2011年8月19日金曜日

アシャンティの分銅



1960年代の半ば、アフリカはいまより、ずっと遠いところでした。
すでにジェット旅客機は開発されていましたが、航空機もプロペラ機が主流でした。アフリカまでの行程も遠いのですが、コンピュータはもちろんのこと、通信機器がいまとは全然違いました。
電話もなく、もし緊急で日本に連絡したいなら、車で六時間かかる首都アクラまで行き、中央郵便局で電報を打つくらいしか、方法がありませんでした。

そんな、ガーナの地方都市クマシで、私たち夫婦は単調な、でも楽しい暮らしを送っていました。
出会うのはいつも同じ人たち、休日にどこかへでかけようとしても、三方向に伸びている道は、少々ドライブしたくらいでは、ただの森の中で、どこにも到達しないので、出かけることもありません。
週数回買い出しに行く、アフリカ一大きいクマシ市場は、わくわくするところですが、いつも人で押し合いへしあいしています。そして、きゅうり一本買うのにも値段交渉しなくてはならず、行く前にエネルギーを蓄えておく必要がありました。

そんな生活の中、月に一度ほど、骨董品や工芸品を頭に担いで、数人並んで、ふいに音もなく庭先に訪れる行商人たちは、また来たかと思うような、だけど待ちどおしいような存在でもありました。

ハウサ人(おもにナイジェリア北部やニジェール南部に住む)の行商人が多かったのですが、中にはヨルバ人(おもにナイジェリア南西部に住む)などもいました。彼らは、民族として、商業に長けた人たちでした。

行商人は、テラスや居間で荷をほどき、いろいろ並べて見せます。
いつも、なんでも、
「古い、古い」
と言いますが、それはただの枕詞です。
おもしろい品揃えの行商人もいれば、なんの興味もそそられないものばかり持っている行商人もいました。




お面、彫像、楽器、織物などいろいろあるなかに、金の重さを計る分銅、ゴールドウエイトもありました。おもに青銅でできています。

ガーナのアシャンティ人が住む辺りでは、かつて金が豊富に産出され、クマシを中心に大きく栄えていました。やがて、ヨーロッパ人が金を欲しがるようになり、金を積み込む港のあたりは、イギリス人から黄金海岸(ゴールドコースト)と呼ばれるようになりました。
金をまるごと奪おうと、イギリスはクマシを中心に金で栄えていたアシャンティに戦いを挑み、三度目の戦いでアシャンティを破り、内陸制覇を果たしています。

西アフリカの南海岸は、黄金海岸の他に、象牙海岸、奴隷海岸と呼ばれる地域がありますが、どの海岸も悲しい歴史を背負っています。
金や象牙が根こそぎ略奪され、人が根こそぎ拉致されていきました。




一度に一つ、二つと手に入れた分銅が、二年もいるうちに少しずつ増えていきました。
一番大きいもので、3センチ四方くらいの大きさです。
実際に分銅として使われていたのかどうかはわかりませんが、どれもすべすべ、まったりしていますから、手から手へと、かなり使われていたもののようです。

「印」のようにも見える分銅は、とかげやその他、いろいろのものを描いてあります。
下段真ん中は、アシャンティの王様が座る椅子を描いているもののようです。




この本(『ぼくはまほうつかい』マーガレット・コートニー=クラーク写真、アートン)の中で、男の子が頭に乗せているのが、上下逆さまですが、「アシャンティの椅子」です。
(アシャンティの椅子の写真が他になかったのですが、子どもがこの本のように晴れ着であるケンテをまとうことはありませんし、ケンテを着て、北や南に旅することもありません)




梯子のような模様のものがいくつかありますが、どんな意味があったのでしょうか?




西アフリカには、優れた金属加工文化がありました。
もっとも有名なのはベニンですが、見事な彫像や装飾品の数々は、ほとんどイギリス人によって略奪されました。
アシャンティ人も金属加工に優れている民族のひとつで、村では今も蝋型鋳物づくりが続いています。




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