八郷は、奈良時代に石岡に建てられた国分寺、国分尼寺の瓦を焼いた窯跡が見つかった、瓦焼きに歴史のある土地です。
瓦は田んぼの土を使いますから、谷津田を開拓するのと、瓦用のよい土が豊富に手に入ることはセットになっていたのでしょうか。
八郷には、今でも瓦屋さんがたくさんあります。しかし、おおかたの瓦屋さんは瀬戸、淡路島などから瓦を取り寄せていて、自分のところで焼いていません。
自分でも瓦を焼くのはS瓦屋さんだけ、もっとも土は群馬の藤岡から取り寄せています。
夫が話をしている間、私は勝手に休日の瓦工場見学です。
瓦を焼く窯は、二つありました。
この中で、いぶし焼きにして、いぶし瓦を焼くのです。
瓦は専用の、可動式の棚にぶら下げて焼くようです。
「ん?細い棒は何かしら」
瓦をぶら下げる棚には、細い棒の瓦がぶらさがっています。
上から抜いてみると、釘の形をした瓦でした。
瓦を留めるのに使うのでしょうか?
昔の瓦は、単純な形をしていて、大きい地震などではずるずると滑り落ちました。でも今の瓦は、複雑な凸凹形で、組み合わさって滑らないようになっています。
釉薬を掛けた瓦も、こうやって見るととっても素敵ですが、屋根に乗せると、よさが消されてしまいます。
この日、瓦屋さんは近くの古刹、板敷山大覚寺の会館の上棟に行くところでした。聞けば、本堂の屋根の葺き替えも終わったばかりだそうです。
いつの時代だったのか、色のついた釉薬瓦が流行った時期がありました。その時期に大覚寺は、萱葺きから瓦葺きに替えたので、青い瓦を使っていました。
年月が経ち、北側が苔むして傷んだので葺き替えたそうですが、今度は焼締め瓦(いぶし瓦)にしたそうです。
さて、瓦屋さんの蔵の鬼瓦、遠目にも、ものすごく立派です。
下屋(げや)の鬼瓦でさえ、この立派さ。
蔵の棟木(このあたりではうしと言う)には、鏝絵(こてえ)が一般的ですが、さすが瓦屋さん、瓦でつくった家紋をつけていました。
窓の飾りも立派、五重塔などにある木の組み方、何と言う組み方だったか、凝っています。
2 件のコメント:
先日テレビ偶然ですがみました。ただ残念なことに「流し」で洗い物しながら聞いていて、「石岡の古い看板建築」「やさと」「自分で家を建てている」等を耳にしてハッと画面に向いたときには後ろ姿が映ってました。茅葺の民家がたくさん残っている集落というのは新聞や何かで何度も聞き知っていたのですが、すぐ近くなのですか?瓦焼にはちょっと興味があって自分でも那智石のようにしっとり黒い瓦質にやくことができないかと思っていますが難しそうで、、。地元にまだ焼いている家があるなんてすごいですね。ただ昔の瓦焼とは焼〆方とか還元とかやり方が違うんでしょうか。今戸焼の流れの植木鉢屋さんなんかは茨城県内のほうにもある、とか呼んだように憶えてますし、手あぶりや猫行火など質的には今戸焼といっても差し支えないようなものを茨城県内の古物業者さんから買ったことが何度もあるので、瓦も関係ないことはないんだろうと思います。
いまどきさん
後姿を見ていただいて、ありがとうございます(笑)。三日がかりで5時間ぐらい撮影して、放映時間は、1分ぐらいでしたかね。
この瓦屋さん、もちろん昔のだるま窯とは違い、温度調節などは、もしかしたらコンピュータがするのでしょうか。一枚一枚ばらばらにして焼くので、煙の当たり具合も均等になるので同じ瓦ができます。
群馬県の藤岡にはいまでも昔ながらのだるま窯があり、五十嵐さんという方が焼いていらっしゃいます。我が家も母屋に瓦を葺くとき、最初はこれを考えました。ところが、4枚ずつ束ねて(重ねて)焼くため、瓦の色に規則的にむらができます。それを順番に並べると、色がむらがあるのに規則的に並ぶ感じで、夫が視覚的に使うのを嫌がりました。また、私は昔ながらの方法で焼きながら、ということは温度にもむらがあり、瓦に水が染みるのもあるのに、瓦の下地に土を使わず、ルーフィングというシートを使うことに納得できないものがあって、結局、だるま窯で焼いた瓦を使うのはやめました。
でも八郷に住む建築家の友人は、自宅にも、頼まれた家にもだるま窯の瓦を使っています。昔の瓦の家も瓦の色にむらがあります。ただ、これを屋根の上で、順番を変えながら、あっとランダムに葺くというのは、重いし不可能でしょうね。
骨董市で手あぶりはそう見ませんが、焼き締めのこたつやあんかは割とよく見ます。茨城は全国一の知名度のない県であり、一番魅力のない県ですが(笑)、そこが面白いです。とっても気に入っています♪
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