2014年11月19日水曜日

石碑群


峠を越えて行く道に、石碑を集めた場所があります。
たぶん、もともとはそれぞれの場所に立っていたのに、田んぼの基盤整備や道路建設などに伴って、動かされ、集められたものでしょう。


聖徳太子の石碑は、あまり見かけないものです。
太子講が行われていたのでしょうか?


馬頭尊の数が一番多いのですが、中には庚申塚もありました。


軍馬碑っていったいいつの?
裏に回って見ると、明治二十七年(1894年)とありました。日清戦争用だったのです。


その前の馬頭尊の方が新しく、明治三十二年でした。


ここは加波山の北です。


昔はバスが通っていたのでしょうか、山に囲まれた辺鄙な地域ですが、昔の豊かな生活が偲ばれるように、大きな家が建ち並んでいます。




10 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 戦後初めて聞く言葉に「民主主義・多数決」がありましたね、
続いて農地解放と続く時代を経て今があるのですね。
もう大家族ではないでしょー

さんのコメント...

昭ちゃん
昭和45年(1970年)の日本の道路舗装率はたったの15%ですよ!
30年代は甲州街道だって水戸街道だってでこぼこでした。今、そんな気配もなくて、林道でさえ舗装しています。気候も変わるはずですよね。
大家族はもうないでしょうね。みんなで気持ちを一つにしてしなければならないことが、どこにもないから。
でも、このあたり、景色は昔っぽいでしょう?おもしろいです(笑)。

月琴一代 さんのコメント...

馬の石碑ですか・・・。

平安時代より、ここ石岡市は、馬もまた都へ献上されていたようで公営の馬場もあったようです。また、官人が使う馬の駅も官道沿いに多くありましたから、その名残が明治までつづいていたのでありましょうか。

良いものを見せて頂きました。(感謝)

さんのコメント...

月琴一代さん
これまでも、馬を大切にしたという話は知っていましたが、最近になってその愛情はすごく深いものだったんだろうなとしみじみ感じるようになりました。
そんな馬を、もし徴用ではなく献上したとしたら、徴用も辛いけれど他人のせいにできる、でも献上なら自分の決心ということで、死ぬまで割り切れない気持ちが残ったのではないかと想像します。
それにしても、「農耕に牛」は関東以西ですが、牛の碑は聞いたことがないのが、ちょっと気にかかります(笑)。

月琴一代 さんのコメント...

「馬が大切」と言えば、明治生まれだった故祖母の話ですが、「うまは、はんしんしょ」と言うておりました。財産の半分という意味で、嫉みから付け火に遭い屋敷を二度、三度と焼かれた折に、引っ張り出そうとしても火の付いた納屋からはいくら打っても出てこないでそのまま焼いてしまったと、その後の没落を悔しがっては同じ昔話を繰り返しておりました。


あぁ、ほんとうに、牛の碑ってのは、見たことが無いですね先ほど、ブタ複数がトラックの荷台に乗せられて往くがの後続車として走って参りました。あ、何処へ・・・、あの世へか、スーパーのパック棚か・・・はてなむ。

昔、売れない司会者をしておりました頃に、写真屋のバイトで牛久大仏にお見えになった団体客相手に、ガイドしつつ団体写真を売りつけるっていうしょうもない事を少しの期間やったことがあるんですが、その折、仲間より聞いた話でございますが、すぐ近くに入浴剤から興った企業で現在は主に漢方薬を製造している会社もありまして、そこの現像を請け負いますと、多種多様々なる動物の目も当てられぬ実験の様ばかりらしいのですが、ある日の写真は、供養の祭礼の様子で、実験動物碑を建立していたとか・・・。

なんといいますか、牛にしろ、ブタにしろ、山であれ、川であれ、人の心の思ふままに、私たちはその上につつがなくも生きておりますね。

いつも大変参考になる記事を読ませて頂き、感謝しております。

さんのコメント...

月琴一代さん
おっしゃる通りです。おっしゃる通りです。人類だけがのさばる社会は未来が見えませんが、それでも供養するのはまだましと考えた方がよいのでしょうか。
豚はどこへ連れて行かれるか知っていて、すさまじい声で鳴きます。山羊もそうです。でも羊は殺されるとき、鳴かないでじっと目を見ると言う話を、友人から聞いたことがあります。
ちょうど今、月一回の豚肉をいただきに行って来たところです。自分で殺せないならせめて、知っている人が育てている知っている豚をいただきたいと、定期的に分けていただいています。こういう生活ができるから、八郷暮らしは嬉しいですね。

Bluemoon さんのコメント...

関西出身ですが、牛の碑というものも見聞きしたことがなく、どうしてないのだろうと考えました。

読んでいる本『世紀を超えるいのちの旅』(高良留美子さん)に、大地母神的な母権的文化が低落して父権的文化になり、天武天皇の時代には母権的文化のシンボルの牛の神話がほとんど消されたことが書いてありました。となると、馬(権力者が乗る)は、父権的文化のシンボル? となると、馬は男性で、牛は女性? 投票権もなかった女性。牛の碑は必要ないと判断された? こんなことを考えました。

さんのコメント...

Bluemoonさん
ものすごく深淵に考えましたね。
馬頭観音は、インドのハヤグリーヴァの日本版で、忿怒相をもっています。しかし一般には馬の無病息災の守り神として信仰されていたようで、そう古いものではなく、明治に入ってから信仰されるようになったようです。
ということは、馬頭観音と軍馬慰霊碑は、やっぱり同じ文脈の中にある可能性が大きいかもしれません。自分の村や家族、精いっぱい広げても藩のことしか考えなかった人々に富国強兵を叩き込み、これらの碑は軍馬として取り上げる免罪符だったんじゃないでしょうか?
もともと気候の関係で、農耕に東では馬が西では牛が使われていました。ただでさえ冷害で飢饉に逢い易かった東北の人たちは、馬も取られて大変だったことでしょう。
牛は郷土玩具や神社の授与品などには多く見られますし(馬も絵馬をはじめ多いけど)天神さまも牛にまたがっているし、そう軽視されたというわけじゃないのでは?ただ、馬ほど供養しなくてはいられないほどの後ろめたさがなかったかもしれません。
Bluemoonさんの仮説を読ませていただいて、私も考えてみました(笑)。

bluemoon さんのコメント...

天神さまと牛。そうですよね。天神祭は好きです。以前に暮らしていた所の近くの神社に、大宰府に左遷される菅原道真公が腰を掛けて休憩された石があり、石は腰掛石、神社横の道は左遷道と呼ばれていました。
後ろめたさがない(牛さんごめんなさいですが)、これですよね。納得しました(笑)
前述の本の中にも、東北の冷害と飢饉のことが書いてありました。稲作には適していない気候のところに江戸に上納するのを目的に水田開発されたなど。
馬と交流するには精神面の安定が必要なので、その特徴を生かして精神治療に用いている医師や刑務所があると主人が話していました。うま年、あとひと月になりましたね。

さんのコメント...

Bluemoonさん
稲は熱帯のものですから、生育期間の長いものしかなかった時代は大変でした。だから新潟で早生の「越光」が開発されたりしたのですね。また、藁がない、もみ殻がない、ぬかもないというのも大変だったみたいです。1993年は冷害で、福島あたりのササニシキは穂を垂れていませんでした。それ以後、ササニシキは廃れましたね。
八郷で、馬セラピーの牧場をやっている人がいます。馬と聞くだけで「成金趣味」と反応する私は(笑)、もちろん近づきもしませんでしたが、最近、「馬がいてこそ有機農業が完成する」と農耕馬を買ったこうじくんにはすっかり降参しました。そういう考え方もあったのです。
また、セラピーの牧場のメンバーになって馬に乗っている友人に聞くと、「馬の目がいい」と言います。そう言ってもお金との交換だと思ってしまう私は了見の狭い人間です(笑)。
実際は、馬を飼うとなると、飼うだけの度量もお金もかかることは理解できるのですが。
100年ほど前の、イギリスやアメリカの小説に出てくる、いい馬を見わける目のある人、乗りこなしの上手な人、何はさておいても馬の手入れをする人などなど、そして何より元気な馬、なんか、とってもかっこいいですよね。