2025年2月3日月曜日
炭坑で使われた箕
2月3日、箕の日です。
箕に関する記事がなかったり、箕の日を忘れたりして11月、12月には箕の話を書かなかったので、久々の箕の話です。
『筑豊炭坑絵巻 新装改訂版』(山本作兵衛の絵、海鳥社、2011年、底本は葦書房版で1973年)に掲載されている絵に描かれている箕に注目してみました。
『炭鉱(ヤマ)に生きる-地の底の人生記録』(講談社、2011年、オリジナルは1967年)の表紙にもなっている、坑内で使う道具を説明した絵によると、炭坑では切羽用と、持ち手のついた箕の、2種類の箕が使われていました。「切羽」とは坑道の先端の採掘場、あるいはその採掘面だけを指す言葉です。
以下、箕が描かれた絵を並べてみます。女性は上半身裸ですが、明治・大正時代は坑内が暑くなくても裸で働くことが一般的だったとか、カンテラから着物に引火して火事になるのを恐れていたのかもしれません。また、男女ペアで働く絵が多いのですが、夫婦一組で働くことが一般的だったそうです。
ちなみに明治の「裸」の概念は、今とは全く違います。確か『逝きし世の面影』だったと思いますが、明治に日本を訪れた西洋人が書いた文を集めている中に、当時、町の湯屋は混浴だったというのがあります。湯屋の前を西洋人が通ると、入浴中の老若男女みんなが表に裸で出てきて彼らを眺めた、それを楽しみにわざわざ湯屋の前を通る西洋人もいたし、宣教師たちは混浴や、裸を道路でさらすことを戒めたが、裸を嫌らしいと思う西洋人たちの方が嫌らしいのではないかと書いていた西洋人もいました。
男性が切羽を引き受け、石炭を掘り出します。その石炭を女性がカキイタを使って箕に収め、スラに移します。
女性が背に背負っているのは、スラを引くための紐、カルイです。
こちらは持ち手のついた箕です。
夫が体調を崩したときなど、女性でも切り出しを行う勇婦もいました。
坑内では、箕だけでなくほかの竹でつくられた道具も使われました。床が軟弱だったり高さがなくてスラ(木箱)やバラスラ(竹製のスラ、どちらも2枚目の絵を参照)が使えないところでは、底に割り竹をつけた長い籠のバッテラを使いました。
バラスラ。
背負子のカライ(呼称がかるいに似ている)も竹で編まれています。
これもバッテラのようです。
持ち手のついた炭坑で使う箕を、廣島一夫さんも編まれたことがあるのかもしれません。
それにしても、山本作兵衛さんの絵は素晴らしい、そしてわかりやすい。カンテラやわらじなど細部もきちんと描かれていて、本当に貴重な資料となっています。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿