2016年7月18日月曜日

富山招き猫



以前はよくコメントをくれていたtopcatさんですが、私のブログに(技術的に)コメントできなくなって、もう数年経つかと思います。
そのtopcatさんから、facebookを通じて、昨日の招き猫にコメントが届きました。


全体の作りが何となくうちの富山の土人形(こちらは狐ですが)に似ているので、恐らく富山の土人形じゃないでしょうか」

富山土人形も、耳が尖っているのは見たのですが、表情だけに注目していたので見落としていました。
 
『招き猫尽くし』より

もう一度、『郷土玩具 招き猫尽くし』(荒川千尋著、板東寛司写真、日本招猫倶楽部、1999年)をひっくり返して見ると、富山人形の中に、身体の横に金鈴をつけた猫がいました。
顔は似ていませんが、ほかに、鈴を横につけた猫は見たことがないので、昨日の招き猫は富山土人形に間違いないでしょう。
この猫の背中には、「加賀猫寺」の文字が刻まれていて、授与品だったのか、あるいは単なる土産物だったのか、仔細はわからないそうです。

富山人形といえば、これといった特徴がない人形で、小ぶりで、膠が多くて色が剥げやすい、という、あまりよくない印象を持っていました。
でも、それは違ったかもしれません。この中央で割れた前垂れの招き猫は、高さが20センチほどあります。

『招き猫尽くし』より、渡辺信秀さんの招き猫
 
富山土人形の窯元は、戦前は数軒ありましたが、戦後も残って制作を続けたのは、渡辺信秀さんだけでした。

『招き猫尽くし』より、「とやま土人形工房」の招き猫

そして、渡辺さんがお亡くなりになったあと、有志の婦人たちによって「とやま土人形工房」が立ち上げられ、今も制作を続けています。

『招き猫尽くし』より

これは、加賀猫寺の猫同様、古作の富山土人形です。
伏見人形の子福猫を真似ていますが、大きな耳、ユーモラスな顔が伏見人形とは違います。
もしこの本に、これが富山土人形として載ってなかったら、どこのものか悩んでしまうほど、私の富山人形のイメージとは、かけ離れています。

また、topcatさんから、
「横っちょの剥がれは、生地に胡粉をかける前に、強度の弱い型の合わせ目に紙を貼ってあったものが、歳月のうちに浮いて剥がれたか、紙魚にたべられたかして失われたんではないでしょうか。手持ちのものにも似たような症状があるので、憶測ですがそう思いました」
とありました。
さすが、人形修理もしているtopcatさんのご意見、まさにその通り、疑問氷解です。


さて、富山招き猫を見返していたら、挙げた左手が、型でつくったものではなく、左手のない猫をつくって、後から手びねりした手をくっつけてあることがわかりました。
「ひゃぁぁ、あり得ないよ。こんなつくり方!」
土人形づくりの常識をあっさり捨てて、型抜きと手びねりを組み合わせています。どうりで、左手の甲がつまんだみたいにへこんでいたはずでした。
おおらかで、細かいことは気にしない、いい加減な人がつくったにちがいありません。


ただの剥げた招き猫ですが、いろいろ語ってくれます。
これをつくったおじいちゃん(きっとそう)に、お会いしてみたいものです。  








8 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

納得のいく素晴らしいコメントですね、
こんなに早く解決するとは、、、、。
さすがアンテナが広いですね。

さんのコメント...

昭ちゃん
狭いけれど、性能のいいアンテナでした(^^♪

昭ちゃん さんのコメント...

お助け4号に聞いたら朝ドラは
「暮らしの手帳」が発足するドラマなのですね、
この雑誌は当時あらゆる器具を徹底的なテストで分析した
花森泰〇さんの雑誌でしたね。

さんのコメント...

昭ちゃん
そうです。これからの変身を際立たせるためか、昭和21年12月になったというのに、まだ女性がモンペを履いています(涙)。しかも三姉妹のうちの下二人のモンペは赤っぽい色です。私の母は戦時中えんじ色の羽織を着ていたら、「ご時世をわきまえない非国民」という表題つきで、後姿が朝日新聞に載せられていたそうです(笑)。だから、赤いモンペはあり得ないと思います。

昭ちゃん さんのコメント...

モンペの色に驚きましたその通りでGパンのズボンも私は昭和27年でした。
26年まで気球隊の服を着て襟は上衣に出していました。
まな板脚がないよー(笑い)
時代考証の稲垣先生は予算の都合でもその時代にない橋を渡ってはいけないっと。
大名によって江戸城に入る門が違うとか、
だから突然城内にいる場面にするとか面白いですね。

さんのコメント...

昭ちゃん
Gパンを昭和28年とは早いですね。そんなもの見たこともなく、私はまだ国防色のギャザースカートをはいていました(それはないか、笑)。
暮らしの手帖の直線裁ちが、巷に浸透したかどうか、勝鬨橋を見に行ったとき、母が縞の布でつくった全円の形をしたフレアースカートをはいていて、風が吹いて歩きにくそうだったのを覚えていますが、それが昭和28年ごろだったと思います。

昭ちゃん さんのコメント...

  わー共通点だー
子供の頃から勝鬨橋は風が強く晩生の私ですが着物姿の女性は
裾がめくれて大変でしたよ。(大笑い)
春さんの子供時代はどこですかー

さんのコメント...

昭ちゃん
私と弟は、普段は祖父母に預けられて倉敷で暮らしていましたが、両親は私が小学一年生くらいから東京で暮らしていました(戦後ゆえ、その陰にはいろいろ事情が、笑)。そのため、三年生くらいから毎年夏休みは東京でした。なかなか祖母が孫を離さなかったのですが、中学半ばから、弟は小学校高学年から、姉弟ともに祖母を捨てて(?)東京です。受験とかなんとか言って、父が説得したみたいでした。