2013年7月12日金曜日

紋織(四)、ラオスの飾り布


ラオスの古い飾り布です。
複雑な具象の模様で曲線もあり、模様綜絖(もようそうこう)を使うだけでなく、下絵を見ながらいちいち経糸(たていと)を、手ですくいながら織ったかのようにも見えます。
ところが、大きい鹿の間の模様を真ん中にしてを見ると、周りの模様も全部が左右対称になっていることがわかります。
三匹の鹿の部分も、糸の打ち込み具合で幅がちょっと違っていますが、鹿のお尻にはさまれている模様も違うものを差し込んでいますが、基本的には左右対称であることがわかるので、模様綜絖を使って織った布だということがわかります。

最初に、この布のために模様綜絖をつくった人は、どうやってつくったのでしょう?
たぶん、一つ一つ手ですくって、織り機の上で模様をつくりながら、一枚一枚模様綜絖をつくったのではないかと思います。
とても頭の中だけで組み立てられる模様ではない見事さです。
そして、一度つくり上げた模様は、崩さないように、織り終わるたびに綜絖や筬(おさ)経糸(たていと)を残しておいて、何枚も同じものをつくったり、娘に伝えていったものではないでしょうか。

地色になる部分だけ、経糸を模様絖の途中につくった小さな「輪」に通して固定し、模様糸の部分は固定しないでおくと、一枚の模様綜絖を手でつかんで引き上げたとき、地色の部分だけが引き上げられます。
模様糸が表に見える部分は、経糸が引き上げられず、下にさがったままなので、その間を見つけて刀形の板を差し込んで、板を立てます。すると、しっかりした隙間ができるので模様綜をつかんで引き上げていた手を離し、隙間に緯糸(よこいと)を通したあと、刀形の板を抜き取ります。
この刀形の板は、厚みは1センチほど、幅は太ければ太いほど緯糸を通しやすいのですが、経糸を張ってあるので、あまり太いと起こして立てにくいので、幅7、8センチのものを使います。長さはもちろん織りたい布の幅より長いものでなくてはなりません。


私はラオスの刀形の板を持っていませんが、この杼(ひ)は、杼であると同時に、刀形の板としても使われたのではないかと思われます。

もちろん、模様綜絖とは別に、足で踏んで操作する普通の綜絖には一本おきに、交互に経糸を通してあるので、足で綜絖を交互に踏みながら模様綜絖も操作すると、紋織の布が織れるのです。
      

パヴィエンの模様などは、裏表の印象はそう変わりませんが、これは表と裏がはっきりしています。飾り布ですから、表面だけを見ることを念頭に織っています。 
裏は、こんな感じです
   

下の二段は、一般的な紋織と表裏の印象が大差ありませんが、
 

同じ部分の裏、花模様などを見ると、表にだけ模様糸が目立つようにつくってあることがわかります。
  

小さい鹿の模様。


裏はこんな感じです。 


この飾り布は、経糸は絹を使い、地用の黒い緯糸は木綿を使っています。そのため、経緯木綿の布より、ずっとしなやかにできています。



8 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

春さん連日素晴らしい、楽しい模様をありがとうございます。
黒潮につながる世界ですね。
 このところの猛暑を見るとどうゆう生活をして夏を過ごしているのでしょーか、
また雨季の期間とか衛生感覚とか、、、、。
 猛暑で氷類やクーラーに走るのも都会の宿命ですか、
あまりのうがありませんんね。

さんのコメント...

昭ちゃん
猛暑になすすべもなくぼんやりしています。我が家にはエアコンもなく、納涼と言えば水浴びくらい(笑)。
夏ってこんなに暑かったかなとばてばてです。ビールが一番の楽しみだったりして(笑)。
文化の伝播っておもしろいですね。紋織も日本やヨーロッパでは職能集団しかかかわれない形で伝わり、ラオスには誰でもできる形で伝わった、両極端です。また、たしかに黒潮を超えて、深い交流もあったのですね。技術も材料も。羅宇屋はラオス(ラオ)からの言葉、キセルはカンボジア語で空洞のパイプのこと、知ってました?

kuskus さんのコメント...

これだけ手の込んだ模様なのにどこかアバウトで、
ひとの手でしか生み出せない暖かさがありますねー。
布の向こうに織ったひとの人柄が透けて見えるようで
うれしくなります。

さんのコメント...

kuskusさん
あちらこちらに適当さが出ていますが、実際にはこれだけの枚数の綜絖を間違いなく操作しながら、それでも時には経糸も切れるでしょうから、それをつないだり、正しい綜絖をくぐらせたりと、頭の痛くなる作業が延々と続いたことでしょう。
それにもめげず、室内ではなくたぶん外か床下で、周りを鶏や豚や子どもたちが駈けまわるなかでこれだけのものをつくるのですから、到底かないませんね。
お米も毎日臼で搗いて籾摺り精白してと、忙しくも充実した生活が、布に織りこまれているようです。

昭ちゃん さんのコメント...

 春さん
ピッーピーと汽笛を鳴らしてくる羅宇屋は昭和初期の思い出ですが、語源をはじめて知りました。
親交のあった吉村 昭さんと戦前の話して盛り上がったことがありましたが、、、
ありがとうございます。

さんのコメント...

昭ちゃん
あのあたりから煙草が入って来たのでしょうかね。船が煙草を買いつけて、そして日本へ持ってきたという。かぼちゃ(カンボジア)じゃがたら(ジャワ)などなど、近場からも運ばれたのでしょう。
ちなみに、尻尾の短い猫は食料のネズミ除けにマレーシア、インドネシアあたりから乗せられたもので、長崎に着きました。奈良時代の経典と来た尻尾の長い猫が東に多いのに比べ、西には尻尾の短いい猫が多いのはその名残だそうです。

昭ちゃん さんのコメント...

春さん
文化と物流のルートも歴史的に面白いですね、
茶道が始まり各大名が競って焼き物を集めていますからね。
 昔近所の大きな肉屋があり冷蔵庫に担ぎ込まれる牛の半身を担ぐ職人は「アンペラ」で背中にのせました。
漂着ものでもありますが、語源からしてやはりあちらからですね。

さんのコメント...

昭ちゃん
鎖国していたとはいえ、つながりは深かったのですね。アンペラはマレー語、アンペラの茣蓙も熱帯でよく見ました。
今日本から輸出されて、現地の言葉になっている代表的なものは、「カラオケ」や「つなみ」。あまり喜べませんね(笑)。