2025年11月30日日曜日

胎安神社と子安神社

いつも通る道に「胎安神社(たやすじんじゃ)」への道しるべが立っています。
面白い名前の神社はいろいろありますが、胎盤の胎の字のついた神社は珍しい。名前からして、安産・子育ての神社とはわかります。
時間に余裕があったある日、道しるべに沿って曲がって、訪ねてみました。


ちょうど、境内の落ち葉をブロワーで散らそうと(集めようと?)、お隣に家がある、この神社を守っていらっしゃると思われる方が出ていらっしゃったので、お話を聞くことができました。


創建はなんと奈良時代(763年)と伝承されているそうです。
西暦741年に、常陸国(ひたちのくに)の府中(現石岡市)に国分寺、国分尼寺が建立されましたが、胎安神社はその約20年後に建てられました。


こちらが元々の参道で、神社側から見たところです。神社は小高くなっている丘の上にありますが、下から長い参道を登ってくると、晴れた日には鳥居の奥の右手には富士山が見えたそうです。


胎安神社を辞してから、近くにある子安神社にも寄ってみました。こちらにも長い参道がありました。


こんな近くに2社がと、帰ってから調べると2つの神社は関連がありました。

子安神社は、胎安神社建立の40年後に建立され、両社同じような記録や言い伝え、しきたりを持っています。
府中(石岡市)の国分寺・国分尼寺の方向に続いている「鎌倉街道」を挟んで、本殿が北向きの子安神社と南向きの胎安神社が配されています。どちらも、社(やしろ)は小さいけれど、200メートル以上続く参道や、同じ社紋の「笹竜胆」などが共通していて、他の神社とは違う歴史の重みが感じられます。
ちなみに、鎌倉街道は各所にあります。以前、福島県古殿町の人類学調査に加わったことがありましたが、古殿町にも鎌倉街道がありました。


鎌倉時代には、源義家親子が「奥州征討」に向かった際にこの地域に宿営して、両社だけでなく、近隣の村社にも、参拝、奉賽、寄進などしたという社伝が残っています。 
「子授け、安産の神」の胎安神社と、「子どもの健やかな成長を護る神」の子安神社は相並ぶ神として、参拝者に崇敬されてきましたが、江戸時代後期には「胎安講」「子安講」が盛んになり、3月3日の胎安神社、9月3日の子安神社の例祭には、遠方からも「講中」を組んで、人々が参拝に訪れるようになったそうでした。


いまでも、七五三のときにはにぎわっているようです。







2025年11月29日土曜日

ミニローバー

 


ニャンコ先生のミニカーはトミカでした。確か、ミニクーパーもトミカだったよなとミニカーの棚を見ると、あれっ、青いローバーミニがあります。どうしたんだろう? 記憶にありません。


金属でできていますが、内部の椅子などは省略されています。


底を見ると、NOREVのミニカーでした。
ノレブはフランスのミニカーメーカーです。フランスで幼い時期を過ごしたMちゃんにもらったフランスのミニカーが、マッチボックスやディンキーなどの英国製であるのに対して、イギリスのローバーミニがフランスでつくられているなんて、なんだか愉快です。


ガーナの地方都市クマシで暮らしていたとき、車は必需品、外国人は自国から車を持ち込んで乗っていました。
夫が働いていた大学の建築学部の学部長だったアイルランド出身のバークレーさんがローバーミニに乗っていて、私はミニを初めて目にしました。バークレー夫妻はそう大きい方ではありませんでしたが、ちょっと窮屈そうでした。夫人は初めて外国暮らしをする私をよくお茶に誘ってくれて、車のまだ届いてない時期には、ミニで迎えに来てくれました。当時のガーナの道路事情にミニは似合いませんでしたが、そう遠出もなさらなかったようでした。
イギリス人のウイルトンさんはジャガーに乗っていました。ジャガーはガーナに、ミニよりも似合いませんでした。あるとき、長期休暇で北の方へ行っていると、ウイルトンさんが道の反対側から来るのに出会いました。車は、トラックさえほとんど通ってないので、出会えばすぐにわかります。ウイルトンさん夫妻は、北部に旅行に行こうとしたのだけれど、何かを超える小さな山になっている道で、車体の底が道につっかえて、どうにもそれ以上進めなかったので、引き返しているところだったのです。当時は日本でも舗装されている道路が少ない時代で、ガーナでは舗装道路は大きい町の市街地、クマシと首都アクラを結ぶ主要幹線などのみだったので、ジャガーは不便そうでした。
その点、アイルランド人のウイークリーさんは懸命で、颯爽とランドローバーに乗っていて、サハラ砂漠の縦断もして、みんなをうらやましがらせていました。

余談ですが、ウイークリーさんとは30年後に日本で会いました。イギリスの大学の先生になっていて、日本でのシンポジウムにいらしたとき、半日ほどご一緒したのです。ところが、彼は、まったく見知らぬ人になっていました。ガーナ当時の歩き方も覚えている、話し方も覚えている、目をくりくり動かす顔の表情も覚えているのに、その片鱗を見つけよう、見つけようと努力したのに、全然見つけられませんでした。
誰でも、何十年ぶりにあっても、最初はわからなくても、話しているうちに何かしら昔の面影を見つけられるものですが、彼は同一人物とはどうしても思えない、あれは不思議な経験でした。
ちなみに、その10年ほど前、やはりガーナで一緒だったグラウンズさんが1週間ほど我が家に逗留したのですが、まったく昔と変わっていませんでした。








2025年11月28日金曜日

ニャンコ先生のミニカー


ドリームトミカ166、『夏目友人帳』のニャンコ先生のミニカーです。
ドリームトミカには、となりのトトロのオート三輪、スヌーピーカー、クレヨンしんちゃんなどもあるようです。


ヴェトナムでつくられています。


ミニカーというものは金属でできているものと思っていましたが、プラスティックでできています。


3Dプリンターがあれば、簡単につくれるのかしら?
扉があいたりしませんが、室内もよくできています。


とても丸っこいところが、今風でしょうか。

Amazonから借用

黒ニャンコもいるようです。








 

2025年11月27日木曜日

久々のニャンコ先生


久しぶりに夏目友人帳のニャンコ先生です。


もしかしたら、日本人対象に売られているというより、中国人相手に売られているのかもしれません。


昔のニャンコ先生(左)と比べると、なんとなく雰囲気が違います。


昔のフィギュアの方が、雰囲気があるような気がします。


昔のニャンコ先生の足はこんな感じ、どれにもロゴとMADE IN CHINAと刻印がありますが、


新しいニャンコ先生には刻印がありません。足はちょっとかわいいけれど。


シリーズなのに頭の大きさがまちまちなのも、いいかげんというか。もしかしたら海賊版なのかもしれません。堂々と売られているけれど。
もう長く読んでいませんが、漫画の『夏目友人帳』はまだ続いているようです。





 

2025年11月24日月曜日

ひたちなかの浜


久しぶりにひたちなかに行ってきました。
ホームセンターで買い物をして、海を見てきたのだけれど、すっかり忘れてた、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターにも行けばよかったと、今頃になって思い出しました。


岩がある所では、鵜が固まって休んでいるのを何カ所かで見ました。


チドリ、シギなどはまったく見えず、どこも鵜ばかりでした。


小さい砂浜では、微小貝をちょっとだけ拾いました。




 

2025年11月23日日曜日

キクラデス


確か葛飾北斎の漫画本があったはずと探していたら、それは見つからなかったのですが、その昔、夫が畑總一さんからいただいた、雑誌『SD』1973年2月号を抜刷した「キクラデスの集落 畑總一のフィールドノートより」という薄い冊子が見つかりました。


久しぶりに目にして、こんな所に住んだら何と楽しいだろうとワクワクしながら眺めたことを思い出しました。


キクラデスとは、ギリシャの小さな島々のことです。


写真ではなかなか伝えきれない街並みを、畑さんは素晴らしいスケッチで表していらっしゃいます。


私もガーナで不定形な家を実測したことがあるので、不定形な家の実測の難しさは、ちょっとだけ知っています。でも、ガーナは土地が平らだったのに比べて、キクラデスは起伏が激しいうえに、どちらを向いても不定形なのに、よくぞこんなに絵にできるものだと、感心してしまいます。


パレスチナのエルサレムの旧市街に初めて行ったとき、このキクラデスと同じような空間を体験することができて、心躍りました。エルサレムの旧市街は起伏はそうありません。ベツレヘムの旧市街はもっと起伏があって、もう細い小路を曲がるたびに驚かされ、ため息が出るほど嬉しかったのを思い出します。ベツレヘムもとくに階段が素敵なのです。


畑さんは、キクラデスの島々の生活の基盤もしっかり押さえていらっしゃいます。


井戸や風車から、長年かかって積み上げられた生活であることが伝わってきます。


あれから半世紀、車やスマホのグローバル社会の今日、キクラデスの人々はどうされているのでしょうか?










2025年11月21日金曜日

以外に知られてないニャン太


自分でつくったパッチワークキルトはベッドカバーとして使っていますが、母屋建設中に6年間ビニールハウスの仮設小屋に住んでいたときに使っていたキルトは、ビニール屋根を通して入る強い日差しですっかり傷んで使いものにならなくなりました。


手持ちのキルトではベッドにちょうどいいサイズのものがなかったことから、昼間は大工仕事をしながら夜につくったのが、招き猫のキルトでした。

というわけで、先日キルト展をやったとき、1970年代につくったものに混ぜて、この招き猫のキルトも出品しました。
招き猫のキルトは、我が家にいる招き猫たちがモデルですが、中にキャラクター猫も交じっていました。ダヤンはわりと知られていて、「うちのタマ知りませんか?」のタマもまあまあ知られている、ヒデヨシは知る人ぞ知る、でも、フジカラーのニャン太を知っている人はほとんどいませんでした。
あんなにあちこちにあった写真屋さんの店先にはニャン太が立っていたのに、日常的に写真屋さんに行っていた人が少なかったのか、ニャン太はほとんど認知されていませんでした。


招き猫キルトの招き猫は全部で110匹で、すべて違う招き猫がモデルですが、ニャン太は2匹もいました。
店先にも立っていた普段着のニャン太と、


祭りのニャン太です。


モデルになった普段着のニャン太は2011年3月11日の地震で割れてしまったので、上の写真のニャンタとはプロポーションが違って、顔が小さめです。
祭りのニャン太は、キルトの台布の大きさが決まっていたので、そのプロポーションでは入りきらず、祭り団扇を省略してしまいました。


一世を風靡した(?)ニャン太ですが、街角で見ることはもうありません。
人知れず消えたニャン太と違って、スイカのペンギンは来年には消えると発表され、惜しまれています。惜しまれても次のアイデアはもう決まっているだろうし、やはり巷では見なくなってしまうのでしょう。

キャラクター招き猫と言えば、『夏目友人帳』のニャンコ先生も数を持っているのですが、招き猫のキルトをつくったころにはまだ、ニャンコ先生のフィギュアを知りませんでした。






2025年11月20日木曜日

「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」

 


NHKの大河ドラマ「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」は、江戸時代に喜多川歌麿など、多くの作家や絵師を世に出した出版元、蔦屋耕書堂の重三郎の物語、いつもは大河ドラマを見ない私ですが、毎週わくわくしながら見ています。
登場人物が多く、複雑に入り組んでもいて、始まったころはその関係性や伏線を見逃してしまうので、何度か見返したりしていましたが、終盤になって重い話が多く、見返すこともなく過ごしていました。
ところが11月16日の44話、「空飛ぶ源内」は意表を突く面白さ、久しぶりに見返してしまいました。


「べらぼう」は、合戦もチャンバラもない大河ドラマと言われ、視聴率もさして上がっていないようですが、チャンバラのない庶民を描いた時代劇が好きな私には、とても嬉しい企画でした。
時代小説では、松平定信やら田沼意次、耕書堂まで、いろいろな作家の手によって、いろいろに描かれています。たとえば、葉室麟の『銀冠の腑』では、松平定信は君子人として描かれていますが、「べらぼう」の中では定信は、熱い心を持ちながらも、質素倹約を推し進めるために世を縛って、蔦屋重三郎から「ふんどし」(越中の守なので、越中ふんどし→ふんどし)と呼ばれて、忌み嫌われる存在として描かれています。いろいろな人が、映像によって顔を持った人として現れてきたので、これから彼らを描いた小説に出逢ったら、「あぁ、あの人だ」と親近感がわくことでしょう。

「べらぼう」では、浮世絵などの再現性が素晴らしい。また、時代劇にしては珍しく、女性が眉を剃っていたり、身体の前で帯を結んでいたり、侍髷と町人髷が違っていたりと当時の風俗に沿っているところも見どころがあります。







2025年11月18日火曜日

カバヤ文庫


日曜日の朝、ちょこっと骨董市をのぞいてみました。


すると、おもちゃ骨董のさわださんの店先に、「カバヤマンガブック」が3冊置いてありました。
「ん? マンガブック?」
マンガブックはいつごろつくられたものなのでしょう? 
私が子どものころ見たカバヤの本は、もっと紙質の悪い、表紙絵が劇画調の「カバヤ文庫」でした。カバヤ文庫は、カバヤキャラメルについてくる文庫券を、確か50点集めて送ると1冊もらえるものでした。
カバヤ食品の会社や工場が岡山市にあったことで、倉敷市に住んでいた私やまわりの子どもたちは、新興のカバヤキャラメルになんとなく親近感を持っていました。
ところが、私を育ててくれた祖母は信念の人で、お菓子はリヤカーを引いて売りに来る行商のおばちゃんからしか買わなかったので、家にあるのはチャイナマーブル、ゼリービーンズ、おせんべいなどの袋菓子ばかりで、お店でカバヤキャラメルを買ってもらったことはありませんでした。
しかし、小学校の同級生で近くに住む、「ふたいとこ」のみねちゃんは年の離れた末っ子だったので甘やかされていて、カバヤキャラメルは買い放題、カバヤ文庫をたくさんそろえていました。2、3冊カバヤ文庫を持っていた人はたくさんいたかもしれないけれど、みねちゃんは桁違い、20冊くらい持っていました。


というか、みねちゃんの本棚にはほかの本はほとんどなかったので、読むより集めることに楽しみがあったのかもしれません。文庫券がたまると、リストから欲しい本が選べたカバヤ文庫は、1952年から54年までのたった2年の間しかつくられなかったみたいですが、それでも174作品もあったそうです。


ウィキペディアによると、カバヤ文庫は全国で、本に飢えていた子どもたちには熱狂的に迎えられたけれど、読み物に加えてマンガをつくったことで教育界から敬遠され、たくさんの在庫を抱えて、子どもたちに本を送ることを断念せざるを得なかったそうです。
確かに、漫画は子どもに与えるべきではない、悪いものと言われていた時代がありました。