2024年11月5日火曜日

思い出の写真

日曜日に、エチオピアの集まりがあったとき、福岡県に住むY夫妻が、約35年前に撮った写真をコピーして持ってきてくれました。


上の写真は、パイロットも含めて6人乗りの小さい飛行機をチャーターして、首都のアディスアベバから、北のデセに向かって飛んだとき、その飛行機の窓からY夫人のTちゃんが撮ったものです。
私たち夫婦もTちゃんと一緒に飛んだのですが、表土が流れて飴が溶けたような姿の土地が果てしなく続くのに息をのんだものでした。手前には人家も見えています。


飛行機をチャーターしたのはこの時だけ、通常デセまでは車で行きました。道路距離は400キロ弱ですが、悪路のため1日がかりでした。ネットで調べると、今でも8時間33分かかるとか、道はよくなったと聞いていたのですが...。
途中には霧が出やすい、曲がりくねった、片側が絶壁の狭い道路があり、そこを通るときは、神仏にお加護をお願いしたい気持ちになったものです。


デセから、農村事務所を置いていたマーシャという村までは道なき道を行くので、道のりは100キロくらいなのに、さらに1日かかりました。小川を横切らなくてはならないところには石を積んでいたのですが、それでも超えるのに一苦労でした。


村の家々はテーブル大地に点在していて、高低差があるので、低い場所に行くには歩くよりほかに方法はありませんでした。壁のように切り立ったところを100メートル以上降りたり、また登ったりするのは、エチオピア人には苦でなくても日本人には結構きついものでした。海抜3000-4000メートルなので、息も切れました。


農家の多くは木を組んだ土壁に草屋根を乗せたものでした。


谷底にある家を訪問したあと、やっとの思いで元の高いところに帰りつき、そこからは車で定期市に連れて行って貰ったことがありました。
すると市場で、先ほど谷底で訪問した家の人が、いつのまに来たのか、涼しい顔で生産物を売っているのに出会ったことがありました。重い荷物を背負って、エチオピアの人々は高低差の激しい土地を、考えられない速さで移動するのです。

追記:

エチオピアの集いに参加した看護婦のAさんから、メーリングリストにこんなメールが来ていました。

マーシャで小麦の配給をした時、3日かけてコレブ(低地)から女性が、頭に籠を乗せてやってきました。その中に途中で出産したばかりの赤ちゃんが、葉っぱの上に寝ていて、彼女は、「服を下さい!」と、多分言っていたのだと思います。
もっと何かできたのにと、、、、後になって思い
ました。

一つの地球上で同時代に生きているのに、過酷な生活を余儀なくされている人たちがいます。そのAさんはエチオピアにいたとき、遠くから若年性糖尿病の若い女性が訪ねて来るたびに、「皮膚が硬くて注射針が通らないよ」と明るく言いながらインシュリンを打ってあげていましたが、おそらくその女性との関係にも限界を感じていただろうことは容易に想像できます。





 

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