2012年4月17日火曜日

農民美術人形

 


骨董市で、がんこやさんが、小さな木彫りの人形をたくさん持っていました。
これまで見たことのないものなので、何だろうと聞いてみると、「農民美術人形」と呼ばれているものでした。


画家の山本鼎(かなえ)は、フランス留学からの帰途、ロシアに半年ほど滞在しました。
そのときロシアで見た、農民のつくった木彫りからヒントを得て、雪深い地域に住む人たちが、農閑期に工芸品をつくり、副収入を得ると同時に、美術的な仕事を通して文化と思想を高める、「農民美術運動」を起こすことにしました。
当時は、雪国では冬には仕事もなく、食べるために子どもを売ったりせざるを得ない人たちがたくさんいました。

1919年(大正8年)に、山本は、郷里長野県の神川小学校の教室を借用して、農民美術練習所を開所しました。1923年(大正12年)には、山本とともにこの運動に携わった金井正の資金援助で、日本農民美術研究所を新築、本格的に木彫りの講習を行うようになりました。
養蚕で財をなした金井がこの運動に使った資金は20,000円、当時は家が40軒建つほどの金額だったといいます。

やがて、農民美術生産組合が組織されるなど、運動は着々と成果をあげました。昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産される ようになりました。
その後、日本各地の物産品として、民芸品がつくられるようになった背景には、農民美術運動の影響が大きかったのでした。


がんこやさんの話では、白樺を彫った農民美術人形は、スキー場などで売られたそうです。昭和の始め、スキー場に行くことができたのはお金持ちの人たちで、彼らは、当時としてはべらぼうに高価だったこの人形を、運動のことを知った上で買いました。
そのため、農民美術人形は昔のお金持ちのお蔵からしか出てこないそうです。

この人形たちは、栃木県の旧家から出てきました。
農民美術人形は、もともと農民の風俗人形でしたが、スキー場、温泉場などで売られていたせいか、スキー、登山、スケートなどスポーツ人形も多いようです。
また、伊豆大島でも盛んにつくられたので、あんこ人形もたくさんあるようです。
ところが、がんこやさんの持っていた人形のかつての持ち主は、子どもの人形が好きだったようで、ほとんどが子守り人形でした。


被布を着た子どもは男の子でしょうか?
角兵衛獅子もかわいくて、昔の子どもの生活が偲ばれます。


一番小さいもので、台座を除いて23ミリという小ささです。

ロシアには、もともと入れ子の卵人形がありましたが、明治のころ箱根の入れ子の七福神を持ち帰った人がいて、それを参考にマトリョーシカがつくられはじめたと言われています。
1900年のパリ万国博覧会で、マトリョーシカは銅賞を得ました。そして、それを契機に盛んに生産されるようになり、ロシアの代表的なおもちゃになりました。

日本の轆轤細工がロシアに行き、ロシアの木彫りが日本に来る。当時は今より格段に遠い国だったロシアと日本に、そんなおもちゃの交流があったのは、興味深いことです。

2 件のコメント:

Shige さんのコメント...

いいなぁ~このタイプの人形!
真似して作りたくなります。

さんのコメント...

Shigeさん
ロシアの木彫りも白樺のようです。白樺は柔らかくて彫りやすいのだそうです。
戦前はアクリル絵の具などなかったと思いますが、泥絵具で色つけも素敵です。
Shigeさんだったら、いろいろな人形が彫れそうですね♪