2024年2月7日水曜日

『マトリョーシカのルーツを探して』

reiさんからの教えていただいた『マトリョーシカのルーツを探して』(熊野谷葉子著、岩波書店、2023年)を読みました。


著者の熊野谷さんはロシア民俗学がご専門の方です。
プロローグではマトリョーシカ誕生の所説を記し、ロシア編ではマトリョーシカの誕生を探り、日本編ではマトリョーシカをつくるにあたって参考にしたという説のある、箱根の七福神の入れ子など、木地玩具事情について記されています。
マトリョーシカが誕生した時、入れ子細工の七福神を参考にしたかどうかはさておいても、19世紀末から20世紀初頭にかけての、ロシア、日本双方の庶民(庶民の中に潜む職人)の生活、社会における木工の役割などなど、いろいろなことを知ることができる本でした。

ロシアには、古くから木材を回して刃物を当てて形を作り出す挽き物の技術がありました。挽き物は、椀などの生活品、家具、家の装飾などに生かされてきました。


上の写真は、雑貨店「子どもの教育」で最初のマトリョーシカを挽いた、挽き物に高い技術を持ったワシーリー・ズヴョーズドチキンが、足踏み轆轤(ろくろ)を使って作業しているところです。足でペダルを踏むと大きな輪が回って、木材も回る仕組みです。
ズヴョーズドチキンは、モスクワ郊外のポドリスクの農家に生まれましたが、実家は副業で木工轆轤を挽いていました。
ズヴョーズドチキンは、軍の工場に勤めたのち、「子どもの教育」に入って、1990年のパリ万博へ出品したマトリョーシカを挽き、のちにセルギエフパサードに移り、多くの職人に技術を教えて、ロシアとソビエト連邦のマトリョーシカの大量生産の基礎をつくりました。

日本にも奈良時代の8世紀に百万塔がつくられるなど、古くから挽き物がありました。


日本の轆轤は、江戸時代後期まで一人が回転させ、一人が挽く、二人がかりの轆轤でした。これでは挽く人が自分で速さの調節ができず、挽くのに時間がかかりました。


明治の初めごろから足踏みの一人挽き轆轤が普及して、能率が上がりました。箱根には、渡りの木地師から一人挽き轆轤が伝わり、瞬く間に普及したそうです。


余談ですが、鳴子の伊藤松三郎さんは、昭和の時代に電気のない山奥に住み、電動の轆轤を使わないでこけしをつくった、最後のこけし職人でした。手回しや足踏みの轆轤は、能率は落ちるかもしれないけれど、どこででも挽くことができるという利点もありました。

『マトリョーシカのルーツを探して』では、マトリョーシカをデザインした人についても考察されていますが、轆轤と絵つけが両輪とはいえ、轆轤職人なくしてはマトリョーシカはあり得ません。有能な木地師の存在は必然でした。
当時、ロシアのたくさんの農村では農業だけでは食べられず、多くの人々が副業をしていました。ポドリスク郡ヴォーロノヴォ郷の50余りの村で何らかの副業に携わっていた農民の数を調査した統計があります。

 1.レース編み   男  3人  女127人
 2.丸太・木材運搬 男491人  女  9人
 3.銀細工     男168人
 4.各種商売    男147人
 5.木材加工    男147人
 6.ろくろ玩具製作 男132人
 7.下働き     男  3人  女101人
 8.指物師     男103人
 9.靴づくり    男103人
10.筬づくり    男 74人
11.帽子職人    男 57人  女  1人
12.炭焼き職人   男 54人  女  1人
13.櫛職人     男 54人
14.その他     男753人  女127人

これを見ると、ただの農閑期の副業というより、りっぱなプロの職人さんたちです。
この中で、私的に興味深いのは(おさ)づくりです。東アジアから東南アジアにかけては竹があるので、筬は竹でつくっていますが、ロシアではいったい何で筬をつくっていたのでしょう?
デンマークの「織りもの・編みもの博物館」で見た筬と同じような筬でしょうか?

また別の章で、そろばんの玉をつくる職人さんの記述があって、そちらも、
ロシアそろばんの玉をつくる職人さんがいたんだ!」
と、感動してしまいました。もっとも、そろばんがあれば、そろばん玉をつくる人がいるのは、当然と言えば当然のことですが。

ロシア雑貨「マリンカ」店主のブログり。L字形の紡ぎ板を使って糸を紡ぐ女性


彩色されたロシアの食器、紡ぎ板などは、伝統工芸品としてよく紹介されていますが、ロシアそろばんの職人にも、あの小さな一つ一つを寒い冬に挽いていたのかと思うと、興味が尽きません。ちなみに、『ロシアソロバンのルーツを求めて』(小林俊之著、林檎プロモーション、1988年)という本も出ているようです。

また、日本編で触れられていた、大正14年に箱根でつくられていたという挽き物玩具の品目も面白いものでした。

箱根細工36玉子

入玉子、達磨12入れ子、玉抜き、輪投げ、タラヒ舟、網入り水道具、ラッパ。空気鉄砲、独楽類各種、人形各種、車類各種、達磨落とし、卓上マラソン、卓上テニス、シーソー、首振り又は胴振り、ポスト貯金箱、動物各種、魚類各種、地球トンボ車、各種車附玩具、剣玉、旅行用コップ、将棋類などで、タラヒ舟とは、たらい舟のことのようです。
うち、入玉子、シーソー、ポスト貯金箱、旅行用コップなどは輸出もされていました。

マトリョーシカからは、ちょっと離れた感想になってしまいましたが、とても興味深く読みました。






2 件のコメント:

rei さんのコメント...

以前に春さんが木地屋について書いて下さいましたが、民俗学の分野でも高い関心が持たれていた事がこの「マトリョーシカのルーツを探して」の中にも著されていました。
かつての木地屋夫妻による再現映像を撮ったものが有るとも書いてあったので、民映研作品総覧で確かめたところ、「奥会津の木地師」が見つかりました。映写会の機会にはリクエストをしてみます。

マトリョーシカ、深い!

さんのコメント...

reiさん
民族文化映像研究所の映画(https://jfdb.jp/contacts/2216)はどれも観たいですね。
題名を見ただけで、わくわくしてしまいます。『奥会津の木地師』、私も観たいです。
私が観たことがあるのは、『越後奥三面-山に生かされた日々』、『越後奥三面、第二部-ふるさとは消えたか』、『からむしと麻』の3本だけですが、どれもとってもおもしろかったです。『山に生かされた日々』は2度も観ました(笑)。
木地師の技術がロシアではまだ生きているのに、日本ではほとんど消えてしまったのが無念です。