2025年8月2日土曜日

安倍川もち

夏休みで九州からきている息子が、所用で静岡に行ってきました。
「お土産に何か欲しい?」
「安倍川もち」
即答です。
静岡と言えば、安倍川もちかなぁ。駅の売店でも売っているので、手に入れるのはそう難しくないはずです。


というわけで、『東海道中膝栗毛』の主人公のひとりの「喜多八」が描かれた包装紙の安倍川もちを買ってきてくれました。


あれっ、この前食べたときは、個包装にも「喜多八」の絵がついてなかったかしら? 
いつ食べたのだろう? しばらく食べないうちに、包装デザインが変わっていました。


中は変わらぬ姿、おいしくいただきました。




 

2025年8月1日金曜日

窓サッシが入りました

夫が設計して建設中のf邸の、居間の一番大きな窓ガラスを入れる準備が整い、台風の来る前にはめることになりました。
このサッシは、1間×1間のペアガラスで、木の窓枠も太く、大工さん2人だけでは持てない重さなので、運び手が必要です。そこで、息子たち、息子の友だちのKくんとともに手伝いに行きました。


玄関わきに置いてあったサッシを居間の位置まで運びます。
倒したりぶつけたりして傷つけないようにと、慎重に運びます。


外構工事がはじまっていて、テラスの基礎コンクリートを打つために、家の前は深く掘られているので、建物伝いに細い足場しかありません。


そんな場所で、サッシは横になっていたので、軒にぶつけたりしないように90度動かして立てて、レールに納めなくてはなりません。


1枚、収めることができました。
居間は、2枚が開け閉てできる窓で、1枚ははめ殺しです。


2枚目も、傷つけないように90度回転させました。


吸盤になっている持ち手を、持ちやすい位置につけなおし、サッシを持ち上げてレール上にのせて両側から金物(下から3番目の写真の右端にぶら下がっているのが見える)で留めて終了です。
長い間、防水透湿シートを張っていて、ここからは何も見えませんでしたが、やっと緑濃い田んぼや山並みを眺められるようになりました。






 

2025年7月31日木曜日

小さいシリコーンのへら

ジャムは、ビンの底をさらって食べきりたいのですが、匙ではうまくいかないので、小さなシリコーンのへらが欲しいと、ジャムが少なくなるたびに思い出していました。
大きいへらは持っていますが、ビンにやっとつっこんでも、大きすぎて身動きが取れません。


ショッピングモールに行ったとき、無印良品の店の前でふと小さいへらのことを思い出し、台所用品のところをのぞいてみると、手ごろなへらがありました。


お菓子づくりのへらと比べると、この細さです。
シリコーンのへらは、きれいにすくい取れるという意味ではすっきりできてありがたいのですが、なんとなく信用しきれません。


というのも、大きいへらは縁がいつのまにか細かく欠けているのです。
シリコーンは熱にも強いと言われていますが、熱いもの、たとえばジャムを煮るお鍋に入れて混ぜたりしたことはありません。お菓子をつくるときに最後に混ぜたり、生地をすくったりするときにだけ使っていて、そう力を加えてないのに、どうして欠けてしまったのでしょう? 
小さな欠片はお菓子生地に混じって、お腹に入ったに違いありません。と、のんきに言ってないで、これは捨てて、ほかのへらを試してみる方がいいかもしれません。


牛乳でつくることを再開したヨーグルトは、菌をできるだけたくさん生かしておくために、ビンは頻繁には洗わないで、使い続けます。すると、縁が汚れるのですが、それをきれいにするのに、小さいへらは超便利です。
もちろん、ジャムの最後の1匙をすくうのにも使っています。




 

2025年7月30日水曜日

鳴滝不動のお札


集落の氏神様である鳴滝不動のお札をいただいたので、古いお札の上に貼り足しました。


我が家の神棚には、諸国の神さまや仏さまが仲良く同席されています。


お稲荷さん、恵比寿大黒、天神さま、イコンや十字架のキリスト、ソロモン諸島の神さま、タイの仏さまやお坊さま、インドのジャガンナート三兄弟などなどが見えています。


インドのガネーシャも、轆轤で挽いたもの、陶器製、木彫り、石づくりなどいろいろありますが、これは紙を溶かして固めてつくった紙塑のガネーシャです。








 

2025年7月29日火曜日

お祭り


昨日は柿岡の八坂神社の夏祭りでした。
いつもは人通りのない商店街に人がいっぱい。そろそろ山車が動き始めていましたが、日暮れてからが本番です。
福岡からたけちゃん父子が来ていたので行ってみました。屋台の出ている通りを、神社の西半分往復したところで、本番前に引き上げてしまいましたが。


たけちゃんは、りんご飴を探していたのだけれど、歩いたところにはりんご飴屋さんはありませんでした。


お面を買ってもらって、チョコバナナを食べながら、写真を撮るお父さんに向かって、ポーズをとるたけちゃん。このあと、チョコバナナは半分も食べないうちに、悲しく路上に落ちてしまいました。

20年前に、知らずに買いものに行って一度だけ偶然に柿岡のお祭りを目にしたとき、山車の上で小さな子どもがひょっとこのお面をつけて見事に踊っていました。今年もあんな踊り手はいないかなと見まわしたら、遠くの山車の上に小さな姿が見えました。ところが近づいてみたら大人がひょっとこのお面をつけて、立膝で手だけで踊っていただけ、ちっとも面白くありませんでした。

お祭りや盆踊りには、もう長いこと行ったことがありませんでしたが、みんながはしゃいでるその裏に底知れない闇が見える、なんだかもの悲しいものでした。
屈託がないのは、子どもたちだけのようでした。







 

2025年7月28日月曜日

手芸の本

手芸関係の古書を扱っているネットショップが、イベント用の本が足りないからと、本の買取を希望していました。


長い間持っていた手芸や洋裁の本、お世話になった手芸や洋裁の本。もうこれらの本を見ながらつくることはなさそうなので、これを機会に再利用してもらうことにしました。


20冊を段ボール箱に詰めておくと、送料無料で集配してくれるので、本を選んでみました。手芸から広げて、趣味の本でもいいとのことでした。


日本と海外の手芸関係の本と絵本を扱っている店なので、買われて行っても本たちは、またの出番がありそう、そう思うと処分する後ろめたさが和らぎます。


祖母を喜ばせるために買って、何種類か一緒につくった手まりの本。東南アジアにも東アジアにも行ったことのなかった時代のジャワ更紗の本。染織の本がほとんどなかった時代の絞り染の本。古い本もいろいろです。
ジャワ更紗の本は作り方が載っているのに、体験したときはこの本の存在をすっかり忘れていました。
ちなみに、完成したバティクはこちらです。


おしゃれと無縁の生活をしている今では、着物のリメイクの本も要りません。


というわけで、らくらく40冊選びました。


そして集荷を待っています。





 

2025年7月27日日曜日

ヨーロッパスタイルの小さい籠たち


ターシャ・テューダー(1915-2008)の本の中で好きなのは、『暖炉の火のそばで』(トーバ・マーティン文、リチャード・W・ブラウン写真、食野雅子訳、メディアファクトリー、1996年)です。いろいろな手仕事が満載されています。

身軽く生活することにあこがれながらなんでも欲しがって「もの」を増やしてしまう自分を、常々、心の片隅で後ろめたく思っていたところ、あの年で、こんなにたくさんのものに囲まれた生活をしているターシャ・テューダーの存在を知ることは、大きな安心と共感をもたらしてくれたものでした。
ターシャは、息子さんに建ててもらった家で、たくさんの古い道具や家具調度、そして手づくりのものと暮らしていました。その生活は丁寧で、真似しようとしても真似できるものではありませんが、織り機が眠っているけれどもう一度織り物をやってみようかと思ったのも、ターシャの生活を知ったからだったかもしれません(まったくできてはいませんが)。


ターシャはいろいろな籠もつくっていて、興味深いものでした。
アジアやアフリカの籠にはなじみがありましたが、当時の私はヨーロッパ(スタイル)の籠にはほとんど縁がありませんでした。


とくにこの形の籠、実物を見てみたいなと思っていました。

21世紀になって、ネット時代が到来して世界は狭くなり、いろいろなもの、ヨーロッパの籠さえも見たり手に入るようになって、その思いの一端は満たされたされたことでした。
ラトビアの、持ち手のつけ根を四角く編んだ籠を初めて手にしたときは、感慨深いものがありました。

フランスの籠

持ち手のつけ根にひし形に施された飾り編みは、補強も兼ねたヨーロッパ伝統のデザインです。


ラトビアのミニチュアの籠は、外皮を剥いで、テープ状に削り揃えたもので編んでいて、丸い枝のままで編んだフランスの籠より、より精巧にできています。
大きい方は直径約8センチ、小さい方は直径約6センチです。


と、ミニチュアの籠は持っているのに、また増やしてしまいました。
楕円形の籠は、長径約10センチ、短径約7センチです。


手が生み出した、美しい出来栄え、古い籠ほど色が深まっています。


追記:

7月16日にUPした「麦わら細工のホタル籠」の中に誤った記述があったので、文末で訂正しておきました。








2025年7月26日土曜日

マイダンのマトリョーシカ


ロシアのマイダンでつくられたマトリョーシカ8個組です。高さ19.5センチです。
顔はみんなコンパスを使って正円を描いていますが、木地の凹凸によって、いろいろな形に見えています。
入れ子になっているすべての娘たちが頭に花を描いたものも多い中、このマトリョーシカは、一番大きい娘しか頭に花をつけていません。


大きい2人は全体に渦巻き模様で、3番目と4番目はプラトーク(スカーフ)の縁だけに渦巻き模様、そして7番目は思い出したように全体に渦巻き模様になっています。
この当時は職人さんたちが分業していたので、それぞれの娘たちの表情も違ったりしていますが、それにしても統一感がありません。


底に貼ってあるラベルには、「1979」の文字が見えます。
1979年製と言えば、古いと言えるか新しいと言うか? 私の感覚では新しいと認識してしまいますが、考えれば45年程前のものではあります。

先日、鎌倉からいらした客人(珍しく郷土玩具に関心のある方)が、京都の祇園祭の粽(ちまき)を見て、懐かしそうに
「古い粽ですね」
と言ったので、
「いえ、これはまったく新しいものです。20年くらい前にもらったものですから」
と答えたら、
「20年前は十分昔ですよ」
と笑われてしまいました。
「そうですか? 新しいものを貰ったものですから、てっきり新しいと」
と大笑いでした。


さて、我が家のマイダンのマトリョーシカたちです。
写真の一番小さいマトリョーシカは、最初から一番大きい娘が失われていたので、2番目以下のもの、だから頭に花がありません。





 

2025年7月25日金曜日

お茶にしましょう



ロシアのバガロツカエ(ボゴロツカヤ)でつくられたおもちゃ、2匹のクマがロシア伝統のお茶道具のサモワールをはさんでお茶を飲んでいます。


台を手に持って水平に円を描くように回すと、ぶら下がった玉が動いて、クマの手と玉をつないだ糸が引っ張られたり緩んだり、それにつれて2匹の熊たちがお茶を飲みます。
普通、バガロツカエのおもちゃは白木のままの仕上げですが、これはマトリョーシカ作家のオリガ・ロバノワさんが絵つけしたもので、クロスを掛けた白樺のテーブルや湯飲みなど、白木とはまた違った味わいがあり、とくにクマさんたちの表情には、ほっこりしてしまいます。


白木が基本のバガロツカエの動くおもちゃですが、クマ画伯も、部分的(マトリョーシカは既製品を使ったとしたらパレットだけ?)ですが彩色されています。


クマのおもちゃの周りには、なにかのんびりした時間が流れています。




 

2025年7月24日木曜日

『越後アンギン』


『図説 越後アンギン』(十日町市博物館編集、1994年)は、十日町市博物館主催でこの年に開催された「越後アンギン」のシンポジウムに合わせて作成された資料集です。アンギンの写真がふんだんに載っていて、布というものの歴史を考えさせられます。


アンギンは長く、文献上でしか知られていない「まぼろしの布」でしたが、小林存氏が1953年に実物を発見、その後の調査で同種の布が十日町市を含む中魚沼地方及び松代・松之山に相当数存在し、しかもその制作道具や技術も残されていることが判明しました。


さらに近年の発掘にともなう考古学上の発見の中に、「越後アンギン」と同様の組織や構造を持つ編布片やその圧痕のある土器が全国的に続々と出土するようになって、この布アンギンが、遠く縄文の昔から人々の生活に密接なかかわりを持ってきたことが証明されました。


人間の生み出した作布技法として、織り布と編み布の2種類があります。
織り物は、綜絖(そうこう)を使って経糸(たていと)を交互に上げ下げしてそこに緯糸(よこいと)を通して布にしますが、道具は複雑で、道具をつくるにも、使いこなすにも特殊な技術が必要です。


それに比べて、編み物は1本の糸を編針でからませながら編んだり、アンギンのように経糸と緯糸を別々に用意して、それをからませることを繰り返しながら布をつくったりしますが、織り物よりはるかに単純な作業なので、発生史的には編み物の方が先行したというのが、定説になっています。


アンギンを編む道具は、俵編みに使うようなケタとアミアシを組み合わせたものと、経糸を巻きつけてケタにつるし、前後に動かしながら編む用具(糸巻兼錘)のコモヅチの2つだけです。


また、帯を織る道具として、アソビ(アンギンオビ織り機)と刀杼(とうじ)がある、とこの資料集にあるのですが、これにはびっくりしました。


なんと、アソビは北欧や東欧のバンド織り機とそっくりです。
いったい日本で、アソビをいつごろから使っているのか、北欧、東欧のバンド織り機との関係はあるのかないのか、そのあたり『越後アンギン』には何の記載もないのですが、とても気になります。


弥生時代以降、綜絖の伝来によって織り物技術が普及すると、編み物よりはるかに精巧な布をつくる織り物が、衣生活の主流になりました。
織り物の普及で、編み物は急速に衰退しましたが、アンギンは丈夫さや厚さなどの特性を生かした用途に限られながらも、その後も細々と技術が伝えられていきました。


その一例が、時宗(じしゅう。浄土宗の一派)の僧侶が身にまとった法衣です。
今から750年ほど前に時宗を始めた一遍上人は遊行のとき、野宿の夜着(よぎ。着物のような形をした掛布団)などにもなったと思われるアンギンの法衣を着ていました。

14世紀の阿弥衣。新潟県柏崎市専称寺蔵

今でも、柏崎市専称寺など全国の9ヵ寺にアンギンの法衣が残っており、「阿弥衣(あみい、あみえ」と呼ばれています。

余談ですが、私は小さいころ冬は夜着(かいまきとも呼ぶ)を掛け、その上に四角い掛布団を掛けて寝ていました。
祖母や母が丹前型のかいまきにたっぷりと綿を入れて手づくりしていましたが、いつの間にか使わなくなりました。
21世紀の今日でも、八郷の近くのJRの駅近くの新興住宅地で、ときおり夜着を干している家があり、そこを通るときは、「今日は夜着を干してないか」と見てしまいます。
うろ覚えですが、あきない世傳 金と銀』に、大阪店と江戸店を行き来する主人公の「幸」が、江戸から大阪に帰ったとき、夜着ではなく久々に四角い掛布団で寝てほっとする場面がありました。当時江戸では人々は夜着を使い、大阪では四角い布団で寝ていたのかと、記憶に残ったものでした。
また、江戸時代、夜着は北国の大名家の嫁入り道具だったそうですが、

愛媛県砥部の「砥部むかしのくらし館」収蔵の夜着

私が岡山県で使っていたように、西国でも盛んに使われました。
夜着は第二次大戦後、軍に使われた毛布が一般に使われるようになって廃れたそうです。