2018年11月30日金曜日

お馬さま

 

夫の所用で、横浜の本牧に行ってきました。
第二次大戦後、接収して占領軍が住宅にしていた本牧の土地が返還されたとき、どのような形で町をつくり直すかに夫がかかわっていたので、その現状を見に行ったのです。
本牧山頂公園から眺めると、屋根が光っているあたりが、もとの接収地です。
   

本牧山頂公園から本牧新公園に降りようとしたら、まっすぐ伸びた新公園が山頂公園に直角にぶつかるところに、新しそうな神社がありました。
本牧神社です。
「あれっ、あんな神社があったかなぁ」
と夫。

しめ縄は島根県でつくってもらったもの

宮司さんに訊くと、1993年にこの地に再興したとのことでした。


本牧神社は、もともとは出島にあり、伝記には、源頼朝公が征夷大将軍になった建久二年(1192年)に、鬼門(北東の方角)守護を祈念して、平安時代から在る本牧神社の神殿に、六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあるといわれているという、古いお寺でした。
それが横浜の空襲で被害を受けたり、戦後は本牧一帯が占領軍に接収されたため、別の場所に社殿を移したりして、返還後にやっとこの地に社を再興したとのことでした。



おみくじをいただくと、何か草細工のようなものに御幣がさしてある絵がついています。
「これは、龍ですか?」
と訊くと、
「馬です」
と宮司さん。
お馬(おんま)さまの資料館を見せてくださいました。
 

これがお馬さまです。
茅でつくる、お馬さまは、首から上は馬、胴はウミガメになっています。祭礼の時、本牧6か村を代表して6体が奉納されます。


祭礼の日の写真がたくさん展示してありました。
お馬さまは頭より高く掲げなくてはなりません。


神社が別の場所にあったときのらしい、古い写真もありました。


お馬さまが6体揃ったところです。


祭礼の終わりに、お馬さまは3体ずつ2隻の祭礼船に乗せられ、沖に向かい、海に浮かべられます。
お馬さまが、すべての厄災を持って流れていくというわけです。


さて、その祭礼船の部品などを展示しているところに、淦汲みがありました。
「櫓べそ」の説明書に隠れて、全体が写せなかったのが残念ですが、淦汲み好きの私としては、思いがけない出逢いでした。


ちなみに、これが櫓べそです。

今でも、お馬さまをつくる方がいらっしゃるとか、いろいろなことがありながら、現代につないでいらっしゃいました。


おみくじは「吉」でした。「基地」が「吉」に転じています。









2 件のコメント:

hiyoco さんのコメント...

本牧のイメージとはかけ離れたお馬さまはとても興味深いです。茅で編まれた馬とウミガメも独特で、今でもこれを編む方がいるということですね。この神社を目指して本牧に行ったわけではないのに、春さんが大好きな編んだものやあか汲みに巡り合うなんてスゴイ!
小学校の頃横浜に住んでしたので、本牧マンモスプールに行った記憶があります。その次はマイカル本牧ができた頃遊びに行ったりしました。でも結局電車が通らなかったので(?)、陸の孤島として寂れてしまった感じですね。

さんのコメント...

hiyocoさん
たまたま車で行ったので、ご指摘されるまで電車がないことは知りませんでした。本牧に行くにはバスしかなくて、そのことには住民の方にも賛否両論あるようですね。
神社のある場所は、公園と公園が直角に交わるシンボリックな場所ですが、まさかその地点に神社があるとは思わなかったうえ、行ってみれば草細工や、淦汲みにまで出逢うとは思ってもみませんでした。
帰ってからネットで見ると、祭礼船の寄付金をめぐっての宮司による横領を神官たちが告発して裁判になったとか、ドロドロしていた時期があったようです。ネットがなければそんなことは知らずに済むのに(笑)。
それにしても確かに特別な船二隻も所有しておかなくてはならないし、6か村が支えているとのことですが、経済的には潤沢な神社と見受けられました。
お馬さまは今でもつくる方がいらっしゃるそうです。しかも境内および決まった場所に生える茅(ススキ)を使って作っているようです。ミニチュアをつくって授与すればいいのに、欲しかったです(笑)。