2025年8月25日月曜日

若宮正子さんの終戦の夏

Facebookに、若宮正子さんが終戦記念日の前日に、1945年8月15日のことを書いていらっしゃるのを読みました。
読み切りかと思っていたら、それからも敗戦の日とその後のことを連載されました。10回連載と長かったのですが、とても興味深かったので、文とともにFBにUPされた写真や絵も転載させていただきました。ご本人にも転載の了解をいただいています。

今年も全国を飛び回っている、大阪万博会場の若宮さん。写真はfbからお借りしました

ITエヴァンジェリスト(ITの伝道師=ITの普及者)の若宮正子さんは1935年生まれの今年90歳、終戦の時は10歳でした。2017年に81歳でiPhoneのゲームアプリを開発した、世界最高齢のプログラマーです。

以下、若宮正子さんの物語です。


80年前のこと(1)

明日は終戦の日ですね。
 なぜか、80年前のあの日のことはわりとはっきり覚えています。
 夏休みでしたし、お盆ということもあり、今の兵庫県豊岡市のはずれにある母方の伯父の家に行くことにしました。自宅から乗り換えも含めて4時間ぐらいかかりますが、当時は10歳のこどもがひとりで旅をするのは珍しいことではなかったのです(戦争中は子供が「こども」をやっている余裕がなかったのでしょうね)。
 ということで、江原の駅を降りますと駅の待合室に大きな掲示が貼ってありました。大きな白紙に「本日、正午に重大放送があるので聴くように」みたいなことが太い立派な墨字で書いてありました。
 伯父の家に到着すると、伯父に「駅にこんな掲示が出とったでぇ」と話しました。叔母は「きっと、お偉いお方が『もっと精出して働け』と言わはるんやろう」と言いましたが、伯父は「違う。『もう戦争負けたんです。降参ですぅ』と言わはるんやろ」というのです。叔母は「あんた、そんなこと言うたら憲兵に引っ張られまっせ」と言いました。そうこうしているうちに村の人たちが伯父の家に集まってきました。伯父はささやかではありましたが地主でしたし村長をしていたこともあったのでラジオを持っていたのです。しかし普通の家ではラジオを持っている家は少なかったのです(この写真は1941頃、東京にいた時の写真です。戦争中の写真は、これしか持っていません)。

80年前のこと(2)
 放送がはじまりました。畳の部屋でしたが、だれも声を掛けなかったのに、全員が起立しました。
 それまでも「勅語」というものは、何度も聞かされました。学校で祝日などの「お式」のときに校庭で校長先生が読み上げるものでした。教育勅語などは何度も聞かされたので小学校4年生だった私も現在でもまだほぼ憶えています。
 伯父さんがラジオをつけますと、少し甲高い男性の声が聞こえてきました。話の内容はわかりませんでしたが悲しそうな声でした。玉音放送というのは「天皇陛下によるスピーチ」という意味なのですね。この時初めて知りました。実際、天皇陛下のお声が「放送」されたのは、この時がはじめてだったようです。お話が進むうちに集まって聴いていた大人の何人かが涙を拭いたり、鼻をすすったりし始めました。天皇陛下のお話が終わりますと、アナウンサーが事務的な調子で話を始めました。ポツダムという単語が出てきたことは覚えています。
 放送が終わると、伯父が私に向かって「あのなぁ。日本は、国がはじまって以来、初めて戦争に負けたんやで」と言いました。近年「パラダイムシフト」なんて言う言葉を聞きますが、あの「1945/8/15の放送」こそが、私の知っている範囲では、最も「パラダイムシフト」という言葉にピッタリな出来事だったと感じます。
80年前のこと(3)
 この雰囲気から真っ先に抜け出したのは伯母です。「あら、もう1時半やないの?お腹空いたでしょう。大勢やからうどん打ちましょ。みんな手伝って」と言って、大きな鉢やら麺棒やら「うどん打ちの道具」を台所から持ってきて、その場に並べました。
 捏ねた小麦粉の塊を唐草模様の風呂敷で包んでから、伯母は「あんた、これを足で踏みなさい」と言いました。 大釜にお湯を沸かして、生のうどんを茹で、井戸水で晒すのです。このやり方は当時の標準的な「うどん」の打ち方でした。
 みんなでいただきました。美味しかったです。うどんを食べ終わると伯父が「夏休みやから泊っていてもええのやろうけれど、今日はいったん家に帰りなさい。おかあちゃんやって心配しているかも知らんし。この先何も起こらへんと思うけれど、わからんから」と言います。そして私の子供用のリュックサックに少しのお米と(当時は農村でもお米は貴重品です)と蒸かしたお芋さんなどを詰めてくれました。外まで送ってくれて「汽車が走っておらんとか、なにかあったら戻ってきなさい」と言いました。
 庶民の家には電話さえ普及していないときのことです。親と連絡を取ることはできない。何かあったとしても自分のアタマで考えて行動するしかないのです。
 駅へ行く道も、何も変わったことがありませんでした。こんにゃく屋さんはいつも通り店が開いていてこんにゃくを売っていました。駅へ行ってみると、いつも通り、駅員さんがいて乗客も何人かいました。そして汽車が盛大に煙を吐きながらやってきました。
これが戦争に負けた日の町の様子でした
80年前のこと(4)
 ここで少し、当時の状況を説明させていただきます。
 当時、東京に住んでいた私は、1945年3月に学童疎開で長野県の鹿教湯温泉に連れて行かれていました。疎開先では食糧不足のため、常にひもじい思いをしていましたが、その3月下旬、鹿教湯温泉の亀屋旅館に父がやって来たのです。
 父は三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)の社員でした。父の説明によると、空襲が日に日に激しくなり、丸の内や日本橋にあった会社の多くが、安全な場所へ本社機能を移し始めていたとのことでした。父の勤め先は鉱山会社でしたから、各地にいわゆる「過疎地」の事業所を持っており、その中から父は郷里に近い兵庫県の生野鉱山への転勤を選んだようです。
 そのため、私はもう「東京都民」ではなくなるので、学童疎開を続ける必要はなくなり、父は私を迎えに来て、一緒に兵庫県の生野鉱山へ引っ越すことになったのです。当時は「単身赴任」という考え方はなく、転勤といえば家族全員で移動するのが当たり前でした。子どもも父の転勤のたびに転校を繰り返していたのです。
 さらに、生野鉱山が選ばれた理由には「捕虜収容所」の存在もあったのかもしれません。そこには英国、米国、オーストラリアなどの捕虜が収容されていました。政府は、捕虜を会社に預けて管理させると同時に、労働力として活用することを求めていたようです。
 また会社側にとっても、捕虜収容所はある意味「安全弁」の役割があったのでした。収容所の屋根には国際条約に従い「POW(Prisoner of War)」と大きく書かれており、爆撃される可能性が低いと考えられていたからです。敵が誤爆すれば、自国の捕虜が犠牲になる危険があるためです。そうした理由から、生野鉱山は比較的安全な場所とされ、本社機構の一部を移すことになったのでしょう。
80年前のこと(5)
 結局「日帰り」のお出かけになりましたが、行きは「戦中」、帰りは「戦後」という不思議なお出かけになりました。
 家に帰りますと母が「戦争が終わったらしいのよ」と言います。「誰から聞いたの?」といいますと「隣の奥さんが知らせに来てくれたのよ」と言います。それで母が「どっちが勝ったのですか」と隣の奥さんに聞きましたら、隣の奥さんは「戦争が終わったそうです」とまたそれだけ言って帰られたそうです。
 そうこうしているうちに父が会社から帰ってきました。そして「戦争が終わったらしい」とそれだけ言います。
 町のなかの様子も変わりありませんでした。
 ただ、日が暮れると、あちこちの家から明かりが漏れているのに気が付きました。戦争中は、電灯を大きな風呂敷で覆い、外から明かりが漏れないようにする「灯火管制」が行われていたので、町のなかはほぼ真っ暗だったのです。米軍機による空襲を逃れるためだったのです。この夜からその必要がなくなったということなのですね。
 まあ、8月15日はそのままで変わったこともなく過ぎて行ったと記憶しています。
80年前のこと(6)
 ところが、翌日、8月16日は違いました。
 わが町、兵庫県生野町へ米軍機B29らしきものがやってきてビラを撒いたのです。
 ビラには英語と日本語で、このようなことが書いてありました(父は書棚から「コンサイス英和辞典」を引っ張り出してきてビラを読んでくれましたが、結局和英両語とも、下記のような文言が書かれていたのだそうでした)。
 『戦争は終わった。連合軍(アメリカと戦争しているつもりだったのですが「敵は連合軍」だったのもその時知りました)は、捕虜を解放する。ついては今日、大きな荷物をいくつか投下する。これらは捕虜のためのものであるから、日本人は、「持ち帰ったり」「開けてみたり」「触ったり」してはいけない。違反すると厳罰に処せられるであろう』みたいなことが書かれていました。そのあと、大きな荷物がいくつも投下されました。
 その日の午後です。それまでボロボロの服装だった捕虜たちがピッカピッカの新しい軍服に着替えて町へやってきたのです。
そろって道路をタッタカタッタカと歩きながら歌なんか歌っていたのです。
 父の話では「It's a Long Way to Tipperary」という歌で、第一次世界大戦のころに流行った歌だそうです(余談ですが、私の父は「会社で出世すること」と「お金を儲けること」についての才能には恵まれていなかったのですが、なんでもよく知っている人でした)。
80年前のこと(7)
 ところで、町を闊歩している「勝者たち(アメリカ兵)」は、子どもたちに「チョコレート」や「チューインガム」を少しだけ配るのでした。でも、多くの子どもたちは手を出しませんでした。本当は死ぬほど欲しかったのですが。
 「なぜか」ですが、「敵国だった人たちからのもらい物だから用心した」子どももいたようです。
 ただ、我が家の場合は、父から「みっともないからやめなさい。昔から『李下に冠を正さず』『瓜田に履を納れず』という言葉がある。敗戦国の子どもだからといってみっともないことはしないように」と言われていたからです。ちなみに父は武家の出身ではありません。だた「日本人としての矜持」を大切にしていたのでしょうね(母は、「そんなことを言っている場合じゃないのに」と言い、やや批判的でした)。
 アメリカ兵たちにも「こういう日本人の精神構造」が理解できたのでしょう。彼らは「次の手」を考えました。
 彼らの代表が生野の小学校へやってきました。そして校長さんと会って「自分たちは音楽会をやりたいので音楽室とピアノを使わせてほしい」と申し入れたのです。もちろん反対するわけはありません。その晩は、アメリカ式のにぎやかな音楽会を深夜までやっていたそうです。
 それから数日後、アメリカ兵たちは、例の「チョコレートやガム」を小学校へ届けに来て言ったそうです。「音楽室を使わせてもらったお礼です」と。
80年前のこと(8)
 さて、ここで「連合軍」という言葉がでてきましたが、まあ、実質的には「米軍」です。
 第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍、その総司令部は「GHQ」という名前で我々の前に現れました。われわれは、彼らを「進駐軍」という名前で呼んでいました。彼らは統治者ですから、日本政府のお触れなどにも「GHQの命により」という枕詞がついていました。絶対的な存在だったのですね。
 そして、このGHQ のオカシラが、ダグラスマッカーサー元帥だったのです。。
 戦争中は「さあ来い、ミニッツ・マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」なんて歌が流行っていましたが、くだんのマッカーサー氏が、最高司令官として厚木の飛行場へやってきたのですね。まあ、分かりやすく言えば「出てきちゃった」のです。そして「わしは天皇陛下よりもエライんだ」と言っていたのです。
 一か月前は「必勝」のために死に物狂いで「鬼畜米英ぶっ飛ばせ」なんて言っていたのに。日本のオトナが「これから先はアメリカ様様だ」と言っているのを見てどうしても納得がいきませんでした。
 でも、こういうことって親には聞けないことです。私は、朝鮮半島から命からがら引き揚げてきた父の姉である伯母に聞きました。彼女は「ああ、あの時はみんなそう思ったのよ」と言ってケロッとしていました。

80年前のこと(9)
 なお、オトナになってから、マッカーサー元帥が宿舎にしていた横浜のホテルニューグランド、ここは戦災に遭わず奇跡的に焼け残ったのですが(米軍が占領後の宿舎として使うためにわざと残したという説もあります)、数年前に支配人さんに確認のため伺ったところ、だいたい下記のごとき状況だったようです。
 終戦直後、マッカーサー氏が横浜山下公園のホテルニューグランドにやってきたとき「食事がしたい」と仰せられたのだそうです。そんなことを言われても「お食事が出せるような状況ではない」わけです。「食材がないのでディナーなど差し上げられるような状況ではありません」とお断りしたのですが「『何でもいいから食べさせろ』と仰せられておるので何とかしろ」とのお達し。
 仕方なく従業員食堂の食材(カボチャのつる、大豆粕なんかでしょうか)を調理してお出ししたところマッカーサー氏は「こんな家畜の餌」みたいなものを出すということは、やっぱり対米感情が悪いということだな」と感じた。そして「何か他に無いのか」と怒鳴った。そうしたら、ホテルの社長さんが出てみえて「これ以上のものはありません、うちだけでなく、横浜全部、いや日本じゅう探しても無理です」と言われました。マッカーサー氏は「そうか」と言って帰って行ったそうです。
 翌日、このホテルへ米軍のトラックが来て、パン、バター、コーヒー、ビスケットなどの大箱を置いて行ったそうです。この時点では進駐軍は当時の民情を分かっていなかったのですね。
80年前のこと(10・最終回)
 よく「占領下で暮らしていたら『心穏やかならざること』が多かったでしょう」と聞かれることがあるのですが、それほどは感じませんでした。
 というのも「戦争中」のほうがいろいろ制限が多かったからだと思います。とにかく「米英と戦争しているのだから英語を使ってはならぬ。野球を見に行っても『ワンストライク・ツーボール』なんて言っちゃあいけない『イチヨシ・ニダメ』と言いなさい。また『アナウンサー』のことは「報道員」と言えとか。
 でも、まあ、これらは何とか理解できます。ところが『ドレミ』もいかん、『ハニホ』と言いなさいーーーこれにはビックリでした。
 学のある人たちからは「ドレミ」は英語ではない、強いて言えばイタリア語じゃないか、イタリアは友好国ではないのか(当時「日独伊三国同盟」というのがあった)、というご意見もあったようです。が、軍部のお偉いさんは「聞く耳」持ちません、早く言えば「カタカナ語」は全部イカンみたいな姿勢でした。
 しかし、戦時中は、小学校で音感教育を盛んにやっていたのですね。空襲警報が出て敵機が近づいているときに「あれは『B29戦闘機』の音だ」と判別できるように。
 進駐軍(占領軍)は、そういう点では『干渉』はなかったように感じました。強いて言えば、戦争好きの日本人を平和好きに変えることが占領目的のキモですから、「刀=兵器」という発想から「チャンバラ」のような「音」には干渉があったようです。 
 昭和39年のNHK連続テレビドラマ「赤穂浪士」でさえ、NHKからテーマ音楽担当の芥川也寸志さんへ「カシャ」っていう音を入れないでほしいと言ったそうです。
 GHQは「アメリカの悪口でない限りは「風刺」はOK」と言っていたようです。「日曜娯楽版」なんて番組は、ピリッと風刺が効いていて、イマドキの放送より質が高く面白かったですよ。
以上、若宮正子さんのお話でした。

2 件のコメント:

hiyoco さんのコメント...

あまり悲壮感のない終戦の日のお話に、少しホッとしながら一気に読んでしまいました。義母曰く、疎開生活を満喫していた小学5年生の叔母を思い出しました。
「戦争好きの日本人」というのがちょっとびっくり。そう捉えたことがなかったです。

匿名 さんのコメント...

hiyocoさん
みんなこんなもんだった、終わってほっとしたのでしょうね。
夫に疎開の話を聞いたら、そのころ鵠沼に住んでいたのですが、相模湾から米軍が上陸してくるという噂があり、親戚一同で栃木県の山の中の家(どんな関係だったか知らない)に、親戚一同で疎開していたのですが、一緒に疎開していたいとこをいじめて悪かったそうです(笑)。
「戦争好きの日本人」とは、日清日露戦争の勝利で浮かれていた日本人だったのでしょうかね。