2017年7月29日土曜日

『越後三面山人記』

 
『新編・越後三面山人記(えちごみおもてやまんどき)』(田口博美、ヤマケイ文庫、2016年)は、著者の田口博美さんが、民俗文化研究所の姫田忠義氏に誘われて、ダムで沈むことが決定していた三面村(みおもてむら)の日常を十六ミリフィルで写しながら、フィールドノートもとっていた、その記録をまとめた本です。
文庫のもととなった単行本が出たのは1992年、私は単行本も持っていますが、どこへしまったか、ちょっと失せています。

映画、『越後奥三面・山に生かされた日々』は、封切りしてから間もなく観る機会がありました。
数年後に、沈んだ村のその後を追った、『越後奥三面第二部・ふるさとは消えたか』との二本立ての上映会があり、そのときは、二本を続けて観ました。
そのどちらか、あるいは両方だったか、監督の姫田さんが上映会にいらして、お話を伺ったこともありました。姫田さんお一人ではなかったような気がするので、もしかしたら田口さんもご一緒だったかもしれません。

『越後三面山人記』は、その映画の感動を思い出す、読み応えのある本です。

第一章 狩りの日の出来事
第二章 降りしきる雪の中で-冬-
第三章 山の鼓動とともに-春-
第四章 むせるような緑に抱かれて-夏-
第五章 時雨れる雲の下で-秋-
第六章 山人の自然学

という構成になっています。

四季に即して、村の生活が淡々と綴られているのですが、筆の力か、村の様子が映像のように目の前に浮かんできます。
とくに、田口さんに語ってくれる村の人たちの言葉が、どれも深く、心にしみます。

「狩りで山歩くときなんぞはなっ、ハー、自分が人間であることもわすれるんだわっ。オレも山の一匹の獣と同じで、獲物追うんだわっ。何を考えるってこともねぇ、夢中で体動かして、必死で追うんだわっ。獣獲るんだものなっ、獣にならねば獲ることできねぇはでなっ。オラっ山さ入れば、獣と同じだぞうっ。山も谷も翔んで歩くんだわっ」

これは、やっとのことでクマ狩りに連れて行ってもらった田口さんが、足を踏み外してけがをして、みんなに迷惑をかけてしまったと気落ちしているときに、いろいろな人が声をかけてくれた言葉の中の一つです。

「クマがどこ行ったかっていうのは、あてずっぽうでいっているんではねぇんさ。自分がクマになったつもりで考えて、いってるんさ。クマ獲るためには、まずクマになることからはじめねばなんねぇんさ。それができねぇとクマは獲れねぇ。だからクマから学ばねばねぇわけなんさ」

山人は、何度も、山に学ばなくてはならない、獣に学ばなくてはならない、魚に学ばなくてはならないと、その生き方を語ってくれます。
そうでなければ生き残っては来られなかったと言います。

「都会の人方が、山で遭難したとか、ケガしたとか、命取られたなんて、テレビのニュースでときどきあるけどねぇ、オレたちには考えられねぇこった。そんなごとしてたら、村がなくなっちまうでしょう。だから学ばねばねぇんさ。山に」

「山をあなどってはなんねぇんだ。自然というものはおっかねぇもんだ。そのおっかなさがわからねば一人前の山人にはなれねぇんだ。かといって知り尽くすなんてこともできねぇことだ。だから山人はいつでも学ぶんさ。オラたちは山さ遊びに行くんじゃねぇすけ。仕事だ。生活のためだもんな」


初春、一年に一度だけ、クマを獲るのに適した季節がやってきます。村の人たちはチームをつくって、熊を追います。
クマを仕留めたときは、山の神への儀礼を忘れません。神に感謝をささげた後に、みんなで美味しいクマ鍋を囲みます。


クマの肉は、猟に参加人たちの人数に等分します。
さらに、くじで番号札を引き、番号順に肉を受け取ります。それが、村の人たちのいつも言う、
「平らにする」
ということです。なんでも、平等を心がけます。
クマの肉を均等に分配した後は、狩りに加わらなかった人たちも参加して、熊の胆や毛皮は欲しい人が買います。


春の終わりには、出小屋に、家族そろってゼンマイ採りに行きます。子どもたちには、学校のゼンマイ休みがあり、親とともに参加します。


出小屋と言っても、素敵にできています。


夏、子どもたちは川で、イワナ、ヤマメ、マスなどを捕ります。
潜って、素手で捕まえるのですが、三面の子どもたちは誰でも、上手に捕まえます。
魚の習性を知り、魚の気持ちになって、向かうからです。 


三面村は、1985年に閉村しました。









6 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 春姐さんヤマケイも文庫が出ているのですね、
目が悪いので殆ど本や新聞が駄目です。
私のベスト2は江戸時代に書かれた「北越雪譜」で
家内の炭焼き時代に通じるところが多々あります。
 

さんのコメント...

昭ちゃん
ああ、昭ちゃんも読めるといいのにね。絶対気に入ると思います。
これは最初、農文協(農山漁村文化協会)から単行本で出たあと、やはり農文協の「人間選書」に入っていたのが、昨年ヤマケイから文庫になったものです。
最近の文庫は昔より文字が大きいし、電子版(Kindle版)も出ていますよ。
たしか、炭焼きもやっていました。特に冬に雪に閉じ込められて、春になって買い物に行くとき、今では考えられないほどのものを運んでくるところなんて、「人間の能力はどのくらい退化しているのか」と、考えさせられます。米俵なんかも担いで、雪解けの山道を運んでくるのですからね。

昭ちゃん さんのコメント...

姐さん私の現役時代のように酸素ひんを担いで
足場の上を歩いたり、焼けたリベットを建屋の隅まで投げたり
力自慢や危険な作業は安全面でご法度で
セメント袋や米袋も小さくなりました。
「腰を入れて担ぐ・腰を入れて餅を搗く」って死語ですよね。(笑い)

さんのコメント...

招ちゃん
冬場に何でも塩をするため、塩もたくさん担いできた、重かったそうです。男衆の中には、俵二表も担いできた人もいたって!自分を基準にすると、人間業とは思えません。

1980年ごろには、バンコクの港では、クレーンやフォークリフトがなくて、知り合いの中学生が、家計を助けるために苦力の仕事をしていましたが、タイのコメは、100キロ単位でした。
そうそう、基本は腰ですよ。それにしても、過酷です。

昭ちゃん さんのコメント...

姐さん
洞海湾のゴンゾウ・石炭運搬の苦力たちが足場の上で両天秤を、
このリズムも本職ならではです。
 戦後米軍基地でチョット前の物流センターのように
ソロバン玉のようなセットで小人数で遠くまで送れる器具を見て
驚きました。
日本なら辛抱の人力搬送です。

さんのコメント...

招ちゃん
今でもタイの苦力たちの姿が目に焼きついています。
タイでは、海に面した港に着いた荷を、小さ目の船に積み換えて、チャオプラヤー川を遡って、バンコクのクロントイ港まで運んできていました。積み替えの時と荷下ろしの時、苦力はどちらでも必要でした。
チャップリンの時代にはベルトコンベヤーがあったアメリカだって、『大きな森の小さな家』時代の、若者たちが暴れ馬や馬車を御すのがかっこよかったこと、すべて消えました。
でも、この辺りの青年たち、フォークリフト、ユンボ、ユニックなど自由に操れるだけ、まだかっこいいでしょうか?タイヤ交換ができない人たちも増えているってことですしね(笑)。