2015年7月17日金曜日

育蚕條桑水揚器


育蚕條桑水揚器です。
右が、「養蚕活桑器、實用新案第二五六五七五號」で、左は「育蚕條桑水揚器、願第二三四七〇號」です。

一体何のために、どんなふうに使われたのでしょう?


びん博士、庄司太一さんの『びんだま飛ばそ』(PARCO出版、1997年)を見ると、
「うわぁぁ、詳しい!!!」
養蚕の歴史や、育蚕條桑水揚器について詳細に書かれていました。

びん博士が霞が関の特許庁別館に足を運んで調べたところによると、育蚕條桑水揚器のビンの新案特許願いは、昭和10年(1935年)から14年(1939年)にかけて、集中的に出されています。


養蚕は、5000年も前に中国ではじまり、日本には紀元前200年ごろ伝わりました。稲作といっしょに、中国からの移住者が伝えたといわれています。
195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。

奈良時代には、寒冷な東北、北海道を除く各地で養蚕がおこなわれましたが、鎌倉時代になると質素を好む武士中心の世の中になり、京都の絹織物は衰退しました。しかしこの時代、地方の産業振興がおこなわれ、絹織物の技術が、京都から地方にも広がっていきました。

江戸時代になると、武士以外の人々の絹着用は禁止されましたが、能装束や小袖などの高級織物は保護され、中国から盛んに上質な生糸が輸入され、その支払いには、国産の銅があてられました。
輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどだったので、幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため、国内の養蚕を奨励しました。

タイの昔の国王は、海外貿易の独占企業のような立場にありましたが、日本の幕府もそうだったのでしょう。
江戸時代は鎖国の時代と言われていますが、実は幕府だけが貿易権を握って、盛んにやっていたのです。

大日本蚕糸会より
 
明治維新(1868年)以後は生糸の輸出が増え、昭和初めには生産量、輸出量ともに世界一になりました。
しかし、日中戦争にともなって生産は漸減し、太平洋戦争中は絹は贅沢品とみなされ、多くの桑畑が食料畑に変えられました。

戦後になって、再び養蚕振興策が講じられたものの、絹はすでにナイロンなど代替繊維に取って代わられていて、昭和50年代には輸出はほぼ途絶えました。


『びんだま飛ばそ』によると、蚕の飼育方法には、桑の葉をちぎったり刻んだりして与える「普通育」と、枝葉ごと与える「条桑育」があります。 

「条桑育」は、地方によって、「枝飼い」、「棒飼い」、「棚飼い」とも呼ばれたもので、江戸後期より行われ、明治30年(1897年)以降に普及しました。
 

絵本『おかいこさま』(南信州農業協同組合文、肥後耕寿絵、農文協、1986年)の一場面ですが、びん博士の言う「普通育」で、葉を枝から外して与えています。

 
葉を、一枚一枚採らなくていいので、「条桑育」は労働の軽減にはなりましたが、問題点もあり、何度か改良が試みられましたが、やがて姿を消しました。

今、手元にないのでうろ覚えですが、『ひとすじの道』(丸岡秀子著、偕成社、1976年)には、蚕が小さいときには葉を与えて、大きくなったら枝ごと与える、つまり「普通育」と「条桑育」とを併用していたように記憶しています。
丸岡秀子さんは1903年生まれで、「条桑育」は明治30年(1897年)以降普及していますから、そんな併用方法もとられていたのでしょう。 


育蚕條桑水揚器はその、「条桑育」の副産物だったというわけです。
小さなビンに水を入れ、蓋の小さな穴に桑の枝を挿して蓋を閉め、寝かせて使いました。ゴムのパッキングを入れて、で水は漏れないようになっていました。
育蚕條桑水揚器は、骨董市でときおり見かけるものですが、養蚕農家にたくさん普及したのか、普及せずに終わったのかは不明です。
目立った効果はなかったとの記載も、どこかで目にしました。


絵本『おかいこさま』は、養蚕農家の喜びや大変さを描いた本ですが、この本の中で一番問題にされているのは、蚕の病気です。

生糸の輸出は一時、日本の総輸出品の70%を占めたこともありました。
養蚕は、生糸を売ったお金で機械を買うなど、日本の近代化・産業化を支えましたが、養蚕の現場では、ぎりぎりの生活の中で、
「どうか、お蚕sまに病気が出ないで欲しい」
と祈るような気持ちで蚕を見つめていて、そんな気持ちが信仰とも深く結びついたのでしょう。
病気の出なかった年は、繭の目方当てなどして、みんなで大騒ぎして、喜びもひとしおだったようです。






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