起こるものだから、だからこそ日ごろからの訓練やマニュアル、そしてマニュアルのつくり方などが大切ということがよくわかる本でした。読むことを勧めてくださってありがとうございました。
マニュアルって、往々にして長くてめんどくさくてわかりにくいものですよね。あんなものではなく、防災マニュアルというのは、「危険な場合すぐ行動をおこせ。最悪の場面を想定して、さらに最善を尽くせ」というだけで、十分だともわかりました。もちろん、日ごろから周りをよく観察しておかなくてはなりませんが。

それにしても、そこら中にあるいわゆる組織、こちらの体質はどうしたものか…。
私はその昔、省庁の外郭団体が援助の指針としてつくる冊子づくりの委員会のメンバーになったことがありました。「カンボジアの農業の現状」といったもので、私は現場を知っている者として末席をけがしていました。10人ばかりのメンバー(専門家や学者)で月1で1年ほど会合を持って、ドラフトもできたころ、委員ではない人がオブザーバーとして出入りするようになりました(どこの人かは、一応伏せておく)(笑)。
私は大(中?)規模灌漑をつくることの弊害(生態系が壊れる、水代は農民が負担するのでアクセスできる人とできない人ができる、メンテが大変、農薬・化学肥料を使う品種しか栽培できなくなる、などなど)説明し、それがカンボジアの農業を破壊することはほかの委員も納得していたのに、委員会が終わり、しばらくして送られてきた冊子は、ドラフトとはまったく別もので、一から作り変えられていました。
1年をかけて話し合ったのは何だったのか。つまり、日本政府としては、灌漑設備をカンボジアに売り込むというのが、援助する云々の前から決まっていて、「ちゃんと調査はしたよ」というために冊子をつくっていたのです。多くの人は誤解しているのだけれど、「援助」はされる国のためというより、日本の企業が在庫として抱えている古い機械を政府が定価で買い上げたり、退職後の専門家を高い給料で雇ったりでき、しかも海外に対しては援助しているという形が整うので、一石二鳥以上のものなのです。
まぁ、世の中こんなものとあきらめずに何とかしなくてはならないのですが、どこから手をつけたらいいのか(笑)。