2025年4月17日木曜日

やられてしまった!


台所の壁に、お土産にもらったペルーのトウモロコシと豆を飾っていました。


ふと見ると、何てこと、虫に食われてぼろぼろになっていました。


豆ではなく、トウモロコシが狙い撃ちされていました。


入りきらなかったのをビンに入れていたものは、色は褪せているけれど、虫の被害がなかったので、虫は外から入ってきたようです。


気に入っていたのに残念、細い木枠は使えそうだけれど、下に敷いていたコルク板はボロボロになっていて、


厚みを出すために入れていた段ボール紙なども全部焼きました。


額縁は深さがあり、プラスティックではなくガラスの入ったものだったので、捨てるのはもったいない、何かを入れようと思いますが、いい案がありません。


日本の豆の額は、思ったより地味で面白くなかったけれど、この豆を真四角の額縁に入れ替える手もあります。

追記:

ビンに入れていて、虫の被害に遭ったものもありました。ときどき冷凍したら被害に遭わずに済んだのかもしれません。





 

2025年4月16日水曜日

『八郷の住文化』から見る八郷の文化


ゆみこさんから、
「実家の整理をしていたらあった冊子ですが、要りますか?」
と、『八郷の住文化』(一色史彦、藤川昌樹著、八郷町教育委員会発行、1998年)をいただきました。


S集落で全戸の詳細な調査をして、八郷の集落のイメージをつかみ、また八郷全体に見られる時代ごとに違う建築様式の、式台玄関、商家の下屋庇(げやひさし)、門の形式、床・棚・付書院、せがい造、格子窓、うだつ、大黒柱、田の字、かまど・いろり、母屋と離れ、などなどについてその特徴が書かれています。


写真はI家の見事なせがい造ですが、せがいは江戸時代には贅沢なものとして、禁止されていました。長い材木や、薄い板などをつくることが、技術的に難しかった時代だったからです。


歴史のある家は、住みやすいように時代とともに改築されていることがよくあります。土間を狭くして一部に床を張る改築などが施され、かつては農作業の場所として必要だった広い庭が、農業様式が変わることによって不要となり、離れが建てられたり、庭の一部が山水の庭に替えられたりしているものについて、改築前の姿を家主に聞き書きすることによって、家と人の生活の歴史が感じられます。


図面つきの写真は、詳細調査した集落の建物たちですが、上の写真、S家の傘の骨のような茶の間の天井の装飾には驚かされます。今でも残っているのでしょうか? のこのことお邪魔したくなってしまいます。
どの家も、大工さんたちが随所に腕を見せていて、見ごたえがあります。


この調査がされたのは、1990年代の後半でした。それから四半世紀以上経っていて、取り壊されたり建て替えられたりした家も多く、消えていくのを目の当たりにしてきました。
上の写真、旧家のSさんの母屋は大きくて立派な茅葺き屋根でしたが、ずいぶん前に瓦葺きに葺き替えられてしまいました。
以前、我が家の建設を手伝いに来てくれた宮城大学の学生たちと見学させていただいたことがあったのですが、その時のお話では、かつては長屋門も茅葺きだったとのこと、おそらく長屋門はもっと背が低かったはず、さぞかし素敵なたたずまいだったことでしょう。


また、こちらのKさんのお家にも何度も訪問させていただいたことがあり、上記の学生たちと一緒のときはお話も聞かせていただきました。背に山を抱き、庭に池があり、母屋と隠居(離れ)の茅葺きの屋根が美しい家でしたが、5年くらい前に、惜しまれながら建て替えられてしまいました。

『八郷の住文化』の巻末には、八郷を48の集落に分けて、居宅(母屋)だけでなく、倉庫、物置(納屋)、浴室、便所、工場、店舗、畜舎、肥料舎、長屋門、土蔵、養蚕室、乾燥室などなど、35項目にわけて、江戸時代と、明治元年以降は10年ごとに区切って、戦後の1947年までに建てられた建物の表が掲載されています。

例えば、私の住むK集落で居宅だけを見ると、
江戸期に建てられた家が8軒、
1867-1877年が15軒、
1878-1887年が4軒、
1888-1897年が2軒、
1898-1907年が6軒、
1908-1917年が24軒、
1918-1927年が9軒、
1928-1937年が11軒、
1938-1947年が8軒、
となっています。
1908年(明治41年)から1917年(大正6年)にかけて建てた家が24軒ともっとも多くなっているのはなぜでしょう?
これまで、集落の歴史を古老などに訊く機会はあったのですが、八郷あたりが他県の農村と比べて大きくてりっぱな家が多い理由ははっきりしませんでした。はっきりしないながらも、近代は養蚕で財を成したのではないか、そして昭和期には煙草栽培ではないかと推測していましたが、この本の表を見て、わかったことがありました。1900年前後に、畜舎の建設や、肥料舎の建設などが急増していることから、どうやら畜産によって、家を建て替えるほどの財を成したことがわかりました。
畜産は、乳牛や豚ではなく、おそらく日清戦争(1894-95年)や日露戦争(1904-05年)に必要とされた軍馬や牛を育てたものと思われます。村には軍馬の慰霊碑も立っています。
八郷では、ほかに林業や煙草栽培は広く行われたものの、養蚕は全体を通してそう盛んではなかったとわかりました。

入り組んでなだらかに起伏のある八郷盆地。お米は潤沢に採れ、野菜や果樹を栽培する土地、萱場、焚き木取りの山にも事欠かなかったことに加えて、盆地であったために、古来より戦の戦場にはほとんどならなかったことが、飢餓とは無縁の豊かな生活を積み重ねることを可能にしてきたのでしょう。

ゆみこさん、貴重なご本をありがとうございました。







 

2025年4月15日火曜日

へそ天で寝てみました

猫には、名を呼ぶと、口は「にゃぁ」と動かしながら声を出さない仕草があります。
先代猫のトラは、呼ぶと口を動かすのでそれがかわいくて、何度も名前を呼んだりしていましたが、タマもマルもまったくその気配がありません。2匹でいるせいか、自分の名前すらわかっているのかどうか疑問です。
先日、織物教室の庭で出逢ったお隣の三毛猫、呼ぶたびに声を出さずに口を動かしていました。声を出さずに口を動かす猫と久しぶりに出逢いましたが、いっしょにいたゆみこさんの話では、この三毛猫は声を出さずに口を開けているのではなく、年取って、何らかの原因で声を失ってしまったけれど、かつてはにゃにゃぁとうるさかったとのことでした。
タマは、食事を準備しているとき、小さいころから鳴きながら歩き回って「早く!」と催促していましたが、最近はあまり鳴かなくなりました。マルは、車に乗せたときに声を出すだけなので、病院に行くときでもなければ、声を聞くことはありません。猫それぞれです。

我が家の歴代の猫たち、ほとんどあおむけ、いわゆるへそ天で眠ることはありませんが、先日タマがへそ天で寝ていました。


「いいねぇタマちゃん、平和だね」


いやはや、デスクの周りにはものがあふれているねぇ。


へそ天はこの日だけ、いつもは腹ばいか横向きで寝ています。


マルは香箱座りをよくしていますが、タマはあまりしません。
猫それぞれです。








2025年4月14日月曜日

交差する日常(というタイトルの記事)から

本日は、読むのが楽しみな、でも見ず知らずの、チベット圏を中心に旅する骨董屋さんの、ちょっと前のブログを勝手に丸写ししてみました。
その骨董屋さんは、私には無縁の古い宝石(やチベットの布)などを扱っていらっしゃいます。
電柱の写真も、骨董屋さんのものです。
他人のブログを丸写ししてもいいのかな? 
以下、骨董屋さんの文です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


SNSやブログやニュースなど全て、
インターネット上では
自分の役に立つ情報を求めるのが常識かもしれません。

僕は意味もない言葉を
世の中に放っているだけでしょう。

分かっておりますが、
あえて書いております。

誰も読まなくとも
僕は書いているのです。

どこにも見せず、
どこにも見せる予定もない事も
ひたすら個人的に書いているのです。

ブログは、
それらの一部です。


---


重い朝

ずっと夢を見ていられるなら
目なんか覚めなくて良い。

憂鬱で冷酷な現実では
まとわりつく運命を振り解くため
毎日を足掻く

遠くへ行けば、
この忌まわしい運命とは
オサラバできると思っていたが、
日本の日常へと
ブーメランのように舞い戻ってしまう。

何度、繰り返したのだろう

毎回、帰国した日本の空港で自分を呪う

.

近くの街に出来た新しいカフェ

二つ隣の席から耳障りの悪い音が聞こえる。
カタカタ、ガタガタ
机とスマートフォンがぶつかる連続する音。
静かな店内に響き、続く音。

隣に座る、綺麗な白髪をした年配の女性はチラチラと目を向ける。
気になっているようだ。
周りの客も黙っている。

音の正体を見れば、
中年女性がゲームをしている。
机に置いた不安定なスマホを連打する指と連動して
振動と共に音を立てる。

「うるさいです」と僕は言う。

ポカンと間抜けな表情をした小太りの女性。

誰も何も言わないのは何故だろう。
我慢しているのだろうか。
それとも気にしていないのだろうか。

少し前に、
電車の車内で、
タバコを吸う男性が居た。

空いた車内の周りの乗客は黙って見ぬふり。
危害を加えられるのを恐れているのかな。

僕は席を立ち、彼の目の前まで行き、
次の停車駅でつまみ出した。

変な奴が増えた。

黙っている人々にも、
不気味さを覚える。

自分の意見を言う時は、
顔の見えないネットでの匿名投稿

表面的には見えない感情
裏ではドス黒い闇が溜まっている

Xだろうが
スレッズだろうが、
すぐに純粋な情報は失われ、
噂話や
誹謗中傷で埋め尽くされる。

誰かが失態を犯すと、
徹底的に叩きまくる。

「韓国も同じだよ」と
何処かで会った韓国人のレントゲン技師は言っていたっけ。

どの国でも同じかもしれないな。

少数派の雑音と言われてるが、
本当にそうなのだろうか。

それぞれの心に潜む闇が
一部から滲み出ているのかもしれない。

日本人の美しいところは、
人を思いやる気持ちだったはずだが、
僕らは何処に向かっているのだろう。

.

窓の外を見ると、
右へ左へ
忙しく行き交う人々。

景色の先では、
緑色の制服を着た男性二人組が
駐車禁止を取り締まっている。

この目に映る人間たちは
何を考えているのだろう。
恐ろしく思えてくるのは僕だけか。

海外だって?

ニュースやネットで見るだけで十分かもしれない。
日々の日常をこなすのも精一杯だ。

日本での日常が充実していれば、
わざわざ、面倒で金のかかる海外なんて行く必要はない。
僕が勝手に好き好んで、遠くを見ているだけなんだ。

.

イスラエルがシリア領土内に侵攻した時、
海外では緊急速報のニュースで溢れていた。

日本に戻ると、
メディアで報道しているのは、
子供の名前の人気ランキングだ。

円安が当たり前になってしまい、
外国人旅行者が街には溢れ、
何万人という人間が死亡したと羅列される数字の後に
ガソリン代が高いとニュースでは報道する。

英語での報道では膨大な量の世界の情報が溢れている。

日本では芸能人のゴシップだの、
何処かの会社の失態ばかりを
コメンテーターという肩書きの人間が評論する。

世界では、
アメリカの大統領の演説で
飛び跳ねながら登場する世界有数の大富豪。

おいおい、どっちもすごい事になってんな。


イスラエルとガザでの問題が始まった時、
僕がアメリカの報道で見たのは、
捕らえられたイスラエル人女性の遺体に唾を吐くガザの少年。

長年続く根深い問題は、
今さら表向きの停戦をしたって
取り返しがつくのだろうか。

日本の役割だって?
人道的配慮だって?

遠くからは幾らでも言えるさ。


そもそも、
イシバ総理ってのは誰だ。

日本のトップだって?
冗談、言うなよ。


世界も日本も、
どうなっちまってるんだ。


今日は、
熱い風呂に入り、
猫か芝犬の動画でも見て、
ゆっくり眠るとしよう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 









 

2025年4月13日日曜日

日本のおもちゃ売り

ドイツでは、木彫りのおもちゃを売り歩くおもちゃ商人がいたようですが、日本にはどんなおもちゃ行商人がいたのでしょう?
私の大叔母が、小さいころ節句が近づくと、おもちゃ行商人が土人形を入れた「ふご」を天秤棒で担いで、売りに来ていたと話してくれたことがありました。重くて大変だったろうと思ったことでした。


ネットで見つけたのは、歌川広重の描いたネズミ売りです。
あれっ、おもちゃを買っているのは誰かしら? 歌舞伎役者? 
古い絵で見ると、多くの行商人は一種類のおもちゃしか商ってなかったようです。
「弾き猿(はじきさる)」は今でも(もう消えている?)ありますが、ネズミが跳ねるおもちゃは見たことがありません。広重の時代、ネズミが跳ねることに、何か意味があったのでしょうか?


「弾き猿」は、厄や難を「弾き去る」に引っかけてつくられました。
神社の授与品が多く、東京葛飾の柴又帝釈天、宮崎の住吉神社、鹿児島神宮など、日本各地の神社でつくられ、授与されました。


この弾き猿をどこで手に入れたものか、忘れてしまっています。
なんとなく熊本県日奈久のおもちゃだったように記憶していますが、違っているかもしれません。柴又の帝釈天の弾き猿も鹿児島神宮の弾き猿も持っていましたが、紙がちぎれたり竹が折れたりして、失せてしまいました。


ここからは、『日本の人形と玩具』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1975年)に掲載されていた絵です。
享保年間の「手車」売りです。手車とはヨーヨーのようなもの、というかヨーヨーの前身で、行商人は太鼓をたたいて、子どもを集めてから口上を述べました。


これも手車です。


これは「豆蔵」売り、豆蔵とはやじろべえの前身です。これも享保年間のおもちゃ売りです。



これは都鳥を売っている行商人です。
この手のおもちゃは紙でできていて、ぶんぶん振り回すと音が聞こえます。

『日本の人形と玩具』より

上は江戸時代ではなく、明治38年(1905年)の、おもちゃ売りの絵です。
風船屋はパラシュートのようなものを売っています。ほかにちょうちょ売り、ツバメ売り、鳩ポッポ(ってどれ?)売り、だいたい軽いものを持って行商しています。ツバメは上の都鳥のように、振り回して遊びます。


ちょうちょは棒の先につけて、ひらひらさせたようです。

一つ上の絵の、奥に見える天秤棒を担いでいる人の籠の中には、舟のおもちゃらしきものが見えるのですが、土人形も持っているのでしょうか? 私的にはこの人に一番興味があります。同じ絵の、おもちゃ商人たちの後に見えるのは、店を構えている人形屋さんで、お雛さまの掛け軸が見えています。


さて、これがツバメのおもちゃです。
口の先の金属の板と尻尾が竹ひごでつながっていて、身体と羽は紙、尻尾は経木でできています。


振り回すと、風を受けて尻尾が回って、金属板と頭につけた針金の突起がぶつかり、「ジージー」と大きな音をたてます。


なかなか楽しいおもちゃです。


ツバメとともにほかの鳥たちも取り出してみたら、本当の鳥の羽をつけた鳥の、1枚の羽が虫に食われてボロボロになっていました。


折れそうになっていましたが、


手に取っているうちに折れてしまいました。しかたない、残りも引き抜いてみると、ただ指してあっただけでした。今度誰かに鶏の羽をもらって修理します。ただ、羽を差し込んであるだけですから修理は簡単です。

話がすっかり逸れてしまいました。







2025年4月12日土曜日

男の子、女の子


木彫りの男の子と女の子の人形は、やはりドイツのエルツ山地のザイフェンでつくられたものです。
男の子は我が家で日焼けしてしまいました。


ハーン工房でつくられたもので、丁寧に彫った頭部つきの身体と、脚と両手とが別々につくられています。


脚は稼働できるように、身体に切り込みを入れて接続して、手は洋服でつなげて、動かせるようにつくられています。


脚は、ゆるくはめるとぐらぐらして立てないし、固いと座れない。いい塩梅にできていますが、男の子はズボンが邪魔をしてこれ以上曲がらず、やっと後ろに倒れない状態だけど、脚が浮いてしまっています。
木を彫り出して、彩色して、髪の毛をつけ、洋服を着せてと、なかなか手の込んだものです。

エルツ地方は、第二次世界大戦後に東ドイツに組み込まれました。東ドイツでは従業員数が10人を超えた企業は国営企業になるため、それを嫌った玩具職人たちは、先祖代々の家内工業を守り、小さな工房での玩具つくりに徹しました。
皮肉にもこの国策が幸いして、ザイフェンでは商業主義的な近代化に侵されることなく、この地の伝統的なものづくりが生き残りました。
1971年に東京の吉祥寺で創業した、ヨーロッパの玩具販売店の先駆けである「ニキティキ」は、東ドイツ時代には、ザイフェンでつくられたおもちゃは、それを取りまとめる西ドイツの商社から輸入していたので、いったいどんなところで誰がつくっているのか、まったく知ることがなかったそうです。
1990年の東西ドイツ併合後は、各工房との直接取引が可能になり、この人形たちがハーン工房でつくられたことが分かったという次第でした。

krtekより借用

ハーン工房では、今でも同じ人形がつくり続けられています。


いつのまにか我が家に来ていたザイフェンのおもちゃたち、その多くは東ドイツ時代のもの、クリスマス飾り以外のものは、子どもたちが遊んだり、日常的に飾っていたりで、塗装が剥げてしまったものもあります。







2025年4月11日金曜日

ザイフェンのおもちゃ商人とノアの方舟


ドイツ、ザイフェンのヴェルナー工房の「おもちゃ商人」です。


頭で支えた背負子には、ザイフェンでつくられた木のおもちゃが満載されています。背負子を背負うと帽子がかぶれないので、帽子は背負子に引っかけています。


この人形は高さ9.5センチほどです。だから、商人が担いでいる人形たちも、とても小さいのです。中段の人形「天使と鉱夫」で直径4ミリ、下段の人形たちは直径3ミリほどしかありません。
くるみわり人形、棒馬、そして轆轤で挽いてから切り分けてつくった動物もいます。


背負子の両脇に下げ、手にも持っているハンぺルマン(紐を引くと手足が動く人形)の身体の厚みは0.7ミリほどしかありません。


頭の上に乗っているのは、積み木が入った箱です。


ザイフェン地方は、15世紀から鉱山で栄えました。しかし、全盛期においても生活は厳しく、山の中で木が豊富にあったので、副業としてボタンをつくるなど、木工で収入を得ていた人もいました。やがて鉱山は輸入金属に押されて衰退、炭鉱夫から木工職人へと仕事を変える人が増えるなか、1849年には鉱山は閉鎖されました。
ザイフェンで、初めて木のおもちゃがつくられたのは1750年ごろで、18世紀後半にかけて大きく発展しました。おもちゃの種類は数千にも及び、ドイツ各地でもてはやされました。子どもたちは、おもちゃ商人が来るのを、どれほど待ちわびたことでしょう。


1850年ごろにつくられた「ノアの方舟」セットは、舟の形の箱にミニチュアのペアの動物たちを詰めたおもちゃで、何もしてはいけない、おもちゃを手にしてもいけない安息日(日曜日)にも遊べるおもちゃとして、国外でも大ヒットしました。
このころからザイフェンではくるみ割り人形や煙出し人形など、クリスマスシーズンのおもちゃ制作に力を入れるようになりました。


1880年ごろに、アメリカやフランスなどの主要な輸出先が、商品の価値に応じた関税ではなく、重量に応じた関税を導入しはじめました。そのため、大きくてかさばるおもちゃを輸出することが難しくなり、おもちゃはミニチュア化して、マッチ箱に入ったおもちゃなどがつくられるようになりました。
今でもザイフェンのおもちゃに小さいものが多いのは、その時の名残なのでしょう。

挿絵はガース・ウィリアムズ

さて、ローラ・インガルスの『プラム・クリークの土手で』(福音館書店、1973年)のなかに、お金持ちのオルソン家でパーティーが催される章があります。ローラは生まれて初めてパーティーというものに参加しますが、ネリー・オルソンが意地悪して人形(おそらく大変高価なビスクドール)に触らせてくれないことから、険悪な雰囲気になります。その場面の挿絵の、ネリーの足元にはネリーの弟のおもちゃであるノアの方舟が見えています。
このときローラは7歳なので、1874年のことです。ノアの方舟はザイフェンでつくられたもの、後ろの男の子が遊んでいる、飛んだり跳ねたりするジャンピング・ジャックも、ザイフェンでつくられたものではないかと思われます。そして、ネリーの持っているビスクドールもヨーロッパからのもの、こんなアメリカの中部の開拓村という辺境の地にも、船と鉄道、そして馬車を使ってヨーロッパから輸入されたおもちゃが運ばれていたのです。


『プラム・クリークの土手で』のほかのページには、ノアの方舟に乗っていたとみられる動物たちも描かれています。


轆轤でドーナツのように挽いてから切り分ける方法はランフェンドレーンと言います。切ってみるまでは形がわからないので、轆轤技術はもとより、つくっているときは見えていない動物の形を挽かなくてはならない、とても技術の要るものです。

2022年現在で技術を持つのは6人だけ

ヴェルナー工房の先代ウォルターさんは、木工や彩色の技術、そして格調の高い風俗人形をつくる職人さんでしたが、2008年に亡くなられました。しかし、その後を継いだ長男さんは、
ライフェンドレーンの名手だそうです。そして、次男さんがヤジロベーなどの動くおもちゃの名手、三男さんがウォルターさんの仕事を直接ついだ、おもちゃ商人のようなフィギュア(フィギュリン)をつくっていらっしゃいます。



これは、ヴェルナー工房のノアの方舟です。方舟の大きさが25センチくらい、動物たちはランフェンドレーンの方法で切り出してから手で彫って、丁寧に形づくられ彩色されています。


上の写真はドイツの
バイエルン州立博物館の木のおもちゃの展示です。側面が開くノアの方舟が素敵なのはもちろん、ジャンピング・ジャックやハンぺルマンなど、どれも素敵です。


栃木県壬生町にあるバンダイミュージアムのワールド・トイ・ミュージアムに展示されているザイフェンのノアの方舟は1880年代に制作されたもので、なんと方舟の長さが1メートルもあるそうです。
動物の数もすごい! いつか見に行ってみたいものです。