2015年7月21日火曜日

『炭鉱(ヤマ)に生きる』


お名前さえ存じ上げなかった山本作兵衛さん。
いつもコメントをくださる昭ちゃんのブログで知りました。いま福岡市博物館で、「世界記憶遺産・山本作兵衛の世界~記憶の坑道~」が開催されています。

Amazonで調べたら、作兵衛さんの絵の本は何冊か出版されていたので、新装版画文集『炭鉱(ヤマ)に生きる-地の底の人生記録』(講談社、2011年、オリジナルは1967年)を買ってみました。

作兵衛さん明治25年(1892)に生まれ、昭和59年(1984)に亡くなられています。
途中、いろいろな職業につきながらも炭鉱に舞い戻り、15歳から半世紀を炭鉱夫として過ごし、明治、大正、昭和の炭鉱を見てこられました。
作兵衛さんは、子どもの頃絵を描くのが好きでしたが、紙を買うこともままならず、長じてからは絵を描くことは忘れていましたが、昭和33年(1958)、最後の炭鉱となった田川郡の位登炭鉱が閉山されてから三年後、炭鉱のことを孫たちに残そうと絵筆をとり、以後六百余点の絵を描かれました。

この本には約150枚の絵が掲載されています。
坑道づくりから、坑内の水害、ガス爆発、湯屋、引っ越し、夜逃げなどなど、炭鉱の様子と炭鉱で働く人々の生活が、こと細かに描かれています。

作兵衛さんのお父さんは、もともとは船頭さんで、石炭を運搬する仕事をしていましたが、敷設された陸蒸気(鉄道)に仕事を奪われ、炭鉱で働くことになりました。
当時のシステムでは、会社と契約するのではなく、「納屋」と呼ばれる組のようなものに入って、個人のまま出来高で賃金を得る方法が主でした。
炭鉱では、石炭を掘る人(先山)と、それを拾い集める人(後山)の二人で働くと、効率が上がります。後山として他人を雇うお金がないし、お父さん一人の稼ぎでは食べていけないので、お母さんが後山として坑道に入りました。
    

ところが、お母さんは乳飲み子にお乳を飲まさなくてはならないので、作兵衛さんも弟を背負って、一緒に坑道に入っていました。暗い中、坑内は足元がでこぼこしていて、赤ん坊をおぶった子どもが歩くのはたいへんでした。
作兵衛さんの両親だけでなく、たくさんの人たちが夫婦一組で働いていました。


炭鉱の子どもには、子守りのほかにも、水汲み、ランプの火屋磨き、父親が坑内で使うツルハシの穂先の焼き直しなど、さばききれないほどの仕事がありました。
中でも厄介なのがツルハシの焼き直しで、毎日夕方になると坑口の鍛冶屋まで行き、焼き直したのを受け取ってこなくてはなりませんでした。
一挺だけでなく五挺ほどあるので、ツルハシを運ぶのは小さい子どもには重労働でした。


これは、坐り掘りという、立てないほど低い坑道での仕事です。
考えただけで息がつまりそうになりますが、もっと過酷な坑道もあります。


寝掘りと言って、座ることもできない坑道です。

重労働に次ぐ重労働、貧乏に次ぐ貧乏でしたが、楽しいこともありました。
以下は、炭鉱に廻って来る商人たちです。


蓬莱豆売りは派手な衣装で踊り、団扇太鼓で子どもたちを集めました。


団子細工屋は、何色もの米粉を練ったもので、指先をつかって、鉢ものや、人形、果物などをつくりました。飴細工屋は、竹で吹いて飴を膨らまし、瓢箪や鳥をつくって赤や青で彩色しました。
どちらも、見るにはおもしろいけれど、団子は不味く、飴は食べるところがほんのぽっちりでしたが、子どもたちはついつい見とれて買いました。


昆布屋さんと唐辛子屋さん。
昆布屋さんは30キロ以上の昆布を頭に乗せてあるく、女丈夫だったそうです。
唐辛子屋さんは、鈴を鳴らし、
「トン、トン、トン、トン、トンガラシの粉。甘いも辛いもお手加減」
と唄いながら歩いたそうですが、子どもたちは見向きもしませんでした。

杉浦日向子の『一日江戸人』(新潮文庫、1998年))には、江戸時代に、あの葛飾北斎も、食べられないころは巨大な唐辛子の張りぼてを背中に担いで、
「やあれそうれとんがらし、ひりりと辛いは山椒の粉、すいすい辛いは胡椒の粉」
と唄いながら歩いたそうですから、唐辛子売りに巨大な張りぼては、江戸時代から明治までつきものだったようです。


ほかにも、お稲荷さんや、


手品師や軽業師が入れ換わり立ち替わり炭鉱に訪ねてきました。


「ブンマワシ」をしたり、くじを引くお菓子屋さんもありました。


「ノゾキ」はレンズを通して見る、精巧な紙芝居のようなものでした。たいていは、夫婦者が口上を述べていました。
それにしても、作兵衛さんの記憶力の良さには驚かされます。どの絵も写真よりずっと雄弁です。

働いても働いても、貧乏だったといいますが、そんな炭鉱の人たちを相手に、飴細工を売ったり、唐辛子の張りぼてをまとったり、「ノゾキ」の仕掛けをつくって日銭を稼いでいた商人たちも、食うや食わずだったようでした。





2 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 私は昭和20.10.25日より閉山の40.2月まで採炭夫として
三交代の坑内で働きました。
いわゆる筑豊の小規模な炭鉱(こやま)の様子も垣間見たこともありますが
実によく描がかれております。 (仰せの通り江戸商売にも登場しますね)
 「放浪記」は子供時代「こやまや工事現場」にパンを売って歩く林さんの
体験談ですね、
このイメージが「炭鉱もん」と呼ばれ閉山後もついて回りました。(笑い)

江戸商売往来や映画北斎漫録に登場しますね。

さんのコメント...

昭ちゃん
すごいです!例えば私が、子どもの頃、町からぽん菓子屋さんが来た様子を描くとします。
来たという合図(ラッパだったか、ベルだったか不明)を聞いて、周りの人たちが一斗缶に米を入れ、その上に砂糖を置き、ぽん菓子づくりの機械で燃やす薪の束と一緒に、早いもの順に、地面に並べているところは描けます。ぽん菓子屋さんの顔や服装もおぼろげながら覚えています。いつも機械を設置する場所の様子もたぶん描けます。けっこう人の往来のあるところです。でも、肝心の機械がどんな形をしていたか、リヤカーに乗せてきたのか、そのリヤカーを自転車で引いていたかどうかなどということは、全然覚えていません。ということは全然描けないということです。
だから、作兵衛さんのどの絵にも、目を見張る思いでした。抜群の記憶力です。しかも写真よりわかり易い。坑内の絵もいろいろありましたが、よく伝わります。
絵の中に、遅く来て早く上がる人は「ウサギ坑夫」と呼ばれているというのがあったのですが、働きが悪いのに坑内で四合飯の弁当だけはしっかり食べているということ、どうして怠けているのに一度に四合、夫婦二人で八合もの飯を食べることができるのか、それはわかりませんでした(笑)。